完璧な聖母を演じる義母へ。あなたの“本性”を録音しましたので、次の家族会議で再生します
@jnkjnk
第1話:偽りの聖母と孤独な嫁
柔らかな朝日がレースのカーテン越しに差し込み、リビングの床に温かい光の模様を描いている。週末の土曜日、時計の針はまだ午前九時を指したばかり。テーブルに並ぶのは、こんがりと焼いた厚切りトーストと、半熟の目玉焼きが乗ったグリーンサラダ、そして湯気の立つコーヒー。私が淹れる少し深煎りのコーヒーは、夫である翔太のお気に入りだった。
「んー、いい匂い。結菜の淹れるコーヒーは世界一だな」
寝癖のついた頭を掻きながらリビングに入ってきた翔太は、テーブルを見るなり嬉しそうに目を細めた。相沢翔太、三十歳。結婚して二年になる私の夫。仕事は忙しいけれど、家ではいつも穏やかで、私のことを大切にしてくれる優しい人だ。
「おはよう、翔太さん。早くしないとトーストが冷めちゃうよ」
「はいはい。いただきます」
向かいの席に座った翔太は、行儀よく手を合わせると、大きな口でトーストを頬張った。「うまっ」と幸せそうに呟く顔を見ているだけで、私の心も温かくなる。この人と結婚してよかった。何気ない朝の食卓に、ささやかだけれど確かな幸せが満ちている。この穏やかな日常が、ずっと続けばいい。そう、心から願っていた。
その平穏を揺るがす着信音が響いたのは、食後のコーヒーを飲み終え、二人で今日の予定を話していた時だった。スマホの画面に表示された『お義母さん』の文字に、私の心臓が小さく跳ねる。相沢聡子。翔太の母親であり、私の義母だ。
「あ、母さんからだ。もしもし?」
翔太は少しもためらうことなく、明るい声で電話に出る。スピーカーモードにはしていないのに、受話器の向こうから聞こえてくる聡子さんの声は、鈴を転がすように上品で、そして驚くほどはっきりと私の耳にも届いた。
『あら、翔太? おはよう。週末に悪いわね。結菜さん、いらっしゃる?』
「うん、いるよ。どうしたの、母さん」
『結菜さんに、美味しい新茶をいただいたからお裾分けしたくて。お元気にしてるかしらって気になってたのよ。いつも翔太がお世話になってます、って伝えてちょうだいね』
電話口で交わされる会話は、どこからどう聞いても、嫁を気遣う優しい義母そのものだった。聡子さんは元小学校の教師で、未亡人。女手一つで翔太さんを育て上げた、近所でも評判の品の良い女性だ。私に対しても、いつも笑顔で接してくれる。少なくとも、人の目がある場所では。
「結菜も元気だよ。母さんも元気そうでよかった。新茶? ありがとう。結菜も喜ぶよ」
翔太はにこにこと相槌を打ちながら、私にスマホを差し出した。
「結菜、母さんが代わってほしいって」
「……はい」
深呼吸を一つして、私はスマホを受け取った。背筋がこわばるのを感じながら、できるだけ明るい声を作る。
「お義母さん、おはようございます。結菜です」
『あら、結菜さん! おはよう。声が聞けて嬉しいわ。変わりない? 翔太のこと、いつもお願いね。結菜さんがお嫁さんに来てくれて、本当に安心しているのよ』
絹のように滑らかな声が、耳にまとわりつく。聡子さんの言葉は、どこまでも甘く、優しい。翔太は「ほら、母さん、結菜のこと大好きだろ?」とでも言いたげな顔で、満足そうにこちらを見ている。
「いえ、とんでもないです。こちらこそ、いつも気にかけていただいてありがとうございます」
『まあ、しっかりしたご挨拶。本当に自慢のお嫁さんだわ。また近いうちに、お顔を見せてちょうだいね』
当たり障りのない会話を数分交わし、電話は切れた。途端に、張り詰めていた体の力が抜ける。
「母さん、本当に結菜のこと気に入ってるよな。電話でもいつも結菜のこと褒めてるんだ」
「……そう、だね」
翔太の屈託のない笑顔に、私は曖昧に微笑み返すことしかできなかった。違う、そうじゃない。あなたの知らない顔があるのよ。喉まで出かかった言葉を、私は熱いコーヒーと一緒に飲み込んだ。言えるはずがなかった。彼が「理想の母親」として心から尊敬している聡子さんの、もう一つの顔のことなど。
