第3話:真価の発揮

「これより、橘花楼の経営再建会議を始めます」


翌朝、私は旅館の全従業員を大広間に集めていた。私の隣には、腕を組んだ武田板長が控え、対面には、苦虫を噛み潰したような顔の義母・聡子と、不満を隠そうともしない義姉・沙織が座っている。夫の一真は、私の隣で落ち着かない様子で視線を泳がせていた。


大広間に集まった二十名ほどの従業員たちは、戸惑いの表情を浮かべている。昨日まで裏庭の草むしりをさせられていた嫁が、なぜ大女将を差し置いて中心に座っているのか。誰もが訝しんでいるのが、ひしひしと伝わってくる。


「皆さんもご存じの通り、今、橘花楼は倒産の危機にあります。銀行からの猶予は一ヶ月。このままでは、皆さんの生活も脅かされることになります」


私の率直な言葉に、広間にさざ波のような動揺が広がる。これまで聡子は、経営不振の事実を従業員たちに隠してきたのだ。


「ですが、まだ打つ手はあります。私は、この一ヶ月で橘花楼を必ず立て直します。そのために、皆さんのお力をお貸しください」


私は深く、深く頭を下げた。


「お願いします」


ざわめきが大きくなる。何人かのベテラン仲居は、聡子の顔色を窺うようにちらちらと視線を送っている。

「……何を馬鹿なことを」と聡子が口を開きかけた、その時だった。


「若嫁さんの言う通りだ」


武田板長が、重々しい声で言った。


「このままじゃ、全員が共倒れだ。わしは、この人の計画に賭けてみることにした。わしの厨房は、若嫁さんの指示に従う。異論のある者はいるか」


板長の言葉は、絶対だ。厨房の若い衆は、一斉に「ありません!」と声を揃えた。その力強い返事が、まだ半信半疑だった他の従業員たちの空気を少しだけ変えた。

私は顔を上げ、計画書を手に説明を始めた。コストカットの具体的な数値、新しいプランの内容、そして、各自に与えられる新しい役割。それは、従業員一人ひとりの能力を信じ、全員でこの危機を乗り越えようという、私の決意表明でもあった。


「まず、仕入れ担当の木村さん。明日から私と一緒に、全ての取引業者を回って価格交渉を行います。これまでの関係性ではなく、純粋なコストと品質で判断します」

「は、はい……!」

「フロント担当の佐藤さん。お客様のアンケートを再度洗い出し、不満点を項目ごとにデータ化してください。顧客満足度を上げるための改善点を、現場の視点から提案してほしいのです」

「わ、分かりました……!」

「そして、お義姉様」


私が沙織に視線を向けると、彼女はびくりと肩を震わせた。


「お義姉様には、橘花楼の公式SNSアカウントの運営を、全権限をもってお願いします。ターゲットは二十代から三十代の女性。新しいアフタヌーンティー・プランの魅力を、お義姉様のセンスで発信してください。ただし、投稿内容については、事前に私とマーケティング戦略のすり合わせを行います」

「……私が、SNSを?」


沙織は目を丸くした。これまで自分の趣味としか思われていなかった特技に、初めて「役割」が与えられたことに、彼女は戸惑いを隠せないでいた。それは、屈辱ではなく、予期せぬ期待だった。


私の指示は、具体的で、誰に何をすべきかが明確だった。これまで指示待ちだった従業員たちの目に、少しずつ当事者としての光が灯り始めるのが分かった。

水を得た魚、とはまさにこのことだった。大学時代に培った知識と、この一年間、誰にも認められずとも溜め込んできた旅館への想いが、今、一気に解放されていく。まるで、ずっと解きたかった難解なパズルを、夢中で解いているような感覚だった。


最初に着手したのは、厨房の改革だ。私は武田板長と共に、厨房にホワイトボードを設置した。そこに、日々の食材の在庫、発注量、そして廃棄量をグラム単位で記入していく。

「見える化」の効果はてきめんだった。


「こんなに多くの大根の皮を捨てていたのか……」

「この魚のアラも、だしを取る以外に使い道はないものか……」


若い料理人たちが、自分たちの無駄を目の当たりにして愕然としている。


「若嫁さん。計画書にあった『もったいない野菜の創作会席』、試作をしてみた」


武田板長が、小さな皿を私の前に差し出した。そこに乗っていたのは、形が不揃いな人参を繊細な千切りにし、大根の皮を香ばしく揚げたものを添えた、美しい一品だった。一口食べると、野菜本来の甘みと、職人の技が凝縮されただしの風味が口いっぱいに広がる。


「……美味しい。素晴らしいです、板長!」

「ふん。わしの腕をなめるな。だが、アイデアはお前さんのものだ。悪くない」


ぶっきらぼうに言う板長の顔が、どこか楽しそうに見えた。彼は、自分の腕を振るう新しい舞台を与えられたことに、職人としての喜びを感じているのだ。私たちは夜遅くまで厨房に残り、次々と新しいメニューを開発していった。


その頃、沙織は自室でスマートフォンの画面と睨み合っていた。最初は「なんで私が」と不貞腐れていた彼女だったが、私が提示したインフルエンサーのリストや、他社の成功事例の分析データを見るうちに、次第にその表情は真剣なものに変わっていった。


