第4話:聖母の涙と私の本当の笑顔
審判の日、聡子さんの誕生日会当日の空は、皮肉なほど青く晴れ渡っていた。義実家に向かう車の中、助手席に座る私の膝の上には、ローストビーフが入った重箱と、綺麗なリボンがかけられたプレゼントの箱が置かれている。そしてハンドバッグの中には、この日のために用意した切り札――スマートフォンとポータブルスピーカーが静かにその時を待っていた。
「結菜、すごいな。ローストビーフまで作れるなんて。母さん、絶対に喜ぶよ」
ハンドルを握る翔太は、上機嫌だった。自分の母親の誕生日を、愛する妻が心を込めて祝ってくれる。彼にとって、それは理想的な家族の姿そのものなのだろう。私は彼の横顔に視線を送りながら、穏やかに微笑んだ。
「そうだと嬉しいな。お義母さんには、いつもお世話になっているから」
「本当に、結菜が俺の嫁でよかったよ」
屈託のない彼の言葉が、今はもう私の心を揺らすことはない。ただ、虚しく響くだけ。この後、彼の信じる「理想の家族」が音を立てて崩れ落ちることを、彼はまだ知らない。
義実家の玄関を開けると、飾り付けられたリビングから、聡子さんと美咲さんの楽しげな声が聞こえてきた。
「あら、結菜さん、翔太! いらっしゃい!」
主役である聡子さんは、淡いピンク色の品の良いワンピースに身を包み、満面の笑みで私たちを迎えた。まるで少女のようにはしゃぐその姿は、どこからどう見ても、還暦を迎える幸せな母親だ。
「お義母さん、お誕生日おめでとうございます」
「母さん、誕生日おめでとう!」
私と翔太がプレゼントを渡すと、聡子さんは「まあ、嬉しい! ありがとう!」と歓声を上げた。私が作ったローストビーフを見るなり、「結菜さん、こんなに手の込んだものまで……。本当にあなたは出来たお嫁さんね」と、涙ぐんでみせる。その完璧な演技に、私は心の内で冷たく笑った。
パーティーは、和やかに始まった。テーブルには、聡子さんの得意料理と、私が作ってきたローストビーフやサラダが並び、華やかな食卓を彩っている。翔太と聡子さんが思い出話に花を咲かせ、美咲さんが時折相槌を打つ。私は甲斐甲斐しく皆のお皿に料理を取り分け、空になったグラスにお茶を注いで回った。誰もが、この平和な光景が永遠に続くと信じているかのように、幸せな笑顔を浮かべていた。
食事が一段落し、デザートのケーキを切り分ける段になった。翔太が「さあ、メインイベントだ!」と声を張り上げ、ロウソクに火を灯す。ハッピーバースデーの歌を全員で歌い、聡子さんが少し照れたように火を吹き消すと、部屋は拍手に包まれた。
「ありがとう、みんな。私、本当に幸せだわ」
ハンカチで目頭を押さえる聡子さん。その姿は、慈愛に満ちた聖母そのもの。翔太は感動した面持ちで母親を見つめ、美咲さんは少し複雑な表情で俯いている。
潮時だ。
私はすっと立ち上がると、にこやかな笑顔を浮かべた。
「お義母さん、素晴らしいお誕生日会ですね。私からも、ささやかですが、もう一つプレゼントがあるんです」
私の言葉に、全員の視線が集まる。翔太は「え、まだ何かあるのか?」と驚きの声を上げた。私はハンドバッグから、例のポータブルスピーカーを取り出した。黒くて小さな、何の変哲もない箱。
「結菜さん、これは……? 機械?」
聡子さんが不思議そうに首を傾げる。私はそのスピーカーを、テーブルの中央、聡子さんの目の前にゆっくりと置いた。
「はい。これは、お義母さんと過ごした、この二年間の思い出を込めた、私からのメッセージです。ぜひ、皆さんで聞いてください」
そう言って、私はスマートフォンの再生ボタンを押した。
静まり返ったリビングに、まず響き渡ったのは、聡子さんの甘く優しい声だった。
『結菜さんは本当に自慢のお嫁さんだわ』
翔太が「なんだこれ、いつの間に録音したんだ?」と笑いながら言う。聡子さんも「まあ、いたずらっ子ね」と微笑んでいる。
しかし、その直後。スピーカーから流れてきたのは、全く別の声だった。
『――あなたみたいな育ちの人が、翔太と釣り合うとでも思っているの?』
冷たく、刺々しい、侮蔑に満ちた声。リビングの空気が、一瞬で凍りついた。翔太の笑顔が顔から消え、聡子さんの表情がこわばる。美咲さんは、はっと息を呑んで私と聡子さんを交互に見た。
音声は、止まらない。
『結菜さんの手料理は本当に美味しいわね』
『――これじゃあ、せっかくの新茶の香りが台無しだわ。本当に、何も知らないのね』
『まあ、結菜さん。そのバッグ、素敵ね』
『――安っぽいわね。セール品かしら? 旦那様に恥をかかせることになるのよ』
甘い言葉と、毒の言葉が、交互にリビングに響き渡る。外面と内面。光と闇。完璧に編集された音声は、聡子さんという人間の二面性を、あまりにも無慈悲に暴き出していく。
聡子さんの顔から、血の気が引いていくのが分かった。唇がわなわなと震え、私を睨みつけるその目には、焦りと憎悪が浮かんでいる。
「な……なによ、これ……! こんなもの、捏造よ! 結菜さん、あなたが作ったんでしょう!」
悲鳴のような聡子さんの声。しかし、スピーカーから流れる声は、紛れもなく彼女自身のもの。誰もがそれを分かっていた。
翔太は、何が起きているのか理解できないといった様子で、ただ呆然とスピーカーと母親の顔を見比べている。彼の信じていた世界が、今、目の前でガラガラと崩れ落ちていく。