その日の午後、聡子さんは予告通り「近くまで来たから」と、私たちのアパートを訪れた。インターホンのカメラに映る、上品なツイードのジャケットを着こなした聡子さんの姿に、私は再び身を硬くする。
「まあ、結菜さん、急にごめんなさいね。これを渡したくて」
玄関を開けると、聡子さんはにこやかに高級そうな和紙の袋を差し出した。中には、電話で話していた新茶が入っているのだろう。
「お義母さん、わざわざありがとうございます。どうぞ、上がってください」
「ありがとう。少しだけお邪魔しようかしら」
リビングに通すと、ソファに座っていた翔太が「母さん、いらっしゃい」と嬉しそうに立ち上がった。
「翔太、お仕事お疲れ様。顔色も良さそうで安心したわ。これも全部、結菜さんがしっかり健康管理してくれているおかげね」
「まあ、そうかも。結菜の飯、うまいからさ」
「あらあら、ごちそうさま」
聡子さんは楽しそうに笑い、その場の空気を和ませる。まるで春の日だまりのような、温かくて心地よい雰囲気。私がこの輪の中にいる異物であるかのような錯覚に陥る。
「結菜さん、お茶を淹れてくださる? せっかくだから、この新茶をいただこうかしら」
「はい、すぐに」
私は逃げるようにキッチンへ向かった。背中に突き刺さる聡子さんの視線を感じながら、戸棚から一番良い湯呑みを取り出す。ポットの湯が沸く間、必死に心を落ち着かせようと努めた。大丈夫、翔太さんがいる。翔太さんがいる間は、何も起こらない。
リビングに運んだお茶をテーブルに置きながら、聡子さんがリビングの壁に飾ったばかりのドライフラワーのリースに目を留めたのが分かった。私が趣味で作った、ささやかな作品だ。
「結菜さん、これはあなたが作ったの? とても素敵ね。手先が器用で羨ましいわ」
「ありがとうございます。お恥ずかしいですが……」
「そんなことないわよ! なあ、翔太。結菜さんは本当に多才だよな」
翔太に話を振られ、彼は「ああ、すごいよな。俺には絶対できない」と素直に感心している。完璧な会話の流れ。非の打ちどころがない、理想の家族のワンシーン。
その時だった。翔太のスマホが軽快な音を立てたのは。
「あ、ごめん。会社の後輩からだ。急ぎの要件かもしれないから、ちょっと電話してくる」
そう言って、翔太はベランダへと通じる窓を開けて外へ出てしまった。聡子さんと私、二人きり。ガラス戸一枚を隔てた向こうで、翔太が誰かと話しているのが見える。リビングに、静寂が訪れた。
その静寂を破ったのは、聡子さんの、温度を失った声だった。
「……ねえ、結菜さん」
さっきまでの春の日だまりのような声とは似ても似つかない、冷たく硬質な響き。振り返ると、聡子さんは笑顔の仮面を剥がし、私を射抜くような侮蔑の眼差しで見ていた。湯呑みを持つ指先が、微かに震える。
「あの壁の飾り、あなたの趣味なんですって? ごちゃごちゃしていて、見ていて目が疲れるわ。埃も溜まりそうだし、早く片付けたらどうかしら。相沢の家の品位が下がるわ」
心臓を氷の指で鷲掴みにされたような衝撃。さっき、翔太の前では「素敵ね」と褒めてくれたばかりなのに。
「……申し訳、ありません」
「謝ってほしいわけじゃないのよ。事実を言っているだけ。それにそのお茶の淹れ方、なってないわね。お湯の温度が高すぎるのよ。これじゃあ、せっかくの新茶の香りが台無しだわ。本当に、何も知らないのね」
聡子さんは湯呑みを口につけることもなく、テーブルにカチャンと乱暴に置いた。その乾いた音が、やけに大きく部屋に響く。
「あなたみたいな育ちの人が、翔太と釣り合うとでも思っているの? 私がどれだけあの子を大切に育ててきたか、あなたには分かりもしないでしょうね」
次から次へと繰り出される言葉のナイフが、私の心を的確に切り刻んでいく。「育ちが悪い」「品がない」「翔太にはもっとふさわしい人がいた」。二人きりになると繰り返される、いつもの儀式。
「その部屋着もそう。ずいぶん地味で貧乏くさい格好ね。翔太が稼いだお金で、もっと華やかなものを買ったらどう? 奥さんがそんなみすぼらしい格好じゃ、翔太が外で笑われるわよ」
今日、私が着ているのは、少し奮発して買ったお気に入りのブランドのルームウェアだった。落ち着いたラベンダー色で、肌触りも良くて、袖を通すたびに少しだけ気分が上がる、私のための服。それすらも、聡子さんの手にかかれば「貧乏くさい」ものに成り下がる。
