第2話:反撃の狼煙

銀行の支店長が残した「一ヶ月」という言葉は、まるで時限爆弾のタイマーのように、橘花楼の重苦しい空気の中で冷たく時を刻み始めた。応接室には、絶望という名の濃い霧が立ち込めている。


「……終わりだわ。もう、何もかも」


ソファに崩れ落ちた義母・聡子は、虚ろな目で宙を見つめていた。その横顔からは、いつも私を射抜くような鋭い光は消え失せ、ただの老いと疲労だけが色濃く浮かんでいる。


「だから言ったのに! 私のアイデアを聞き入れていればこんなことには! こうなったらもう、旅館を売って、そのお金で都心に小さなブティックでも……」


義姉・沙織の現実離れした言葉は、誰の耳にも届かない。自分の未来だけを案ずるその身勝手さに、私はもはや怒りすら感じなかった。

そして、私の夫である一真は。彼はただ、固く握りしめた拳を膝の上で震わせているだけだった。悔しさはあるのだろう。だが、その悔しさを行動に変える術を、彼は知らない。彼の人の良さは、平時であれば美徳だったかもしれない。しかし、絶対的な危機を前にした今、それは無力と同義だった。


家族がそれぞれの絶望に沈む中、私、橘莉子の心だけは、不思議なほど冷静だった。いや、冷静というよりは、冷徹に燃え上がっていたと言うべきか。絶望の底に突き落とされたことで、逆に視界が開けたような感覚。失うものは、もう何もない。ならば、やるべきことは一つだけだ。


その夜、私は自室に戻ると、埃をかぶっていた大学時代のノートパソコンを開いた。蔵から密かに持ち出していた、ここ十年分の橘花楼の決算書と、先々代の女将が残した経営日誌を傍らに置く。

カタカタと、静かな部屋にキーボードを叩く音だけが響く。私の頭の中では、忘れかけていた知識が猛烈な勢いで蘇り、目の前の数字と結びついていく。

売上高、変動費、固定費、限界利益率、損益分岐点……。大学のゼミで仲間たちと議論を戦わせた、懐かしい言葉たち。あの頃はただの学問だったものが、今、私の手の中で、この旅館の命運を左右する武器になろうとしていた。


まずは、徹底的な現状分析。客室稼働率の推移、顧客単価の変動、リピート率の低下。グラフは、無慈悲なまでに右肩下がりの現実を示している。特に深刻なのは、近隣に新しいホテルやレジャー施設ができたここ数年の落ち込みだ。それなのに、橘花楼は何も手を打ってこなかった。聡子の「伝統と格式」というプライドが、時代の変化に対応することを拒んだ結果だ。

次に、コスト構造の見直し。業者への発注書を一枚一枚確認していく。食材の仕入れ値は、数年前から見直された形跡がない。相見積もりも取らず、長年の付き合いというだけで、市場価格より高い値段で仕入れているものがいくつもあった。厨房から出る生ゴミの量も、日誌から推測するに相当なものだ。清掃やリネン類の委託費用も、見直しの余地は大きい。

そして、新たな収益源の模索。沙織が口にしたような莫大な投資は不可能だ。今ある資産を最大限に活用し、低コストで始められることは何か。橘花楼の強みは、この美しい日本庭園と、歴史が育んだ「本物」の風格。そして、頑固だが腕は確かな板長が作る料理だ。


「……これなら、いける」


夜が白み始める頃、私の前には数十ページに及ぶ詳細な再建計画書が完成していた。それは、単なる思いつきのアイデアではない。すべての提案に、具体的な数字の裏付けと、達成までの明確な道筋が示されていた。

