深夜コンビニ退職願添削室
緋月カナデ
深夜コンビニ退職願添削室
深夜二時のコンビニエンスストアは、水族館に似ている。
無機質なLEDの光に満たされ、冷蔵ケースの駆動音が低い水音のように唸り続けている。
客という名の魚影はほとんどなく、レジカウンターの中にいる僕は、さしずめ暇を持て余した飼育員といったところだ。
だが、今夜の水槽には一匹だけ、厄介な深海魚が居座っている。
イートインコーナーの隅。四人掛けの席を一人で占拠し、頭を抱えている女だ。
年齢は二十代後半だろうか。くたびれたベージュのトレンチコートに、乱れた茶髪。テーブルの上には百円のホットコーヒーと、大学ノート、そして夥しい量の消しゴムのカスが散乱している。
彼女はここ三日間、毎晩この時間に現れては、鬼気迫る形相でノートに何かを書き殴り、唸り声を上げ、また消しては書き直している。
はっきり言って迷惑だ。
僕は文学部の三年生で、卒論のテーマ選びという高尚な悩みがあるのだが、彼女の放つ負のオーラが気になってカントもヘーゲルも頭に入ってこない。
「あー、もう! 全然まとまらない!」
静寂を切り裂く悲鳴。彼女がシャープペンシルをテーブルに叩きつけた。
僕はため息をつき、モップを手にする。これは「掃除をするフリをして圧をかけろ」という、コンビニバイトに伝わる無言の防衛術だ。
スニーカーの底を擦らせながら、わざとらしく彼女の席に近づく。
「お客様、そろそろ清掃の時間でして……」
声をかけようとした瞬間、ノートの文字が目に飛び込んできた。
『一身上の都合により、限界が来ましたので、もう無理です』
退職願だった。しかも、驚くほど語彙力がない。
彼女は涙目で僕を見上げた。目の下にクマができている。
「ねえ店員さん」
「……はい」
「『一身上の都合』って、具体的にどこまでが都合?」
「は?」
「だから、上司の鼻毛が出ているのが生理的に無理で、会議中にそれにしか目が行かなくて仕事にならない、っていうのは『一身上の都合』に入る?」
僕はモップを持ったまま絶句した。青春とは無縁の灰色の学生生活を送ってきた僕だが、こんなにしょうもない問いかけをされたのは初めてだ。
「……それは、入るんじゃないですか。広義には」
「でもさあ、それだと私のこの三日間の苦しみが伝わらなくない? もっとこう、ガツンと響く、格好いい辞め方ないかなあ」
彼女は再び頭を抱えて机に突っ伏した。冷めきったコーヒーの微かな香りと、安っぽい紙の匂いが混ざり合って漂ってくる。
僕は本来、他人の人生になど一ミリも興味がない。バイトは生活費を稼ぐための労働であり、それ以上でも以下でもない。
だが、文学部生としての矜持が、目の前の惨状を見過ごせなかった。あの文章はひどい。美しくない。「限界」とか「無理」とか、感情語をそのまま垂れ流すのは三流のやることだ。
「……貸してください」
「え?」
「赤ペン、持ってますか」
彼女はきょとんとして、ペンケースから赤いボールペンを取り出した。僕はノートを引き寄せ、その拙い退職願の隣に、さらさらと書き添えた。
『一身上の都合、では弱いですね。この場合、美的意識の相違、あるいは生理的嫌悪に基づく労働意欲の減退、とでも記すべきでしょうか』
彼女が目を丸くしてノートを覗き込む。
「なにこれ、すごい。賢そう」
「事実をただ書くのではなく、構造化するんです。それが文章というものです」
「構造化……? なにそれ、建築用語?」
「似たようなものです。要は、事実の組み立て方を変えて、読み手の印象を操作するんです」
「へえー……よく分かんないけど、なんかプロっぽい」
「プロではありませんが、技術です。……ちなみに、鼻毛以外には?」
「えっとね、あの課長、貧乏ゆすりのリズムが独特なの。タン、タン、タタタン、って変拍子で。それが気になってエクセルの入力ミスしちゃうの」
「なるほど。聴覚的ハラスメントによる業務遂行能力の阻害ですね」
僕はさらに書き加える。深夜二時半。水族館のようなコンビニの片隅で、僕と彼女の奇妙な添削指導が始まった。
翌日の深夜も、彼女は現れた。もはや常連だ。僕はレジ打ちの合間に、彼女が持参した新しいノート(昨日のページは破り捨てられていた)に目を通す。
「どう? 今日はちょっと文学的にしてみたんだけど」
彼女は誇らしげに胸を張る。トレンチコートの下は、今日も地味なオフィスカジュアルだ。ノートにはこうあった。
