E [14]
一色あかり
E [14]
アンプルを手のひらのなかにおさめると、まだすこし温度があった。
ニルは、精製されたばかりの気配を帯びたちいさな
壁掛けの室内灯はアンプルの遮光
注入後のかすかなけだるさに身をまかせてシーツに頬を押しあてていると、
「ニル、」
シノイはベッドにうつぶせていたニルの腕をつかんで身体を
シノイは毎日おなじようにニルの肩口のちいさな挿入孔を確認する。定められた時刻にアンプルを挿して液体を流し込めば、リング部分にある針先ほどのファイバーランプが
まだなにかちいさな音を立てているシノイの気配を耳の奥で追いながら、ニルはうすく意識がゆらぐような眠気にとらわれるのを待ちわびた。
· · • • • ✤ • • • · ·
シノイが通う研究機関ではまれに深夜からの勤務があるようで、ニルの起き抜けのころに仕事を終えたシノイが帰宅することがある。今朝も、まどろみのなかで唐突にドアのシャッター音を耳にして身体をすくめたニルは、ベッドのなかでスケジューラを起動して、昨夜はニルが眠りについた後にシノイが仕事に向かったのだと知った。シノイの足音を聞きつけて身体を起こし、ダイニングに駆け寄る。
「おかえりなさい、」
「ただいま、」
ミネラルウォーターのパウチを噛むようにしてなかみを飲み込みながら、シノイはダイニングテーブルに補充されていたミールキットのひとつをダストボックスに放り込んだ。
「朝ご飯、食べないの? 」
「……すぐに眠りたいし、」
「いつもおれには、食事をとらないとってうるさく言うくせに。」
「お前はまだ子どもだろう。カロリーや栄養素の摂取管理が厳密なことくらい、スクールで習ったよね? 」
そう言いながら、シノイは伏し目になってニルとすれ違いダイニングを後にした。
ダストボックスがふるえるような駆動音を立て、なかみを撹拌している。
ニルはそのふたを開けて食事とパッケージが渦巻くように飲み込まれてゆくようすを覗き込んだ。渦は細かく横ゆれしながら徐々にちいさくなってゆき、壁面にすりつけられたなにかのカスを残しただけでその他のものはほとんど見えなくなった。
いつの間にかニルは、服の中に手を入れて肩口の挿入孔を指先でなぞっていた。
· · • • • ✤ • • • · ·
深夜勤務で疲労したのか、ニルが今日の学習課程を終えてもシノイは姿をあらわすことがなく、部屋で身体を休めているようだった。ひとりダイニングで夕食をすませたニルも、ふたたび自身の部屋に戻ってベッドに横たわる。
学習課程を終えた後の室内は徐々に照度が下がってゆき、まどろみを促すうすい影が落ちるころには、アンプルを手にとる必要があった。
ニルは天井のすみを目でたどりながら、壁を隔てた先でシノイが物音を立てないかと耳をそばだてる。
室内の照度がもう一段、落とされた。
頭の奥のほうが沈むような感覚にとらわれると、横たえた身体の所在が明瞭でなくなりその心地にまぶたが落ちた。それと同時に、いつからか規則的な音が繰り返されていることに気づく。定刻にアンプルを取り出していないときに鳴る保管庫からのアラーム音だった。
音のするほうに瞳を向ける。保管庫のカウンタは「D」を示していた。規定の時刻を過ぎたためいちばん古いアンプルが廃棄されたのだ。在庫は残り13個。
身体のなかみのほうに意識を向けると、かすかに好ましくない予感が沈んでいることが分かった。
アラーム音が耳障りだ。
目を閉じてまどろみに身をまかせると意識が遠のいてゆく。アラーム音は止まったのかもしれない。
「ニル、」
唐突に視界に入ったのはシノイだった。いつもどおりの抑揚のない声質のなかに、明らかな憤りのいろが滲んでいる。
「ニル、分かっていてやってるよな、」
ニルはベッドから身体を起こそうとして腕に力を入れたが、胸の奥のほうで空気がつまるような心地があって思うように動かせなかった。力を込めたはずの手のひらがすべって、シーツをなぞるだけになる。
