第2話:秘密の約束と深まる絆
先日の義実家での出来事から数日経っても、私の心の中には、ざらりとした砂が残ったままだった。麗華さんの刺々しい言葉。見て見ぬふりをする夫の智也。そして、私の腕の中で静かに涙を流した、莉奈ちゃんの小さなぬくもり。思い出すたびに、胸の奥がきゅうっと痛む。
「あー、うー!」
足元で、息子が私を見上げて声を上げる。どうやら、絵本を読んでほしいらしい。私は胸の中の澱んだ感情を追い出すように、にっこりと微笑んで陽翔を抱き上げた。
「はいはい、陽翔くん。今日はどの絵本がいいかな? ぞうさんにしようか、きりんさんにしようか」
この子の屈託のない笑顔と、ミルクの甘い匂い。それが、ささくれ立った私の心を癒してくれる唯一の薬だった。保育士を辞めて専業主婦になってから、社会から切り離されたような孤独を感じることもあったけれど、この子の成長を一番近くで見守れることは、何にも代えがたい幸福だ。麗華さんのように、SNSで誰かに「いいね!」をもらわなくても、私の毎日は確かに満たされている。
そう、満たされているはずなのだ。それなのに、あの日の莉奈ちゃんの潤んだ瞳が、どうしても頭から離れない。
「よし、陽翔。今日はいいお天気だし、少し大きな公園まで行ってみようか」
気分転換も兼ねて、私はいつもより少し足を延ばすことにした。ベビーカーに陽翔を乗せ、お茶とおやつをマザーズバッグに詰める。家から歩いて十五分ほどの場所にある、緑豊かな公園。そこには大きな滑り台や砂場があって、平日でもたくさんの親子連れで賑わっている。
公園に着くと、子どもたちの甲高い笑い声が迎えてくれた。陽翔をベビーカーから降ろし、よちよちと歩くその後ろをついていく。色とりどりの花が咲く花壇を抜け、広い芝生の広場に出た、その時だった。
視界の隅に、見慣れた小さな後ろ姿が映った。ブランコに一人、ぽつんと座っている女の子。母親とお揃いだったワンピースとは違う、けれどやはり少し背伸びしたようなブランドのロゴが入った服。麗華さんの娘、莉奈ちゃんだ。
「莉奈ちゃん……?」
思わず声が出た。なぜ、こんなところに一人で? 麗華さんはどうしたのだろう。きょろきょろと周りを見渡すが、それらしき姿は見当たらない。他の母親たちは、それぞれ自分の子どもから目を離さず、楽しそうに話したり、一緒に遊んだりしている。その輪の中に、莉奈ちゃんは入ることもできず、ただ地面を爪先で蹴りながら、寂しそうにブランコを揺らしていた。
胸騒ぎがして、私は陽翔を抱き上げると、そっと莉奈ちゃんに近づいた。
「莉奈ちゃん、こんにちは。どうしたの、一人で」
私の声に、莉奈ちゃんの小さな肩がびくりと震えた。ゆっくりとこちらを振り返った顔は、驚きと戸惑いに彩られていたが、私だとわかると、その大きな瞳がわずかに和らいだ。
「……ゆい、ちゃん」
「うん、結衣ちゃんだよ。ママは一緒じゃないの?」
「ママは……あっち」
莉奈ちゃんが力なく指さしたのは、公園の入り口近くにある、お洒落なオープンテラスのカフェだった。ガラス張りの店内を凝視すると、見覚えのある横顔が見えた。麗華さんだ。彼女は一人ではなく、同じくらいの年頃の女性たち、おそらくママ友なのだろう、数人とテーブルを囲み、楽しそうにお喋りに興じている。手元のスマホをいじりながら、時折、大きな口を開けて笑っている。
その光景に、私の心臓は冷水を浴びせられたように冷たくなった。
あれが、「見守る育気」だというのだろうか。ここからカフェまでは、軽く五十メートルは離れている。何かあっても、すぐに駆けつけられる距離じゃない。五歳の子どもを一人で公園に放置して、自分は友達とのお喋りに夢中になる。これが、インスタグラムで何千もの「いいね!」を集める『#理想のママ』の正体なのだ。
怒りが、ふつふつと腹の底から湧き上がってくる。でも、それを莉奈ちゃんの前で出すわけにはいかない。私は深呼吸を一つして、できるだけ穏やかな笑顔を作った。
「そっか。ママ、お友達と楽しそうだね。莉奈ちゃんは、ここで待ってるの?」
「……うん。でも、つまんない」
俯いてぽつりと呟く莉奈ちゃんの声は、今にも消えてしまいそうだった。
「ママ、いつもスマホばっかり見てるの。莉奈がお話しても、うん、うん、って言うだけ。ちゃんと聞いてくれない」
堰を切ったように、莉奈ちゃんの口から本音がこぼれ落ちる。私は黙ってその隣にしゃがみこみ、陽翔を膝の上に乗せたまま、莉奈ちゃんの顔を覗き込んだ。
「幼稚園であったこと、お話ししたいのに。『あとでね』って言われて、でも、その『あとで』は全然こないの」
潤んだ瞳が、私をじっと見つめている。この子は、聞いてほしかったのだ。自分の話を、ただ真剣に聞いてほしかったのだ。私は、ゆっくりと頷いた。
「そうだったんだね。幼稚園で、何かあったの? 結衣ちゃんに、教えてくれるかな」
「……いいの?」
「もちろん。結衣ちゃん、莉奈ちゃんのお話、聞きたいな」
私の言葉に、莉奈ちゃんの表情がぱっと明るくなった。
