第3話:メッキの剥離、綻ぶ日常

公園での「秘密」の約束から一ヶ月が過ぎた。季節は秋の気配を深め、街路樹の葉が赤や黄色に色づき始めている。私と莉奈ちゃんの秘密の関係は、その後も続いていた。麗華さんの目を盗んで公園で会うこともあったし、義実家での集まりでは、テーブルの下でこっそりと手紙の交換をしたりもした。莉奈ちゃんが拙い字で書いてくれる「ゆいちゃんへ だいすき」というメッセージは、私の宝物になった。


その絆が深まるにつれて、私の心にあった麗華さんへの恐怖心は、静かな怒りと、莉奈ちゃんを守らなければという使命感へと変わっていった。智也は相変わらず「姉さんは悪気がないんだ」と繰り返すばかりだったけれど、私はもう彼の言葉に傷つかなくなっていた。私が守るべきものは、夫のご機嫌ではなく、傷つきやすい小さな女の子の心なのだから。


そんなある日、義母から一本の電話がかかってきた。


「結衣さん、週末の予定は空いているかしら? 莉奈ちゃんの幼稚園で、お遊戯会があるのよ。麗華がね、ぜひ結衣さんたちにも観に来てほしいって言ってるの」


お遊戯会。その言葉に、胸がざわついた。麗華さんが、私を招待する? いつも私を疎ましげに見ているあの人が? 嫌な予感しかしない。きっとまた、何かマウントを取るための舞台装置として、私たちを呼びつけたいのだろう。


断ることも考えた。でも、電話口で「莉奈ちゃんも、結衣ちゃんが来てくれたら喜ぶわって言ってたのよ」と弾んだ声で話す義母の言葉を聞いて、断れなくなった。何より、莉奈ちゃんの晴れ舞台を、私もこの目で見たいと思ったのだ。


「はい、ぜひ伺わせていただきます。陽翔も連れて行って大丈夫でしょうか?」

「もちろんよ! 楽しみにしてるわね」


電話を切った後、私は大きなため息をついた。これは、戦いだ。莉奈ちゃんのための応援であり、麗華さんの虚飾に満ちた世界との、静かな戦いになる。


そして、お遊戯会当日。会場である幼稚園のホールは、我が子の成長を一目見ようと集まった保護者たちの熱気でむんむんしていた。ビデオカメラや一眼レフを構える父親たち、お洒落をした母親たち。その中でも、ひときわ目を引く親子がいた。


「あら、結衣ちゃん、智也くん、来てくれたのね!」


麗華さんだ。彼女は、まるでファッション誌から抜け出してきたような、完璧な親子コーディネートでそこに立っていた。上品なツイードのジャケットに、同じ生地で作られた莉奈ちゃんの小さなワンピース。髪型もメイクも、一分の隙もない。彼女の周りには自然と人だかりができていて、他の保護者たちから「麗華さん、今日も素敵!」「莉奈ちゃん、可愛い!」と賞賛の声が飛び交っていた。


「まあ、皆さん、大げさよ。今日は莉奈が主役なんだから」


そう言いながらも、麗奈さんは満更でもない様子で微笑んでいる。その姿は、まるでレッドカーペットを歩く女優のようだ。私は陽翔を抱きしめ、智也の後ろに隠れるようにして、その輪から少し離れた場所に立った。今日の私は、目立たないように、ごく普通のシンプルな服装を選んできた。主役は、あくまで子どもたちなのだから。


「結衣ちゃんは、本当に地味な格好が好きよね。せっかくのお遊戯会なのに、もったいないわ。まあ、陽翔くんがまだ小さいから、動きやすさ重視ってことかしら」


わざわざこちらにやってきた麗華さんが、私を上から下まで値踏みするように見て、そう言った。また始まった。私はもう慣れたもので、曖昧に微笑んで「ええ、まあ」とだけ返した。


「莉奈、いいこと? 今日の主役はあなたなのよ。一番可愛く、一番上手に踊るの。ママ、客席からちゃんと見てるからね。莉奈ならできるわよね?」


麗華さんはしゃがみこみ、莉奈ちゃんの肩を掴んで強い口調で言い聞かせている。それは激励というよりは、命令に近い響きを持っていた。莉奈ちゃんは、こくこくと小さな頭を縦に振っているが、その顔は緊張で真っ白だ。瞳には、不安の色が濃く浮かんでいる。


やがて開演のブザーが鳴り、私たちは指定された席に着いた。義母と義父も一緒だ。


「麗華は本当にすごいわねぇ。仕事もして、家事も育児も完璧で。莉奈ちゃんも、あんなに綺麗なお洋服を着せてもらって、幸せな子だわ」


義母が心底感心したように呟く。私は何も答えなかった。麗華さんのインスタグラムを信じきっている義母には、あの完璧な笑顔の裏に隠された娘の涙が見えていないのだ。


プログラムが進み、いよいよ莉奈ちゃんのクラスの出番が来た。幕が上がると、色とりどりの衣装を身につけた園児たちがステージに並んでいる。その中で、ひときわ豪華な衣装を着た莉奈ちゃんは、センターの位置に立っていた。緊張しているのか、その体は小刻みに震えているように見える。


軽快な音楽が流れ始め、子どもたちが一斉に踊り出す。ほとんどの子が、楽しそうに、あるいは少し照れくさそうに、一生懸命に体を動かしている。けれど、莉奈ちゃんだけが、その場に固まったまま動けずにいた。


