第3話:審判の日のためのシナリオ

あの日、母の形見だったパキラを失った夜から、私は変わった。悲しみの涙は乾き、心の奥深くに硬くて冷たい核が生まれた。それは、決して誰にも溶かせない、静かな怒りと決意の塊だった。もう、無力な被害者でいるのはやめだ。私は、私の尊厳を取り戻すための戦いを始めると決めたのだ。


翌日から、私は完璧な「従順な嫁」を演じ始めた。聡子さんからの嫌味には、傷ついた素振りを見せずに「勉強になります」と穏やかに微笑む。翔太の前では、以前にも増して義母を慕う健気な嫁を演じた。「お義母さんから教わったレシピで作ってみたの」「この間お義母さんにいただいたお洋服、素敵だって友達に褒められたわ」。私のあまりの変わりように、翔太は手放しで喜んだ。


「結菜、最近すごく明るくなったな。やっぱり、母さんと打ち解けてくれたおかげかな。俺、本当に嬉しいよ」


彼はそう言って、何の疑いもなく私の頭を撫でる。その無邪気さが、今はもう腹立たしくもなかった。ただ、冷めた目で見つめるだけ。あなたは何も知らない。これから起こることも、私が何を考えているのかも。その愚かさが、私の計画を後押ししてくれていることに、あなたは気づきもしない。


私のポケットの中には、いつもスマートフォンが忍ばせてあった。ボイスメモのアプリは、いつでも起動できるようにホーム画面の一番押しやすい場所に配置してある。聡子さんと二人きりになる、その一瞬を逃さないために。


最初のチャンスは、意外とすぐに訪れた。パキラ事件から一週間後の週末。聡子さんから電話がかかってきた。リビングのソファでくつろぐ翔太が、スピーカーモードにして電話に出る。


『翔太? 週末にごめんなさいね。結菜さんと、今度デパートの物産展にでも行こうかしらと思って。結菜さん、ああいうの、お好きでしょう?』

「へえ、いいね! 結菜、よかったじゃないか。母さんが誘ってくれてるぞ」


翔太が嬉しそうに私にスマホを向ける。私はにこやかに頷き、「嬉しいです、ぜひ」と答えた。その時、翔太が「あ、ごめん、ちょっとトイレ」と言って席を立った。聡子さんは、翔太がまだ電話のそばにいると思っているようだった。


『結菜さん、本当に可愛いわね。翔太があなたを選んだ理由がよく分かるわ』


私は無言でスマホの画面をタップし、録音開始の赤いボタンを押した。マイクが、聡子さんの甘い声を拾い始める。


『でもね、結菜さん。あなたは少し、翔太に頼りすぎじゃないかしら。いつまでも新婚気分でいられても困るのよ。相沢家の嫁として、もっとしっかりしてもらわないと』


来た。私は息を殺し、神妙な声色で相槌を打つ。


「……申し訳ありません。具体的に、どのあたりでしょうか」

『全部よ。翔太が帰ってくるまでに夕飯の準備も完璧にできていない日があるんでしょう? 疲れて帰ってくる旦那様を待たせるなんて、妻失格だわ。あなたのご実家では、そういう躾はなさらなかったのかしら』


実家を貶める、いつもの手口。以前なら胸が張り裂けそうになった言葉も、今はただの「証拠」にしか聞こえない。私は冷静に、しかし傷ついたフリをしながら答える。


「……気をつけます」


その時、トイレから戻ってきた翔太が「ただいまー」とリビングに入ってきた。その声を察知した聡子さんの声色が、瞬時に切り替わる。


『……というわけで、物産展、楽しみにしているわね、結菜さん! 美味しいもの、たくさん食べましょうね!』

「うん、二人で楽しんでおいでよ。じゃあ母さん、また」


翔太が電話を切り、私はそっと録音を停止した。スマホの画面には『新規録音1』というファイルが生成されている。これが、反撃の第一歩。心臓が早鐘を打っていたが、それは恐怖からではなかった。計画が成功したことへの、静かな高揚感だった。


それから私は、聡子さんの誘いを断らなくなった。二人で買い物に行き、お茶をする。聡子さんは、私が完全に服従したと思い込んでいるのだろう。二人きりになると、いびりは日に日にエスカレートしていった。


「まあ、結菜さん。そのバッグ、安っぽいわね。セール品かしら? 翔太は一流企業に勤めているのだから、あなたもそれに相応しいものを持たないと、旦那様に恥をかかせることになるのよ」

「あら、また同じ服? あなた、着るものがそれしかないの? 私が何か見立ててあげましょうか。あなたに似合うものがあるかどうかは分からないけれど」


私は「すみません」「勉強になります」と殊勝な態度を貫きながら、バッグに忍ばせたスマホの録音ボタンを押し続けた。暴言の数々が、デジタルデータとして着実に蓄積されていく。聡子さんは、私が大人しくなったことを自分の手腕だと信じ込んでいるようで、ご機嫌な日が増えた。その油断が、私にとっては好都合だった。


そして、決定的な証拠を手に入れたのは、ある日曜日の午後だった。義実家に、翔太と一緒に招かれた時のことだ。翔太の妹、美咲さんも在宅していた。


「結菜さん、いらっしゃい。まあ、今日もお綺麗ね」


リビングに通されると、聡子さんはいつものように私を歓迎した。翔太も「だろ?」と満足げだ。しかし、その日は少し様子が違った。美咲さんが「お兄ちゃん、ちょっと二階に来て。パソコンの調子が悪くて」と翔太を呼び出したのだ。


「えー、今かよ。まあ、いいけど」


翔太が面倒くさそうに席を立つ。リビングには、再び私と聡子さん、そして少し離れたソファでスマホをいじっている美咲さんの三人だけが残された。美咲さんは私たちに背を向けてイヤホンをしており、こちらの会話には興味がなさそうだった。聡子さんも、美咲さんは自分の味方だと思っているのか、警戒する様子はない。


案の定、翔太の姿が見えなくなると、聡子さんの表情から笑みが消えた。


「ねえ、結菜さん」


私はテーブルの下で、スカートのポケットに入れたスマホの録音を開始する。


「はい、お義母さん」

「あなた、本当に翔太のことを考えているの?」

「……と、おっしゃいますと?」

「とぼけないでちょうだい。結婚して二年よ? 普通なら、もう子供の一人や二人いてもおかしくない頃でしょう。なのに、あなたたちからは何の報告もない。もしかして、あなたの方に何か問題でもあるのかしら」


来た。最も残酷で、最も効果的な攻撃。以前の私なら、この言葉だけで一週間は立ち直れなかっただろう。だが、今の私は違う。これは、最高の弾丸だ。


「そればかりは、授かりものですので……」

「言い訳ばかりね。女としての役目を果たせないなんて、嫁失格じゃないの? このままじゃ、相沢の家の血が絶えてしまうわ。翔太が本当に可哀想。あなたと結婚させたのは、私の人生最大の失敗だったかもしれないわね」


失敗。その言葉が、私の心に深く刻まれた。私は黙って俯き、ただ唇を噛み締める。その姿を、聡子さんは敗北者のそれだと解釈したのだろう。満足げな溜息をついて、彼女は続けた。


「まあ、今更言っても仕方ないけれど。せめて、家のことくらいは完璧にこなして、翔太の足手纏いにだけはならないようにしなさい。いいわね?」

「……はい」


その時、階段を降りてくる足音がした。聡子さんは咳払いを一つすると、何事もなかったかのようにテレビに目を向けた。翔太がリビングに戻ってくると、そこにはまた「穏やかな姑と従順な嫁」の姿があるだけだった。


私は録音を停止し、そっとスマホをポケットにしまった。これで、弾は揃った。後は、引き金を引く舞台を用意するだけだ。


その舞台は、思わぬ形でセッティングされることになった。

数日後、夕食の席で、翔太が唐突に切り出したのだ。


「なあ、結菜。来月、母さんの誕生日なんだ。もうすぐ還暦だし、今年は盛大にお祝いしないか? うちの実家で、家族みんな集まってパーティーしようぜ!」


無邪気な提案。彼は、それがどんな意味を持つのか、もちろん知らない。私は一瞬息を呑み、そしてゆっくりと顔を上げた。これだ。これ以上の舞台はない。家族全員が集まる場所。聡子さんが「理想の母親」を演じる、最高の晴れ舞台。そこが、彼女の仮面を剥がすための、審判の場となる。