唇を噛み締め、俯く私に、聡子さんは追い打ちをかけるように言った。
「だいたい、結婚してもう二年にもなるのに、子供の一人も産めないなんて。嫁としての役目を果たしていると言えるのかしら。翔太が可哀想だわ」
視界が滲む。一番言われたくない言葉だった。翔太とは、ゆっくりでいいねと話し合っている。でも、心のどこかで焦りを感じていたのも事実で、その一番柔らかい部分を、聡子さんは的確に抉ってくる。
私が何も言い返せないでいると、タイミングを見計らったかのように、ベランダのガラス戸が開いた。
「ごめんごめん、長くなっちゃった。後輩が仕事でトラブったみたいでさ」
翔太がリビングに戻ってきた、その瞬間。聡子さんの表情は、まるでスイッチを切り替えたかのように、再び慈愛に満ちた「聖母」の顔に戻っていた。
「あら、翔太。お仕事大変ね。無理しちゃだめよ」
「大丈夫だよ。それより母さん、このお茶、すごく美味しいよ」
私が淹れたお茶を一口飲んだ翔太が、そう言った。聡子さんは「そうでしょう? 結菜さんが丁寧に淹れてくださったから、格別に美味しいわね」と微笑む。その完璧な演技に、吐き気がした。
その後、聡子さんは三十分ほど談笑し、「じゃあ、私はこれで」と優雅に立ち上がって帰っていった。玄関まで見送る私の肩を抱き、「結菜さん、無理しないでね。いつでも頼ってちょうだいね」と囁いた声も、翔太の耳に届くように計算されたものだった。
嵐が過ぎ去ったあとのリビングで、私はソファに崩れるように座り込んだ。全身が鉛のように重い。精神がすり減っていく感覚。もう、限界かもしれない。
「疲れた?」
隣に座った翔太が、私の顔を覗き込んできた。彼の前では、弱音を吐きたくない。心配をかけたくない。でも、今日だけは、どうしても聞いてほしかった。
「ねえ、翔太さん……」
「ん? どうした?」
私は震える声で、勇気を振り絞った。
「あのね、お義母さんのことなんだけど……。翔太さんがいない時、少しだけ……言い方が、きつくなることがある、ような気がして」
私の言葉に、翔太はきょとんとした顔をした。そして、次の瞬間、困ったように笑った。
「えー? 考えすぎだよ、結菜。母さんは昔からああいうハッキリした物言いだけど、全然悪気はないんだって。むしろ、結菜のことを本当の娘みたいに思ってるから、遠慮なく言えるんじゃないかな」
ああ、まただ。いつもの反応。分かっていたはずなのに、胸の奥がずきりと痛む。
「でも、さっきも、私の服のこととか……」
「服? 何か言われたのか? 『結菜さんはいつもお洒落ね』って褒めてたじゃないか」
「それは、翔太さんがいる時で……」
「またまた大げさだなあ。母さんが結菜の悪口なんて言うはずないじゃないか。俺が保証するよ。世界一、優しいお母さんなんだから」
悪気のない、純粋な信頼。その信頼が、私を深く、深く傷つける。彼は何も知らない。知ろうともしない。私がどんな思いで聡子さんの言葉を受け止め、笑顔の下で耐えているのか。
「とにかく、母さんと仲良くしてくれて嬉しいよ。ありがとうな、結菜」
翔太はそう言って、私の頭を優しく撫でた。その温かい手が、今はまるで私を檻に閉じ込める鎖のように感じられた。ありがとう、じゃない。助けて、と言っているのに。どうして分かってくれないの。
声にならない叫びが、胸の中で渦を巻く。翔太がシャワーを浴びるために席を立ったあと、私は一人、薄暗くなったリビングで膝を抱えた。誰にも信じてもらえない。この家で、私はたった一人ぼっちなのだ。味方なんて、どこにもいない。
ぽたり、と膝に冷たい滴が落ちた。一度流れ出した涙は、もう止めることができなかった。声を殺して、嗚咽を漏らす。悔しさと、悲しさと、そして何よりも深い孤独感に、全身が押し潰されそうだった。
このままじゃ、ダメになる。心が、壊れてしまう。
暗闇の中で、私はただ泣き続けることしかできなかった。偽りの聖母が作り出した完璧な世界の片隅で、静かに、絶望に沈んでいきながら。
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