『拝啓、春の気配も整い始めた今日この頃、課長の咀嚼音(クチャクチャ)は、まるで沼地を歩く水牛の如く私の鼓膜を震わせます』
「……比喩が独特すぎます。あと、退職願に『拝啓』はいりません」
「えー、ダメ? 水牛だよ? 力作なんだけど」
「悪口としては百点ですが、退職願としては零点です。もっとこう、簡潔かつ冷徹に、相手に『あ、こいつを手放すのは惜しいな』と思わせるような格調高さが必要です」
「難しいなあ、ブンガクって」
彼女は唇を尖らせ、百円のコーヒーをすする。
僕はいつの間にか、この奇妙な添削作業を楽しみにしている自分に気づいていた。
大学での僕は、周囲の「ウェーイ」なノリについていけない、いわゆる陰キャだ。サークルにも入らず、飲み会も断り、ひたすら本を読んで過ごしてきた。言葉だけが友達だった。
けれど、この社会に疲れ果てた名もなきOLは、僕の言葉を必要としてくれている。たとえそれが、退職願というネガティブな文書のためだとしても。
「店員さんはさ、なんでそんなに言葉を知ってるの?」
彼女が不意に尋ねてきた。
「文学部なんで。小説とか読むのが好きなだけです」
「ふーん。じゃあさ、私の今の気持ち、小説っぽく表現してみてよ」
「今の気持ち?」
「そう。会社に行きたくない、上司の顔も見たくない、でも家賃のために行かなきゃいけない、このドロドロした感じ」
無茶振りだ。だが、不思議と嫌ではなかった。僕は少し考え、レシートの裏にボールペンを走らせる。
『毎朝、改札を抜けるたびに、私は自分の魂を少しずつ削り落として、定期券のチャージに換えている』
彼女に手渡すと、しばらくじっとその文字を見つめていた。店内の有線放送から、流行りのJポップが微かに流れている。冷蔵ケースのブーンという音が、低く響く。
「……すごい」
彼女がポツリと言った。
「なんか、スッキリした。そうか、私、魂削ってたんだ」
「比喩ですよ」
「ううん、本当だよ。削れて粉になって、床に落ちてる気がするもん」
彼女は笑ったが、その笑顔はどこか泣き顔に似ていた。ふと、彼女の手元を見る。指先がささくれ立っている。爪も短く切り揃えられ、マニキュアも剥げかけている。生活の匂い。労働の手触り。
僕のようなモラトリアムの中にある学生にはない、確かな重みがそこにはあった。
「よし」
彼女は顔を上げた。
「明日は決める。最高傑作を書いて、あの課長の机に叩きつけてやる」
「期待してますよ」
僕は軽口で返したが、胸の奥で何かがチクリと痛んだ。
退職願が完成すれば、彼女はもうここには来ない。この深夜の秘密の教室は閉講となる。それは、物語の結末としては正しい。正しいはずなのに、僕はなぜか、書きかけの小説を終わらせたくない作家のような気分になっていた。
三日目の夜。外は冷たい雨が降っていた。自動ドアが開くたびに、湿ったアスファルトの匂いが店内に流れ込んでくる。
彼女はびしょ濡れの傘を畳みながら入ってきた。
「寒い……」
「いらっしゃいませ。傘、ビニールに入れてくださいね」
「厳しいなあ、先生は」
彼女は悪戯っぽく笑い、いつもの席に座った。今日こそが決戦だ。彼女はカバンから、いつもの大学ノートではなく、きちんとした白い便箋と封筒を取り出した。
「清書用、買ってきた」
「準備万端ですね」
「うん。店員さん、最後のアドバイスお願い」
僕はレジカウンターから出て、彼女の向かいに座った。深夜三時。客は誰もいない。
彼女は黒のボールペンを握りしめ、白い紙に向かっている。その横顔は真剣そのもので、まるで爆弾処理に挑む兵士のようだ。
「理由は、やっぱり『一身上の都合』にする。先生の言う通り、ごちゃごちゃ書くのは美しくないから」
「賢明な判断です」
「でも、最後の一文だけ、私の気持ちを込めたいの。感謝でもなく、謝罪でもなく、ただ『私は私を取り戻す』っていう宣言みたいな一文。……なんて書けばいい?」
彼女は僕を真っ直ぐに見た。その瞳の奥には、三日前の疲れ切った色はなく、奇妙な熱が宿っていた。
言葉を託されている。僕のちっぽけな語彙力が、一人の人間の人生の岐路に立っている。僕は目を閉じ、思考を巡らせる。
雨音が遠くで響く。レジの裏でコーヒーメーカーが洗浄を始め、シュコーという蒸気の音を立てた。身体の感覚が研ぎ澄まされる。
彼女の怒り、悲しみ、そして渇望。それらを濾過して、一滴の雫にする。
「……こう書きましょう」
僕は彼女の持っていたペンを取り、便箋の隅に小さく書いた。
『尚、私の人生の所有権は、貴社には帰属しておりません』
