第二話:硝子の靴のすり合わせ
一週間後。竹中は、三軒茶屋にある薄暗いアンティークショップの隅で、置時計の秒針が刻む音を数えていた。
「ごめん、竹中さん。待たせたかな」
背後からかかった声に、竹中は肩を震わせた。振り返ると、そこには黒いタートルネックにタイトなスラックスを合わせ、キャメルのロングコートを羽織った明智が立っていた。今日の彼女は、フランスの古い映画から抜け出してきた青年のようだ。
「……明智さん。黒田は?」 「彼女なら、急に仕事が入ってね。少し遅れるそうだ。それまで僕と二人で、この静寂を楽しもうじゃないか」
明智はそう言って、細い指先でアンティークの指輪が並ぶショーケースをなぞった。その仕草一つに、店内の埃さえもキラキラと輝く粒子に見えてしまうから不思議だ。
「あのさ、明智さん。単刀直入に聞くけど」 「なんだい? 僕の顔に、何か汚れでもついているかな」 「それ。その喋り方。……疲れない?」
竹中の言葉に、明智の指がピタリと止まった。彼女はゆっくりと顔を上げ、影の落ちた瞳で竹中を見つめた。
「疲れる……? 意味がわからないな。僕は、僕として生きているだけだよ」 「嘘。あんた、さっき店に入る時、自動ドアに映った自分の前髪、三回も気にしながら直してたやん。しかも、さっきからずっと腹式呼吸やし。そんな男の人、おらんから」
明智の眉が、わずかにピクリと動いた。彼女は周囲に客がいないことを確認すると、ふっと肩の力を抜いた。その瞬間、ピンと張っていた空気が、風船から空気が抜けるように緩んだ。
「……竹中さん、だったよね。君、観察力が鋭すぎるよ」
その声は、低く作られたものではなく、柔らかく落ち着いた女性本来のトーンだった。明智は棚に寄りかかり、溜息をつく。
「黒田さんの前では、絶対に見せないでくれよ。彼女、僕が少しでも『揺らぐ』のを、何より嫌うから」 「やっぱり、無理して演じてるんやんか。なんで? あんな黒田の言いなりになって。あんたほどの美人なら、普通にモデルでも何でもできるやろ」
明智は、遠くを見るような目で、小さなブローチを手に取った。
「普通……か。僕には、それが一番難しかったんだ。劇団にいた頃も、何をしても中途半端。女らしく笑えば不自然だと言われ、男を演じれば迫力が足りないと言われた。居場所なんて、どこにもなかった」
彼女の指先が、微かに震えている。
「でも、黒田さんは違った。僕の中に、彼女だけの『王子様』を見出してくれた。彼女の指示通りに動いて、彼女が望む言葉を口にする。それだけで、僕は世界で唯一無二の存在になれるんだ。……これって、立派なハッピーエンドだと思わないかい?」
竹中は絶句した。それは依存であり、呪いだ。しかし、明智の顔には、今まで見たこともないような穏やかな、少女のような笑みが浮かんでいた。
「……ハッピーエンドって。あんた、自分の人生、黒田に明け渡していいの?」 「明け渡しているんじゃない。共有しているんだよ。彼女の夢を、僕が形にしている。これは、共犯なんだ」
そこへ、店の重い扉が開く音がした。カツカツという、硬いヒールの音。
「お待たせ。二人で何を内緒話してたの?」
黒田だった。彼女は竹中と明智の間に割って入ると、明智の襟元を、母親が子供の服を整えるような手つきで、しかし有無を言わさぬ圧力で正した。
「明智さん。さっき、少し声のトーンが上がってなかった?」 「……気のせいだよ、黒田。竹中さんに、アンティークの魅力を熱弁していただけさ」
一瞬で、明智の瞳に「王子様」の冷徹な光が戻った。彼女は黒田の腰に手を回し、竹中に向かって完璧なウィンクを決めた。
「ねえ、竹中。明智さんって、本当に素敵でしょ? 私の最高傑作なの」
黒田が竹中の耳元で囁く。その声には、狂おしいほどの所有欲と、獲物を自慢する子供のような無邪気さが混ざっていた。
竹中は、自分の掌が汗で湿っていることに気づいた。 明智は共犯だと言った。でも、その瞳の奥には、出口のない迷路を彷徨うような孤独が、確かに張り付いていた。
「……さて。次はどこへ行こうか。僕の愛しい監督さん?」
明智が恭しく手を差し出す。黒田はその手を満足げに取り、二人は店を出て行った。 残された竹中は、二人が見ていたショーケースを覗き込む。そこには、ガラスでできた、脆くて履けない靴が飾られていた。
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