「このアカウント、フォロワーは少ないけど、エンゲージメント率が異常に高い……。この人に響く投稿は、写真の『余白』が重要……」


誰にも邪魔されず、自分の得意な世界に没頭する彼女の姿は、これまでのようにただ時間を潰していた時とはまるで違って見えた。


もちろん、改革は順風満帆ではなかった。長年の慣習を変えることへの抵抗は根強い。特に、聡子に心酔しているベテランの仲居頭からは、あからさまな妨害を受けた。


「若嫁様のやり方では、橘花楼の品が落ちます。お客様に失礼です」


彼女は私の指示を無視し、これまで通りのやり方を続けようとした。

私は彼女を個別に呼び出し、二人きりで話をした。


「鈴木さん。あなたが橘花楼を愛し、大女将を尊敬している気持ちはよく分かります。ですが、その愛する旅館が、来月にはなくなるかもしれないのですよ。品位を守ることも大事ですが、今はまず、生き残らなければならない。私は、あなたのようなベテランの力が必要です。どうか、私に知恵を貸してください」


私は再び、頭を下げた。プライドをかなぐり捨て、ただひたすらに、誠意を尽くす。

私の真剣な眼差しと、具体的な数字で示された危機的状況に、彼女は長い沈黙の後、ぽつりと言った。


「……そこまで、悪かったとは……。分かりました。若嫁様を、信じてみましょう」


一人、また一人と、私の周りに協力者が増えていく。それは、私が振りかざす正論や知識だけによるものではない。私が誰よりも旅館内を歩き回り、誰よりも遅くまで働き、そして、誰に対しても敬意を払って頭を下げ続けた結果だった。その姿を、一真は複雑な表情で見つめていた。


改革を始めて二週間が経った頃、最初の成果が形となって現れた。沙織が連絡を取った、フォロワー数万人規模のライフスタイル系インフルエンサーが、モニターとして『アフタヌーンティー・プラン』を体験しに来てくれたのだ。

武田板長が腕によりをかけた、和のテイストを取り入れたスイーツの数々。私が従業員と協力して飾り付けた、庭園の見える特等席。


「わ、すごい! 可愛い! この手毬寿司、宝石みたい!」


インフルエンサーの彼女が、写真を撮りながら歓声を上げる。その日の夕方、彼女のアカウントに投稿された橘花楼の写真は、瞬く間に拡散された。


『こんな素敵な場所があったなんて!』

『スイーツのクオリティが高すぎる!』

『都内から日帰りで行けるのも最高!』


コメント欄は絶賛の嵐となり、その日の夜から、旅館の電話は鳴り止まなくなった。


「アフタヌーンティーの予約をお願いします」

「週末はもう空いてませんか?」


閑散としていたフロントが、予約対応に追われる嬉しい悲鳴で満たされる。それは、ここ数年、誰も見たことのない光景だった。


活気が戻ってきたのは、フロントだけではない。厨房では、新しいメニュー開発に熱が入り、仲居たちは「どうすればお客様にもっと喜んでもらえるか」を自主的に話し合うようになった。これまで澱んでいた空気が、明らかに変わったのだ。


そんな旅館の変化を、最も苦々しい思いで見ていたのが、聡子だった。自分のやり方を否定した嫁が、みるみるうちに成果を上げていく。従業員たちが、自分ではなく莉子を信頼し、その指示で生き生きと働いている。その現実が、彼女のプライドをずたずたに引き裂いていた。


「……まぐれよ。あんな、インスタントな人気、すぐに廃れるわ」


聡子はそう吐き捨てるが、その声には以前のような力はなかった。沙織も、自分の投稿が大きな反響を呼んだことに驚きと喜びを感じながらも、その手柄が莉子の計画の一部であるという事実に、複雑な感情を抱いていた。彼女たちは、新しい輪の中心に入ることができず、徐々に孤立を深めていった。


ある日の夕方、私は一人、帳場ですべての伝票をチェックしていた。そこに、一真がおずおずとやってきた。


「莉子、あの……すごいな」

「一真さん……」

「みんな、生き生きしてる。旅館にこんなに活気が戻ったのは、久しぶりだ。全部、君のおかげだよ」


彼は、心から感服したように言った。しかし、その目には尊敬の色と共に、深い劣等感と寂しさが浮かんでいた。次期当主であるはずの自分が何もできず、蔑んでいたはずの妻が、すべてを取り仕切っている。その現実が、彼の自尊心を蝕んでいるのだ。


「俺、情けないよな。君がこんなにすごい力を持っていたのに、気づきもしなかった。守るどころか、母さんたちから君を守ることさえできなかった……」

「……一真さん」


私は立ち上がり、彼の前に立った。


「私は、あなたのために戦っているんですよ」

「え……?」

「あなたが愛したこの橘花楼を、なくしたくなかったから。あなたが守りたかったものを、私が代わりに守りたかったから。ただ、それだけです」


私の言葉に、一真はハッとしたように顔を上げた。彼は、私が義母たちへの復讐心だけで動いていると思っていたのかもしれない。だが、私の根底にあるのは、この旅館と、そして、この旅館を愛する夫への、紛れもない愛情だった。


「莉子……」


一真の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。それは、自分の不甲斐なさに対する悔し涙であり、私の想いを知ったことへの感謝の涙でもあった。彼は初めて、夫としてではなく、一人の人間として、私の前にひざまずきたいような気持ちになっていた。


約束の一ヶ月が経つ頃には、橘花楼は劇的な変化を遂げていた。コストは計画通りに削減され、アフタヌーンティー・プランは連日満席。その評判が呼び水となり、減少していた宿泊客も、少しずつ戻り始めていた。銀行に提出した再建計画書は、その確かな実績と共に高く評価され、追加融資の審査が前向きに進められることになった。


倒産の危機は、ひとまず回避された。

だが、私の戦いはまだ終わらない。これは、単なる経営再建の物語ではないのだから。

最後の仕上げが、まだ残っている。

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