「……え?」


私の隣で、麗華さんが息を飲むのがわかった。

莉奈ちゃんは、真っ青な顔で客席の一点をじっと見つめている。その視線の先には、厳しい顔で娘を睨みつける麗華さんの姿があった。きっと、練習では完璧に踊れていたのだろう。しかし、本番のプレッシャーと、母親からの「一番でなければならない」という無言の圧力が、五歳の子どもの小さな体を縛り付けてしまっていた。


「莉奈……何やってるの……踊りなさい……!」


麗華さんが、周りに聞こえないくらいの小声で、けれど、鋭く囁く。その声は、莉奈ちゃんには届いているはずだ。しかし、それは彼女をさらに追い詰めるだけだった。莉奈ちゃんの大きな瞳から、ぽろりと涙が一粒こぼれ落ちる。


ああ、だめだ。このままじゃ、この子は壊れてしまう。

そう思った瞬間、ふと、莉奈ちゃんの視線が客席を彷徨い、私と目が合った。その瞳は、助けを求めるように揺れていた。


私は、どうするべきか一瞬迷った。ここで私が何かをすれば、麗華さんのプライドを傷つけることになる。家族間の亀裂は、さらに深まるだろう。でも。

でも、目の前で怯えているこの子を、見捨てることなんてできない。


私は、にっこりと微笑んだ。そして、誰にも気づかれないように、そっと口を動かした。


『だ・い・じょ・う・ぶ』


声には出さない。ただ、唇の動きだけで、そう伝えた。そして、踊りの振りに合わせて、小さく頷いてみせる。大丈夫だよ。上手じゃなくてもいい。間違えてもいい。楽しんでおいで。私の想いが、どうか届きますように。


すると、奇跡が起きた。

私のメッセージを受け取った莉奈ちゃんの瞳に、ふっと光が宿ったのだ。彼女は一度、ぎゅっと目を瞑り、次に開いた時には、もう母親の方を見ていなかった。私だけを、まっすぐに見ていた。


そして、音楽のフレーズの切り替わりに合わせるように、莉奈ちゃんの体がゆっくりと動き出した。最初はぎこちなかった動きが、次第に音楽に乗り、滑らかになっていく。センターというプレッシャーから解放されたかのように、彼女は一つ後ろの列の子と同じように、ただ純粋に、踊ることを楽しんでいるように見えた。その表情は、もう怯えてはいなかった。柔らかく、自然な笑顔が浮かんでいる。


「……よかった」


思わず、安堵のため息が漏れた。私が莉奈ちゃんの見事な復活劇に感動していると、隣から、歯ぎしりでもするようなギリギリという音が聞こえてきた。麗華さんだ。彼女は、娘が自分ではなく、嫁である私を頼ったという事実が許せないのだろう。その横顔は、嫉妬と屈辱に歪んでいた。


そして、その一部始終を、私たちのすぐ後ろの席で、もう一人の人物が静かに見ていたことに、私は気づいていなかった。義母の美津子さんだ。


「……すごいわ、莉奈ちゃん。見事に踊りきったわねぇ」


曲が終わり、盛大な拍手がホールに響き渡る中、義母がぽつりと呟いた。その声には、いつものような手放しの賞賛とは違う、何か考え込むような響きがあった。


「ええ、本当に。立派でしたね」


私がそう答えると、義母は私の顔をじっと見つめて言った。


「結衣さん……あなた、さっき、莉奈ちゃんに何かしたの?」


どきりとした。見られていたのだ。


「いえ、何も……莉奈ちゃんが、自分の力で頑張ったんですよ」


私はとっさにそう答えたが、義母は納得していないようだった。彼女は、ステージ上で固まってしまった孫娘、それを厳しい顔で叱責する娘の麗華、そして、優しい笑顔で孫娘を励ました嫁の私、その全ての光景を目に焼き付けていたのだ。


「そう……そうよね。莉奈は、強い子だものね」


義母はそれ以上は何も言わなかったが、その視線は、麗奈さんに向かう時、かすかな疑念の色を帯びていた。


お遊戯会が終わり、私たちはロビーで着替えを終えた莉奈ちゃんを待っていた。


「ママ、ごめんなさい……最初、上手に踊れなくて……」


麗華さんの元へ駆け寄った莉奈ちゃんが、不安そうに母親の顔を見上げる。普通なら、ここで「よく頑張ったね」と抱きしめてあげる場面だろう。しかし、麗華さんは冷たく言い放った。


「本当に、肝心な時に使えない子ね。あれだけ練習したのに、恥をかかせないでちょうだい」


その言葉に、莉奈ちゃんの顔からさっと血の気が引く。


その時だった。


「麗華」


静かだが、有無を言わせぬ声で、義母が娘の名前を呼んだ。


「莉奈は、立派に踊りきりましたよ。あなたは母親なんでしょう? まず、褒めてあげるのが筋じゃないのかしら」


義母の言葉に、麗奈さんはもちろん、智也も、そして私も驚いて目を見開いた。いつも娘を盲信していた義母が、初めて麗華さんを咎めたのだ。


「お母さん……? 何を言うの、私は莉奈のために……」

「本当に、莉奈ちゃんのためだったのかしらね」


義母はそれだけ言うと、ふいと顔をそむけた。麗華さんは、信じられないという顔で母親と私を交互に見て、悔しそうに唇を噛み締めている。


完璧だったはずの「理想のママ」という舞台。その厚いメッキが、今、目の前で音を立てて剥がれ落ちていく。それは、とても静かだが、決定的な綻びだった。


私と莉奈ちゃんの間に芽生えた小さな絆が、意図せずして、この家族の偽りの均衡を崩し始めたのだ。クライマックスは、もうすぐそこに迫っていた。

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