第3話 特別

一年生の春、篠原紬はまだ「大丈夫なふり」を覚えきれていなかった。

 入学式から数日が経っても、教室の空気に馴染めずにいた。クラスにはすでに小さな輪がいくつもできていて、笑い声があちこちで弾んでいる。そのどれにも、紬はうまく入れなかった。

 誰かに声をかけられれば笑う。

 話を振られれば、明るく返す。

 でもそれ以上、踏み込まれると息が詰まった。

 ——深入りされたら、困る。

 ——期待されたら、応えなきゃいけなくなる。

 そんな気持ちを、紬はまだ言葉にできなかった。

 その日、彼女は昼休みの教室を抜け出し、誰もいない階段の踊り場に座り込んでいた。購買で買ったパンは、袋を開けただけで、ほとんど手をつけていない。

「……はあ」

 小さく息を吐いた、そのとき。

「あれ、篠原さん?」

 声に驚いて顔を上げると、見知らぬ男子生徒が立っていた。

 ——いや、正確には「クラスメイト」だ。

 桐谷恒一。

 同じクラス。席は少し離れていて、目立つタイプでもない。自己紹介も、印象に残るほどじゃなかった。

「ここ、使ってた?」

「え、あ……ううん」

 恒一は少し迷ってから、階段の一段下に腰を下ろした。距離は、近すぎない。

「教室、苦手?」

 率直すぎる質問だった。

「……そんなことないよ」

 反射的に、紬は笑った。

 恒一は「そっか」とだけ言った。それ以上、踏み込まない。

 沈黙が落ちる。

 けれど、不思議と居心地が悪くなかった。

「俺、昼はここ来ること多いんだ」

「どうして?」

「人、少ないから」

 それだけだった。

 理由を飾らない言い方。

 同情もしないし、探る感じもない。

 紬は、少しだけ肩の力を抜いた。

「……じゃあ、私も今日はここにする」

「どうぞ」

 恒一はそう言って、視線を外した。

 “歓迎してるけど、無理には近づかない”という距離。

 その態度が、紬の胸に静かに染みた。

 パンを一口かじる。

「……ねえ」

「ん?」

「ここにいるとき、私のこと、気にしなくていいから」

 いつもなら、こんなことは言わない。

 でも、この人なら大丈夫な気がした。

「分かった」

 恒一は、あっさり頷いた。

 その瞬間、紬は気づいてしまった。

 ——この人は、

 ——私を“必要としよう”としない。

 だからこそ、

 だから初めて、そばにいてほしいと思った。

 それから、昼休みが合う日は、二人で踊り場に座った。

 話す日もあれば、ほとんど黙っている日もあった。

 ある日、紬がぽつりと零した。

「私ね、誰かに必要とされるの、好きなの」

「うん」

「でも、それだけだと……なくなったとき、怖くなる」

 恒一は少し考えてから、こう言った。

「じゃあ、ここでは必要とされなくていいんじゃない?」

 紬は目を丸くした。

「ここでは、ただ一緒にいるだけでいい」

 その言葉は、慰めでも正解でもなかった。

 ただ、選択肢を増やしてくれただけ。

 それが、どれほど救いだったか。

 ——ああ、この人だ。

 紬はそのとき、はっきり思った。

 好き、ではなかった。

 恋、とも違った。

 でも、

 この人に見失われたくないと、初めて思った。

 だから一年後。

 同じクラスになったと知ったとき、

 「安心した」と言った自分は、

 たぶん、嘘をついていなかった。


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ここまで読んでくださって、ありがとうございます。

よろしければ、続きもお付き合いください。

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