そして、音声はクライマックスへと向かう。私が最も聞かせたかった、あの言葉。
『あなた、本当に翔太のことを考えているの?』
静かなリビングに、私の問いかける声が響く。そして、それに答える聡子さんの、冷酷な声。
『結婚して二年よ? 普通なら、もう子供の一人や二人いてもおかしくない頃でしょう。なのに、あなたたちからは何の報告もない。もしかして、あなたの方に何か問題でもあるのかしら』
『言い訳ばかりね。女としての役目を果たせないなんて、嫁失格じゃないの?』
『このままじゃ、相沢の家の血が絶えてしまうわ。翔太が本当に可哀想。あなたと結婚させたのは、私の人生最大の失敗だったかもしれないわね』
その言葉が流れた瞬間、翔太が「あ……」と呻くような声を出した。彼の顔は蒼白になり、信じられないというように母親を見つめている。
再生が終わると、部屋には重い沈黙が落ちた。私は静かに立ち尽くす聡子さんに向き直り、はっきりと告げた。
「これが、お義母さんと過ごした、この二年間の思い出です。そして、私からの、最後のプレゼントです」
「う……ああ……」
聡子さんは、力なくその場に崩れ落ちた。プライドを、仮面を、すべてを剥ぎ取られ、ただ嗚咽を漏らす。それは、いつも見せていた上品な涙ではなく、醜く歪んだ、ただの老婆の泣き声だった。
その時、沈黙を破ったのは翔太だった。彼は震える足で立ち上がると、私の前に進み出て、そして、勢いよく床に両手と額をつけた。土下座だった。
「……結菜っ……ごめん……! 俺が、俺が全部、悪かった……!」
絞り出すような、慟哭。
「気づいてやれなくて、本当にごめん……! お前がずっと、こんなに苦しんでたなんて……! 信じてやれなくて、本当に、本当に、すまなかった……!」
彼の背中が、後悔に大きく震えている。私は、その姿を冷めた目で見下ろしていた。許す、許さない、という感情はもうなかった。ただ、これが現実なのだと、突きつけるだけ。
泣き崩れる母親と、土下座する息子。その異様な光景を前に、ずっと黙っていた美咲さんが、静かに口を開いた。
「……お母さん、最低だよ」
それは、か細いけれど、芯の通った声だった。聡子さんが、はっと顔を上げる。
「ずっと、気づいてた。お母さんが、結菜さんにだけ違う顔をしてること。でも、怖くて何も言えなかった。見て見ぬふりをしてた。……私も、同罪だよね。ごめんなさい、結菜さん」
美咲さんはそう言って、私に深く頭を下げた。彼女の目にも、涙が浮かんでいた。
すべての偽りが暴かれ、真実が白日の下に晒された。聡子さんはもはや何も言えず、ただ泣きじゃくるだけ。翔太は、床に額をつけたまま動かない。
私は、ゆっくりと息を吸い込んだ。そして、翔太に向かって静かに言った。
「顔を上げてください、翔太さん」
彼は、おそるおそる顔を上げた。その目は涙と後悔で真っ赤に腫れている。
「あなたが謝るべき相手は、私だけじゃありません。あなたが理想の母親だと信じ込み、その言葉だけを鵜呑みにして、私を追い詰めたあなた自身の愚かさに、謝罪すべきです」
私の言葉に、翔太は再び顔を歪ませた。
「許すかどうかは、これからのあなたの行動次第です。あなたが、これからどうやって母親と向き合い、私との関係を再構築していくのか。それを見て、私が判断します」
それは、最後通告だった。甘えも、情けも、もうない。私たちは、対等な人間として、もう一度向き合わなければならない。それができなければ、道は分かれるだけだ。
私は、自分の言葉が彼に届いたことを確認すると、部屋の隅で泣き崩れている聡子さんに目をやった。彼女は、もう「聖母」ではなかった。ただの、息子への執着に囚われた、弱い一人の女だった。反省しているのか、それともプライドを傷つけられたことを嘆いているだけなのか。それは分からない。でも、もうどうでもよかった。私の戦いは、終わったのだから。
私は、自分の役目が終わったことを悟ると、静かにリビングのドアに向かった。
「結菜、どこへ行くんだ!」
翔太が慌てて声を上げる。
「少し、一人で風に当たってきます」
そう言い残し、私は義実家の玄関を開けて外に出た。ひんやりとした夜の空気が、火照った頬に心地よかった。見上げると、空には美しい満月が輝いていた。
私は、大きく、深く、息を吸い込む。そして、ゆっくりと吐き出した。胸の中に溜まっていた、二年分の澱んだ空気が、すべて吐き出されていくような気がした。
体の力が、ふっと抜ける。重い鎧を脱ぎ捨てたような、圧倒的な解放感。気づけば、私の口元には、自然と笑みが浮かんでいた。
それは、夫に愛想笑いをすることもなく、義母に怯えることもない、何の偽りもない、私の、心の底からの笑顔だった。
母さんが遺してくれたパキラはもうないけれど、私は今、自分の足で、この大地にしっかりと根を張って立っている。
これからどうなるかは分からない。翔太との関係も、相沢家との関係も。でも、もう何も怖くはなかった。私は、私の人生を、自分の力で歩いていく。
月明かりの下、私はようやく、堂々と笑うことができた。私の本当の人生が、今、ようやく始まったのだ。
完璧な聖母を演じる義母へ。あなたの“本性”を録音しましたので、次の家族会議で再生します @jnkjnk
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