私は仮眠も取らず、身支度を整えた。鏡に映る自分の顔は、疲労で青白い。だが、その瞳の奥には、これまでの一年間、一度も宿ることのなかった強い光が灯っていた。


重苦しい雰囲気のまま、朝食の時間が始まる。誰もが押し黙り、箸を進める音だけが響く中、私は静かに立ち上がった。


「お義母様、お義姉様、そして一真さん。少し、お時間をいただけますでしょうか」


私の唐突な行動に、三人の視線が一斉に集まる。聡子は、眉間に深い皺を寄せた。


「……何です、食事中に。あなたが出しゃばる場ではありませんよ」

「いいえ。これは、橘家全員に関わる、重要なお話です」


私は動じなかった。手にしていた計画書の束を、テーブルの中央にそっと置く。分厚いその紙の束に、沙織が「何よ、それ」と訝しげな声を上げた。


「昨日、銀行から突きつけられた猶予は一ヶ月。それまでに、実現可能な経営改善計画を提出する必要があります。これは、私が昨夜作成した、橘花楼の再建計画書です」


私の言葉に、応接室は一瞬、水を打ったように静まり返った。次の瞬間、けたたましい笑い声が響いた。沙織だった。


「再建計画書? あなたが? 寝言は寝て言ってちょうだい。経営の『け』の字も知らないくせに、何様のつもり?」

「お義姉様がご存じないだけです。私は大学で経営学を専攻し、首席で卒業しました」

「……はあ? だから何だっていうのよ。しょせん、三流大学の机上の空論でしょう? うちみたいな格式ある旅館の経営が、あなたみたいな貧乏育ちの人間に分かるわけないじゃない!」


いつもの、呪いのような言葉。だが、今の私にはまったく響かなかった。私は聡子に向き直る。


「お義母様。この計画書には、今後三ヶ月で損益分岐点を二割引き下げ、半年で単月黒字化を達成するための具体的な方策が記してあります。まず、コストカット。食材仕入れ先の見直しと相見積もりの徹底で、年間三百万円。厨房廃棄ロスの可視化と削減目標設定で、年間百五十万円。リネン、清掃の外部委託契約の見直しで年間二百万円。合計六百五十万円の経費削減が可能です」


具体的な数字を矢継ぎ早に口にする私に、聡子も沙織も、そして一真も、呆気に取られたように目を丸くしている。


「次に、新たな収益源の確保です。高すぎる宿泊プランを見直し、客層に合わせた三つの価格帯を設定します。特に、二十代から三十代の女性グループや、海外からの個人旅行客を新たなターゲットとします。そのために、この美しい庭園を活かした『アフタヌーンティー・プラン』を新設。宿泊せずとも利用できるこのプランで、まずは旅館の魅力を知ってもらいます。宣伝は、お義姉様が得意なSNSを活用し、ターゲット層に影響力のあるインフルエンサーを無償で招待。費用対効果の高い広報戦略を展開します」

「なっ……!」


沙織が息を呑む。彼女の思いつきの提案とは違う、緻密に計算された戦略。私が自分の得意分野を的確に指摘したことに、彼女のプライドが傷つけられたのが分かった。


「そして、最も重要なのが料理です。板長と連携し、原価を抑えつつも満足度の高い新メニューを開発します。例えば、近隣の農家が規格外として廃棄している野菜を安く仕入れ、『もったいない野菜の創作会席』として提供します。これはSDGsに関心が高い客層に強くアピールできるだけでなく、地域貢献としてメディアに取り上げられる可能性も秘めています」


そこまで一気に話したところで、聡子がテーブルを強く叩いた。


「黙りなさい!」


その声は、怒りと混乱で震えていた。


「素人の浅知恵で、聞きかじったような言葉を並べ立てて! 橘花楼の百年の伝統を、そんな安っぽい流行で汚す気ですか! 廃棄野菜だの、アフタヌーンティーだの……うちの格式をなんだと思っているのです!」

「格式だけでは、従業員の給料は払えません。プライドでは、銀行の借金は返せないのです!」


ついに、私は声を張り上げた。一年間、心の奥底に押し殺し続けてきた、すべての感情を乗せて。


「目を覚ましてください、お義母様! このままでは、あなたの守ろうとしているその格式も伝統も、すべてが差し押さえられ、人手に渡るのですよ! それでもいいのですか! このまま全員で路頭に迷うくらいなら、私は、私のやり方でこの旅館を立て直します!」