シノイはニルの服の肩を落とした。アンプルを手にしていることが分かり、ニルは思わず身体を固くする。何度繰り返しても、アンプルを挿入孔につき立てるときの心地は気分が良いものではなかった。
シノイがアンプルを挿し込むと、切っ先の冷たさがニルの背筋を通り抜け、ちいさな気泡の集まりがぞわぞわと流れるような音がした。シノイがあきれたようにひとつ息をつき、グリーンになった、とつぶやいた。それと同時に胸の奥につまった空気がゆるやかに流れ出す。
保管庫のカウンタは「C」を示している。もしもシノイが在庫を補充しなければ、ニルはあと12回ぶんしか救われない。
· · • • • ✤ • • • · ·
「いいか、この前みたいなことはするな。定刻よりももっと前に、かならず毎日使うんだ、寝ぼけるなよ、」
研究所からの要請で幾日か外泊することになったシノイは、保管庫の在庫を「E」にしながら念を押した。在庫が「A」になる頃までにはかならず戻ってくるからと付け加えて、ニルを睨むようにして見据えた。大丈夫だから、といってニルはシノイの瞳を覗き込んだ。そのなかにニルの輪郭が映し出される。
ニルはいつもどおりの学習課程を終えてダイニングに足を運び、補充された夕食ぶんのミールキットを口にした。空になった容器をダストボックスに放り込んで、自身の部屋に戻る。
室内灯がうすく影を落とす。
保管庫からアンプルをひとつ取り出してくる。カウンタが「D」を示した。
オープナーの刃先を押しあて、にぶく反射する
「あ……、」
オープナーへの力加減が偏って、指先を
ベッドに倒れ込むようにしてもぐり込む。
室内灯が、さらに照度を下げてゆく。
定刻がきて、保管庫からアラームが鳴り始める。アラーム音のはざまに小さな機械の処理音が続いて古い在庫を減らし、保管庫のカウンタが「C」を示した。ニルはベッドに横たわりながら空気を吸い込もうとしたが、いつものようにうまくは吸えなかった。身体の中でふくらむ空気に邪魔をされて、吸い込もうとするとあらゆるところが軋むような心地がした。
転がった小瓶がこぼした液体はとうに干からびて、光沢のあるタイルにいびつな円形の跡を残している。
アラーム音が鳴っているのか、とまったのかわからない。
保管庫のカウンタが「B」を示した。室内にニルの喉元を通る空気の音ばかりが満ちている。腕も脚も動かない。
保管庫のカウンタが「A」を示した。目を開いてもなにかが見えない。耳に入る音が実際のものなのかも分からない。
—— ドアのシャッター音。
「ばか、ニル、」
なにも映さなかったニルの視界に、赤い点がよぎった。シノイの瞳だ。
シノイは服の袖をはずして肩口をむき出し、自身の孔をニルの挿入孔に押しあてた。温度のある液体がニルに流れ込んでくる。渇きが癒えるようにニルが空気を吸い込むと、視界は徐々にクリアになる。シノイから直に注ぎ入れられたものはつよく作用して、ニルの視界のはひどくゆがみ、ゆっくりと回転をはじめて頭を重くする。
「シノイ、くれなくても、よかったのに……、」
身体のなかに満ちる心地に茫然としていると、シノイが肩で息をついていることに気づいた。身体を離すとすべての力が抜けて、くずおれるように床に横たわる。シノイは室内灯を淡くはね返す床に頬をつけて、すこしだけ笑った。
· · • • • ✤ • • • · ·
夕食後、ニルがアンプルを挿入孔に突き立てていると、シノイが部屋に入ってきた。
保管庫のカウンタは「D」。
シノイがタッチパネルを操作して新たなアンプルを追加すると、カウンタは「E」を示した。在庫は残り14個だ。
保管庫にかけたシノイの手の甲が、日を追うごとに骨ばってゆく。
E [14] 一色あかり @madokamadoka
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます