第2話:反撃のトリガー

あの日、翔太に「考えすぎだ」と一蹴されてから、私の心は薄い氷が張った湖のようになった。表面は穏やかさを装っていても、その下では冷たい絶望が渦巻いている。聡子さんからの電話は相変わらず週末にかかってきて、翔太がいる前では私を褒め称え、二人きりになると私を貶める。その二枚舌に私の精神は少しずつ、しかし確実に削られていった。


そんな灰色の日々の中で、私にはたった一つの聖域があった。リビングから続く、小さなベランダの一角。そこに置かれた、一鉢の小さな観葉植物。名前は、パキラ。手のひらに乗るくらいの小さな鉢植えで、艶やかな緑の葉を生き生きと広げている。それは、三年前に亡くなった母が、病床で私に託してくれたものだった。


『結菜、これをあなただと思って、大事に育ててあげてね。ちゃんと水をあげて、お日様に当ててあげれば、この子はきっと元気に育つから。あなたも、この子みたいに、しっかり根を張って、自分の力で生きていくのよ』


それが、母が私に残してくれた最後の言葉になった。母の言葉通り、私はこのパキラを自分自身だと思って大切に育ててきた。朝、一番に葉の様子を見て、土の乾き具合を確かめて水をやる。週末には、柔らかい布で葉の表面の埃を優しく拭ってやる。新しい芽が顔を出すたびに、まるで自分のことのように嬉しくて、心が躍った。この小さな緑だけが、私の心を無条件で肯定してくれる、かけがえのない存在だった。母との絆であり、私の拠り所。翔太にも、このパキラが母の形見であることは伝えてある。


その日も、私は朝のルーティンとしてパキラに水をやっていた。みずみずしい葉に朝日が反射して、きらきらと輝いている。その生命力に触れるだけで、聡子さんの言葉でささくれだった心が少しだけ癒やされる気がした。


「今日も元気だね」


そっと葉に触れると、指先に柔らかな弾力が返ってくる。大丈夫、私もまだ大丈夫。この子のように、強くならなくちゃ。そう自分に言い聞かせ、私は平日の日課である買い物へと出かけた。


その日は特売日だったこともあり、いくつかのスーパーを回って、帰宅したのは昼過ぎになっていた。両手に重い買い物袋を抱え、少し汗ばんだ額を拭いながら玄関の鍵を開ける。


「ただいま」


誰もいない部屋に声をかけ、買ってきたものを冷蔵庫にしまい始める。今日の夕飯は翔太の好きなハンバーグにしよう。付け合わせはポテトサラダとコーンスープ。彼の喜ぶ顔を思い浮かべれば、少しだけ気分が軽くなる。


一息ついて、お茶を飲もうとリビングの窓際に立った時、私は異変に気づいた。いつもそこにあるはずのものが、ない。ベランダに目をやった私の心臓が、どくん、と大きく跳ねた。


パキラが、ない。


いつも定位置に置いてあったはずの、テラコッタの小さな鉢植えが、影も形もなくなっていた。慌ててベランダに出て、隅から隅まで見渡す。しかし、どこにもない。風で飛ばされるような重さではない。そもそも今日はほとんど風も吹いていない。一体、誰が、どうして。嫌な予感が背筋を駆け上る。


私はスリッパのまま部屋を飛び出し、階段を駆け下りた。アパートのゴミ捨て場へ向かう。収集日は昨日だったはずだけど、誰かが間違えて捨てたのかもしれない。震える手でゴミネットをめくり、中を探す。生ゴミの嫌な匂いが鼻をついたが、そんなことは気にしていられなかった。しかし、いくら探しても、あのテラコッタの鉢も、緑の葉も見つからない。


途方に暮れて部屋に戻ると、まるでタイミングを計ったかのように、テーブルの上のスマホが震えた。画面には、見慣れた『お義母さん』の文字。息が詰まる。嫌な予感が確信に変わっていく。震える指で、通話ボタンをスライドさせた。


「……もしもし、結菜です」

『あら、結菜さん。お買い物帰り? お疲れ様』


聡子さんの声は、いつも通りの上品なアルト。しかし、その声色には、隠しきれない愉悦が滲んでいるように聞こえた。


「お義母さん、あの……うちのベランダに、何か……」

『ああ、あの汚らしい鉢植えのこと? 私が捨てておいたわよ』


あっけらかんとした、悪びれる様子のかけらもない声。頭を鈍器で殴られたような衝撃に、一瞬、言葉を失った。


「……え? 捨てたって……どうして、そんな……」

『どうしてって、あなたのためを思ってやったのよ。あんなもの、いつまでもベランダに置いていたら虫がわくじゃないの。土があるところには、得体の知れない虫が集まってくるものよ。衛生的にも良くないし、見た目もみすぼらしかったから、私が片付けてあげたの。感謝してほしいくらいだわ』


あなたのため。その言葉が、毒のように私の全身に広がっていく。感謝?冗談じゃない。


「待ってください! あれは……あれは、私の亡くなった母の、形見なんです! どうして勝手なことをするんですか!」


思わず、声が大きくなる。自分でも驚くほどの、強い語調だった。しかし、電話の向こうの聡子さんは、私の悲痛な叫びを鼻で笑うかのようにあしらった。


『まあ、大袈裟ね。たかが草じゃないの。そんなガラクタみたいなもの、いつまでも大事に持っているから、あなたがいつまでもメソメソしているのよ。死んだ人間の物なんて、さっさと処分して前を向くべきだわ。それも、あなたのためを思ってのことよ』


ガラクタ。母が、私自身だと言って残してくれた、たった一つの形見が、この人にとってはガラクタでしかないのだ。全身の血が逆流するような感覚。怒りと悲しみで、目の前が真っ赤になった。


「返してください……! どこに捨てたんですか!」

『もう収集車が持って行ったわよ。安心なさい、きちんと分別して捨ててあげたから』


聡子さんは、まるで親切な行為をしたとでも言いたげな口調でそう告げると、『じゃあ、翔太によろしくね』という言葉を残して一方的に電話を切った。


ツー、ツー、という無機質な音が、私の絶望を際立たせる。スマホを握りしめたまま、私はその場にへたり込んだ。涙が、後から後から溢れてくる。母さん、ごめんなさい。守ってあげられなかった。私のせいだ。私が弱かったから。


どれくらい泣き続けていただろうか。夜になり、玄関のドアが開く音で、私ははっと我に返った。翔太が帰ってきたのだ。泣き腫らした目元を隠すように俯きながら、私は玄関に向かった。


「ただいまー。あれ、結菜? どうした、目、真っ赤じゃないか。何かあったのか?」


私の顔を覗き込んだ翔太が、心配そうに眉をひそめる。その優しい声に、堰を切ったように再び涙が溢れ出した。私は、しゃくりあげながら、今日あった出来事を必死に伝えた。お義母さんが、母さんの形見のパキラを、勝手に捨ててしまったこと。それがどれだけ私にとって大切なものだったか。


「……そうか、母さんが……。それは、結菜もショックだったよな。ごめんな、俺からも母さんに言っておくから」


翔太はそう言って、私の背中を優しくさすってくれた。その温かさに、一瞬だけ安堵が胸をよぎる。分かってくれる。今回は、分かってくれるはずだ。だって、母さんの形見なのだから。


しかし、その期待は、次の翔太の言葉で無残にも打ち砕かれた。


「でもさ、母さんも結菜のためを思ってやったんだと思うよ。悪気はなかったんだって。ほら、母さん、綺麗好きだから、虫とか気になっちゃったんじゃないかな」


悪気はない。また、その言葉だ。私の心臓が、ぎゅうっと冷たく縮こまるのを感じた。


「悪気がなければ、人の大切なものを勝手に捨ててもいいの? あれは、ただの植物じゃないの! 母さんが私に残してくれた、たった一つの……!」

「分かってる、分かってるよ! でも、母さんだって、結菜がそんなに大事にしてるって知らなかったのかもしれないじゃないか。だから、そんなに責めないでやってくれよ」


知らなかった? 私は翔太に何度も話したはずだ。結婚する時にも、このパキラだけは絶対に手放せない大切なものだと伝えた。翔太から聡子さんに、その話が伝わっていないはずがない。


「……もう、いい」


私の口から、か細い声が漏れた。もう、この人に何を言っても無駄なのだ。この人は、何があっても母親の味方をする。妻である私の心の痛みよりも、母親の「善意」を信じることを選ぶのだ。


私の諦めたような声に、翔太は何かを勘違いしたようだった。彼はほっとしたように息をつくと、まるで子供をあやすような口調で言った。


「ごめんな、結菜。悲しかったよな。よし、分かった。今度の週末、一緒に新しい観葉植物を買いに行こう。もっと大きくて立派なやつを買ってやるから。だから、もう泣くなよ」


新しいのを、買ってやるから。


その言葉が、私の心臓に突き刺さった最後の棘だった。ぷつん、と、心の奥で何かが切れる音がした。張り詰めていた糸が、完全に切れてしまった。


涙が、ぴたりと止まった。あれだけ溢れ出ていた涙が、嘘のように乾いていく。代わりに、心の最も深い場所から、氷のように冷たい何かがせり上がってくるのを感じた。それは、怒りだった。聡子さんに対する怒り。そして、目の前でヘラヘラと笑っている、この無神経な夫に対する、静かで、底なしの怒りだった。


もう、泣かない。もう、期待しない。もう、耐えるのはやめよう。


私の尊厳は、私が守らなくては。母が「自分の力で生きていけ」と言ったのは、こういうことだったのかもしれない。誰かに寄りかかって、守ってもらおうなんて思うから、傷つけられるのだ。


「……そうね。ありがとう、翔太さん」


私はゆっくりと顔を上げ、翔太に向かって微笑んだ。それは、ここ数ヶ月で一番穏やかな、完璧な笑顔だったと思う。私の変化に気づかない翔太は、「うん、分かってくれればいいんだ」と満足そうに頷いた。


その夜、翔太が深い寝息を立て始めたのを確認してから、私は静かにベッドを抜け出した。リビングのソファに座り、自分のスマートフォンを手に取る。画面の明かりが、暗闇の中で私の顔を青白く照らし出した。


アプリの一覧から、一つのアイコンを探し出す。『ボイスメモ』。今まで一度も使ったことのない、標準搭載のアプリ。それを、ためらうことなくタップした。シンプルな録音画面が現れる。中央に表示された、赤い丸の録音ボタン。


私は、この武器で戦う。もう、泣き寝入りはしない。偽りの聖母に、そしてその聖母を盲信する愚かな息子に、真実を突きつける。私の心を壊した罰を、必ず受けさせてみせる。


冷たい決意を胸に、私はそっと画面に触れた。そこには、これから始まる反撃の狼煙を上げる、一人の女の顔が映っていた。私の本当の戦いは、今、ここから始まるのだ。

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