「……素敵ね、翔太さん。ぜひ、そうしましょう。お義母さん、きっと喜ぶわ」


私は心からの笑顔を作って見せた。その笑顔の裏で、冷徹なシナリオが構築され始めていることなど、誰も知らない。


その日から、私の水面下での準備が始まった。誕生日会の準備は、私が率先して引き受けた。「お義母さんに喜んでいただきたいから」という完璧な大義名分を掲げ、私は聡子さんや翔太と連絡を取り合い、飾り付けや料理のメニューを決めていった。


その裏で、私はもう一つの準備を進めていた。まず、ネット通販で、手のひらサイズの高性能ポータブルスピーカーを購入した。クレジットカードの明細で翔太にバレないよう、プリペイドカードを使い、配送先は近所のコンビニに指定した。誰にも知られず、私の手元に「第二の武器」が届く。


そして、夜。翔太が寝静まったのを確認すると、私はリビングのパソコンに向かった。ヘッドホンをつけ、これまで録り溜めた音声データを編集していく。単に暴言を垂れ流すだけでは効果が薄い。もっと、劇的に。もっと、残酷に。


私は、聡子さんの「外面」と「内面」の声を、巧みに繋ぎ合わせることにした。


『結菜さんは本当に自慢のお嫁さんだわ』

――その直後に、

『あなたみたいな育ちの人が、翔太と釣り合うとでも思っているの?』


『結菜さんの手料理は本当に美味しいわね』

――その直後に、

『これじゃあ、せっかくの新茶の香りが台無しだわ。本当に、何も知らないのね』


甘い言葉と、毒の言葉。その落差が大きければ大きいほど、聞く者に与える衝撃は大きくなるはずだ。そして、クライマックスには、あの言葉を。


『女としての役目を果たせないなんて、嫁失格じゃないの?』


編集作業をしながら、私の心は不思議なほど凪いでいた。怒りも悲しみも感じない。ただ、外科医が淡々と手術を進めるように、音声を切り貼りしていく。これは復讐ではない。これは、歪んだ関係を正常に戻すための「治療」なのだ。そう自分に言い聞かせながら。


誕生日会の二日前。最終確認のために義実家を訪れると、リビングでは美咲さんが風船を膨らませていた。


「結菜さん、こんにちは。準備、手伝ってくれてありがとうございます」


美咲さんは、少し気まずそうに私に言った。彼女は、あの日のリビングでの会話を、イヤホン越しに聞いていたのかもしれない。あるいは、母の二面性にはとうの昔に気づいていて、見て見ぬふりを続けている罪悪感から、私と目を合わせられないのかもしれない。


「ううん、大丈夫よ。お義母さんのためだもの」


私はいつも通りの笑顔で返した。私の様子に、美咲さんは何か言いたげな顔をしたが、結局、口を噤んで再び風船に空気を入れる作業に戻った。彼女の目に、今の私はどう映っているのだろう。嵐の前の静けさのような、異様なほどの落ち着き払った私の姿に、彼女は何かを予感しているのかもしれない。でも、もう遅い。物語は、もう最終章へと向かって動き出してしまったのだから。


誕生日会前夜。私は完成した音声データをスマートフォンに移し、コンビニで受け取ってきたスピーカーとの接続テストを行った。小さな筐体からは、想像以上にクリアで、そして力強い音が響き渡る。リビングの隅々まで、聡子さんの「本性」を届けるには十分すぎる性能だった。


すべての準備を終え、私は充電済みのスピーカーとスマホを、そっとドレッサーの引き出しにしまった。明日、この偽りの平和は終わる。そして、新しい関係が始まるか、あるいは、すべての関係が終わるか。どちらに転んでも、もう後悔はない。


窓の外は、静かな夜の闇に包まれていた。明日、この闇が明ける頃、私は審判の日の舞台に立つ。母が遺してくれたパキラはもうないけれど、母がくれた「自分の力で生きる」という言葉が、今、確かに私の背中を押してくれていた。私はもう、一人じゃない。

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