彼女はその一文を読み上げ、小さく吹き出した。
「なにそれ、生意気」
「そうですか? 事実でしょう」
「うん。……最高に事実」
彼女はペンを受け取り、清書を始めた。紙の上を走るペン先の音が、心地よいリズムを刻む。サッ、サッ、と迷いのない線。
文字には不思議な力がある。形を与えることで、曖昧だった感情が質量を持ち、現実を動かす力になる。
書き終えた彼女は、便箋を三つ折りにし、封筒に入れた。糊付けをする音が、やけに大きく響いた。
「できた」
テーブルの上に、白い封筒が置かれた。それはまるで、研ぎ澄まされた刃物のように見えた。
「ありがとうございます、先生。おかげで完璧な武器ができた」
「武器、ですか」
「そう。これがあれば、私はいつでも戦えるし、いつでも逃げられる」
彼女は熱いコーヒーを一口飲み、ふう、と息を吐いた。
その時だった。彼女がおもむろに封筒を手に取り、それをまじまじと見つめた。次の瞬間、彼女はそれをビリリと破いた。
「え?」
僕は思わず声を上げた。彼女は止まらない。ビリビリ、ビリビリと、三日間かけて練り上げた完璧な退職願を、さらに細かく引き裂いていく。
白い紙吹雪がテーブルの上に散らばる。
「ちょっと、何してるんですか! 僕の監修が!」
「あはは、ごめんごめん」
彼女は声を上げて笑っていた。目尻に涙が浮かんでいるが、それは悲しみの涙ではなかった。
「なんかね、書いたら満足しちゃった」
「満足?」
「うん。私、辞めたかったわけじゃなくて、ただ『辞められる』って確信が欲しかっただけなのかも。あの上司も、会社も、言葉にして封筒に閉じ込めちゃえば、こんなにペラペラな紙切れ一枚なんだなって思ったら……なんか、怖くなくなっちゃった」
彼女は破れた紙切れを指先でつまみ上げる。
「水牛の鼻息も、変拍子の貧乏ゆすりも、明日からはネタとして観察できそう。先生みたいに『構造化』してやればいいんでしょ?」
僕は呆気にとられ、それから脱力して笑ってしまった。コメディだ。完全にコメディだ。
僕たちは真夜中に大真面目な顔をして、なんの役にも立たない紙切れを作っていたことになる。だが、その徒労感が、なぜだかひどく心地よかった。
「先生、これ処分しといて」
彼女は破いた紙の山を指差した。
「自分で捨ててくださいよ」
「えー、サービス悪いなあ」
彼女は立ち上がり、トレンチコートを羽織った。背筋が、三日前よりずっと伸びている。
「ありがとう。おかげで明日は会社に行けそう」
「……そうですか。それは何よりです」
「あ、ちなみに先生」
自動ドアの手前で、彼女が振り返った。
「その『先生』って呼ぶのやめてください。まだ学生なんで」
「じゃあ、後輩君で。……君さ、就活とかあるんでしょ?」
「ええ、まあ。気が重いですけど」
「大丈夫だよ。君の言葉、ちゃんと響いたから」
彼女はウィンクをして、雨上がりの夜明け前の街へと出て行った。残されたのは、テーブルの上の紙クズの山だけだ。
僕はモップではなく、掌でそれを集める。ザラリとした紙の感触。インクの匂い。そこには確かに、彼女の鬱屈と、それを乗り越えようとした熱量が残っていた。
ゴミ箱に捨てようとして、手が止まる。僕はその中から、『私の人生の所有権』と書かれた断片だけを拾い上げ、エプロンのポケットに入れた。
外はもう明るくなり始めている。空の色が、群青から薄紫へとグラデーションを描いている。
世界は相変わらず理不尽で、面倒くさいことばかりだ。けれど、言葉があれば、僕たちはほんの少しだけ強くなれるのかもしれない。
少なくとも、嫌な上司を水牛に変える魔法くらいは、僕たちは使えるのだから。
僕はポケットの上から、その紙切れを一度だけ強く握りしめた。
「いらっしゃいませ」
早朝の最初の客が入ってくる。僕の声は、昨日よりも少しだけ、はっきりと響いた気がした。
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あとがき
読了ありがとうございました
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現在noteに掲載していた作品群を手直ししてカクヨムに投稿し始めたので、今回のお話が気に入って頂けたのなら、作家フォローもよろしくお願いします
深夜コンビニ退職願添削室 緋月カナデ @sharaku01
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