私の気迫に、聡子も沙織も言葉を失っている。いつもおどおどと俯いてばかりだった嫁の、あまりの豹変ぶりに狼狽しているのだ。

沙織が、わなわなと震える手で、テーブルの上の計画書を掴んだ。


「……生意気な! あなたみたいな女に、偉そうな口をきく資格なんてないのよ!」


彼女は、計画書をずたずたに破り捨てようとした。

その時だった。


「――そこまでになさいませ」


低く、しかし芯の通った声が、部屋に響いた。声の主は、いつの間にか応接室の入り口に立っていた。作務衣姿の、いかつい顔つきの老人。この橘花楼の厨房を長年守り続けてきた、板長の武田源三(たけだげんぞう)その人だった。彼は今日の会議に、厨房のコスト削減案を突きつけられる立場として、聡子に呼び出されていたのだ。


「武田さん……」

「大女将。若嫁さんの話を、もう少し聞いて差し上げてはいかがですかな」


武田は、沙織の手からひったくるように計画書の束を取り上げると、その場で目を通し始めた。彼の険しい眉が、ぴくりと動く。


「……なるほど。仕入れ業者のリストアップに、原価計算。厨房の廃棄率まで試算してあるのか。口先だけではないようだ」


彼の視線が、ある一点で止まった。


「『廃棄野菜の創作会席』……。馬鹿げた話かと思ったが、この献立案は……面白い。うちの八方だしと組み合わせることを計算に入れているのか。ほう、『もったいない』を『ありがたい』に変える、と。小賢しいが、筋は通っている」


武田は顔を上げ、私をじっと見つめた。その職人の厳しい目は、まるで私の覚悟のほどを値踏みしているかのようだった。


「若嫁さん。あんた、本気か。この旅館を、本気で立て直す気があるのか」

「はい。私には、できます」


私は、彼の目をまっすぐに見つめ返して答えた。揺らぎはない。


武田はふう、と一つ息をつくと、聡子に向き直った。


「大女将。このまま指をくわえていても、旅館は潰れるだけです。どうせ潰れるくらいなら、一度、この若嫁に賭けてみてはいかがですかな。この計画書には、少なくとも、ただの机上の空論ではない、現場への敬意と覚悟が感じられる」

「武田さん、あなたまで何を言うのですか! この女の口車に乗せられて!」

「口車、ですかな。わしには、これが最後の希望のように思えますがね」


頑固一徹で、誰にも媚びないこの板長が、私の味方をした。その事実は、聡子にとって計算外の、最大の衝撃だっただろう。

聡子は、武田と私を交互に憎々しげに睨みつけ、長い沈黙の後、絞り出すような声で言った。


「……いいでしょう。そこまで言うのなら、やらせてあげます」

「お母様!」と沙織が悲鳴を上げる。


「ただし」と聡子は続けた。その目は、再び冷たい光を取り戻していた。「期限は一ヶ月。銀行に示すのと同じです。一ヶ月で、この計画が目に見える成果を生まなければ、その時は……。あなたには、この橘家から出て行ってもらいます。一真との離縁も、覚悟の上でなさい」


それは、あまりに厳しい条件だった。失敗すれば、私は夫も、唯一の居場所も、すべてを失う。

だが、私は怯まなかった。むしろ、その言葉が、最後の引き金を引いた。


「承知いたしました。その代わり、この一ヶ月、旅館の経営に関する全権限を、私に委譲していただきます。お義母様もお義姉様も、私の指示に従っていただきますが、よろしいですね?」


私の挑戦的な言葉に、聡子の顔が怒りで引きつる。しかし、彼女はもう後には引けなかった。


「……結構です」


その言葉を引き出した瞬間、私の反撃の狼煙は、確かに上がった。

武田板長という、予想もしなかった強力な味方を得て。孤独だと思っていた戦いに、一筋の光が差し込んだ。

絶望の淵から這い上がる、私の本当の戦いが、今、始まる。

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