「あのね、今日ね、お絵描きの時間があったの! 莉奈ね、うさぎさんの絵を描いたんだよ。先生にね、『とっても上手だね』って、お花の丸をもらったの!」
「わあ、すごいじゃない! どんなうさぎさんを描いたの?」
「お耳が長くて、おめめが赤くて、にんじんを食べてるの!」
身振り手振りを交えて一生懸命に説明してくれる莉奈ちゃんを、私は相槌を打ちながら見守った。陽翔も、お姉ちゃんのお話が楽しいのか、きゃっきゃと嬉しそうに声を上げている。
しばらくして、麗華さんのインスタグラムの通知がスマホに表示された。何気なく開いてみると、数分前に更新された投稿が目に飛び込んできた。
『公園でのんびりタイム♪ 娘は少し離れた場所で遊んでいます。過保護すぎず、子どもの自主性を尊重するのが私流。#見守る育児 #子どものいる暮らし #カフェタイム』
添えられていたのは、お洒落なラテアートが施されたコーヒーカップと、麗華さん自身の完璧な笑顔の自撮り写真だった。この投稿に、すでにたくさんの「いいね!」と、「麗華さん、素敵です!」「見守る育児、私も見習いたいです」という賞賛のコメントが並んでいる。
現実は、これだ。娘の寂しさに気づきもせず、自分の見栄と承認欲求を満たすための道具にしている。怒りを通り越して、もはや哀れみすら感じた。この人は、SNSという虚構の世界でしか、自分を肯定できないのかもしれない。
「ねえ、結衣ちゃん。砂場で遊びたい」
莉奈ちゃんの声に、私ははっと我に返った。スマホをバッグにしまい、私は立ち上がる。
「よし、行こう! 陽翔も一緒に行こうね。おっきなお山、作ろうか!」
私たちは三人で砂場へ向かった。私はバッグから陽翔用の砂遊びセットを取り出す。莉奈ちゃんは目を輝かせて、プラスチックのスコップを手に取った。
「結衣ちゃん、見てて! 莉奈、お城作るの、上手なんだよ!」
そう言うと、莉奈ちゃんは夢中になって砂を掘り始めた。私はその隣で、陽翔が砂を口に入れないように見守りながら、莉奈ちゃんのお城作りを手伝う。服が汚れることなんて、少しも気にならなかった。保育士時代に戻ったみたいに、子どもの目線で、ただ純粋に遊ぶ。それは、私にとっても久しぶりの感覚だった。
「わあ、すごい! 立派なお城ができたね!」
「うん! てっぺんにお旗も立てるの!」
莉奈ちゃんが木の枝を旗に見立てて砂の山に突き刺した時、その顔には、義実家では一度も見たことのない、心からの笑顔が輝いていた。泥だらけになった手も、砂のついた頬も、その笑顔の前ではきらきらした勲章のように見える。陽翔も、そんな莉奈ちゃんの真似をして、小さな手で砂を叩いては、嬉しそうに笑っていた。
楽しい時間はあっという間に過ぎ、空がオレンジ色に染まり始めた頃、カフェから麗華さんが戻ってきた。
「あら、結衣ちゃん! 奇遇ね、来てたんだ。陽翔くんも、こんにちは」
彼女は少し驚いた顔をしたが、すぐにいつもの完璧な笑顔を貼り付けた。そして、泥だらけになった莉奈ちゃんを見るなり、その眉をぐっとひそめる。
「ちょっと、莉奈! 何その格好! だから砂遊びは嫌だって言ったのに……!」
「ご、ごめんなさい……」
さっきまでの笑顔が嘘のように、莉奈ちゃんの顔が再び強張る。その変化に、私の胸は締め付けられた。
「すみません、麗華さん。私が一緒に遊ぼうって誘ってしまって。とても楽しそうだったので」
私が割って入ると、麗華さんは私に非難の目を向けたが、一瞬でそれを引っ込めた。
「……そう。まあ、結衣ちゃんが一緒なら安心だけど。さ、莉奈、帰るわよ。まったく、洗濯が大変だわ」
ぶつぶつと文句を言いながら娘の手を引く麗華さん。その時、莉奈ちゃんがくるりと振り返り、私の元へ駆け寄ってきた。そして、私の耳元に小さな口を寄せると、そっと囁いた。
「結衣ちゃん、ありがとう。すっごく、すっごく楽しかった」
その言葉だけで、私の心は十分に満たされた。
「……ねえ、今日のことはママには内緒ね。結衣ちゃんとの、秘密だよ」
そう言って、莉奈ちゃんはいたずらっぽく笑った。その笑顔は、私と莉奈ちゃんだけが共有する、特別な宝物のように思えた。
「うん。秘密だね」
私は頷き、莉奈ちゃんの小さな手をそっと握った。喜びと、同時にほんの少しの罪悪感が胸をよぎる。でも、それ以上に、この子を守りたいという強い気持ちが込み上げてきた。
麗華さんに手を引かれて去っていく莉奈ちゃんは、何度も何度も私の方を振り返り、小さく手を振っていた。その姿が見えなくなるまで見送ってから、私は陽翔を抱きしめた。
家に帰り着くと、智也はまだ帰っていなかった。眠ってしまった陽翔をベッドに寝かせ、そのあどけない寝顔を見つめる。そして、莉奈ちゃんとの「秘密」を思い返す。
これは、麗華さんへの復讐じゃない。ただ、寂しさを抱えた一人の女の子の心を、少しでも温めてあげたいだけ。そう、自分に言い聞かせた。たとえそれが、偽りの平和を壊すことになったとしても。私の心は、もう決まっていた。
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