「育ちが知れる」と蔑まれた私ですが、傾きかけた老舗旅館の再建、見事成し遂げてみせましょう

@jnkjnk

第1話:蔑みと絶望

磨き上げられた黒漆の廊下に、朝の柔らかな光が差し込んでいる。中庭の木々が風にそよぎ、手入れの行き届いた苔の上にしずかな影を落とす。創業百年を超える老舗旅館「橘花楼(きっかろう)」の朝は、いつだって絵画のような静謐さに満ちていた。

私、橘莉子(たちばなりこ)は、その美しい光景を一人、客室の清掃用具が置かれた物置の小さな窓から眺めていた。この家に嫁いで一年。この旅館のどこにも、私の居場所はなかった。


「莉子さん、まだそんな所にいたの? さっさと朝食の準備を手伝ったらどうなの」


背後から投げつけられたのは、氷のように冷たい義姉・沙織(さおり)の声だった。振り返ると、高価な和装に身を包んだ彼女が、腕を組んで私を見下ろしている。都会での結婚生活に失敗し、一年前に出戻ってきた彼女の苛立ちは、いつも私に向けられた。


「申し訳ありません、お義姉様。すぐに参ります」

「……本当に、気が利かないわね。だから『育ちが知れる』って言われるのよ」


吐き捨てるような言葉は、もはや日常だった。私が幼い頃に両親を亡くし、奨学金とアルバイトで大学を出たことを、この家の人々は「貧乏育ち」と呼び、事あるごとに蔑んだ。

私が愛したのは、夫である橘一真(かずま)の人柄と、彼が情熱的に語るこの橘花楼の未来だった。経営学を学んだ私なら、彼の夢を支えられるかもしれない。そんな淡い希望を抱いて嫁いだけれど、現実はあまりにも違った。


広々とした厨房へ向かうと、すでに大女将である義母・聡子(さとこ)が、凛とした立ち姿で若い仲居たちに指示を出していた。その背中は、この旅館の絶対的な支配者であることを物語っている。


「おはようございます、お義母様。何かお手伝いすることはありますか」

「……結構です」


聡子は私を一瞥しただけで、すぐに視線を帳場へと戻した。その瞳に映るのは、嫁に対する親しみではなく、家に入り込んだ異物を見るような冷ややかな色だ。


「あなたに任せられるような仕事は、ここにはありませんから。お客様の目に触れないよう、裏庭の草むしりでもしていてちょうだい。それくらいなら、あなたでもできるでしょう?」


それは、命令だった。反論など許されない。聡子にとって、私は名家の血が流れる橘家に不釣り合いな存在であり、その「育ちの悪さ」が旅館の品位を汚す、厄介者でしかなかった。

悔しさに唇を噛みしめ、私は「はい」とだけ答えて厨房を後にする。すれ違いざま、沙織が「あら、草むしり? ぴったりじゃない、あなたに」と囁くのが聞こえた。俯いた私の拳が、ぎゅっと固く握りしめられる。涙は見せたくなかった。ここで泣けば、さらに彼女たちを喜ばせるだけだ。


裏庭の隅で、黙々と雑草を抜き続ける。指先が土で汚れ、爪の間に泥が入っていく。それでも、この単純作業は心を無にできるだけましだった。

大学時代は、こんな未来を想像していただろうか。経営学部のゼミでは常にトップの成績だった。企業の財務諸表を分析し、仲間と夜を徹して事業再生プランを練り上げた日々。あの頃の私は、自分の知識と努力で未来を切り拓けると信じていた。そのすべてが、ここでは「育ちが悪い」という一言で否定される。


「莉子」


不意に、優しい声が降ってきた。顔を上げると、夫の一真が心配そうな顔で立っていた。彼は旅館の若旦那として作務衣に身を包んでいるが、その穏やかすぎる表情には経営者としての覇気がまるでない。


「また母さんたちに何か言われたのか。ごめんな、俺が不甲斐ないばかりに……」

「……ううん、大丈夫よ、一真さん。いつものことだから」


私は無理に笑顔を作った。彼が優しいことは知っている。私のことを愛してくれているのも、きっと本当だ。しかし、彼の優しさは、母と姉の絶対的な権力の前ではあまりに無力だった。彼はいつも、こうして謝るだけ。私を庇って、義母たちに意見してくれることは一度もなかった。


「草むしりなんて、莉子がすることじゃないのに。俺から母さんに言っておくよ」

「やめて、一真さん。あなたが何か言ったら、また私への風当たりが強くなるだけだから」


それは本心だった。以前、一真が私のために口添えした結果、聡子の怒りを買い、私は一週間、蔵に閉じ込められ食事も満足に与えられなかったことがある。あの時の絶望的な孤独と空腹は、今も忘れられない。


「でも……」

「お願い。私のことは気にしないで。一真さんは、旅館のお仕事、頑張って」


そう言って彼を送り出す。遠ざかっていく頼りない背中を見つめながら、ため息が漏れた。出会った頃、彼は目を輝かせながら語ってくれたのだ。「この橘花楼を、日本一の旅館にしたいんだ。伝統を守りながらも、新しい風を取り入れて、もっとたくさんの人に愛される場所にしたい」。その夢に、私は自分の夢を重ねた。しかし、現実はどうだ。彼は夢を語るだけで、それを実現するための具体的な行動を起こせずにいた。


昼過ぎ、私は誰にも見咎められないよう、ひっそりとロビーの隅の柱を磨いていた。ここが私の定位置だった。お客様からも、義母たちの目からも遠い場所。

がらん、としたロビーには、客の姿がほとんどない。平日であることを差し引いても、あまりに閑散としていた。かつては予約が取れない人気旅館だったと聞くのに、今は従業員たちの囁き声だけが虚しく響いている。


「またキャンセルが出たらしいぞ」

「今月、一体何件目だ……。これじゃあ、ボーナスどころか給料だって危ないんじゃないか」

「大女将は『うちの格式が分からない客が来なくて結構』なんて仰ってるが、そんな悠長なこと言ってられるのかねえ」


聞こえてくる会話に、胸がずきりと痛む。私には分かっていた。橘花楼は、深刻な経営不振に陥っている。時代遅れのサービス、高すぎる宿泊費、効果的でない宣伝。問題は山積みなのに、聡子は過去の栄光にすがり、現実から目を背けている。沙織はと言えば、SNSで見たという付け焼き刃のアイデアを口にするだけで、コスト意識もターゲット分析も何もない。


(……このままじゃ、本当に倒産する)


莉子の脳裏に、大学の講義で習ったキャッシュフロー計算書や損益分岐点分析のグラフが浮かび上がる。客単価、稼働率、固定費、変動費。頭の中では、橘花楼の現状を分析する思考が勝手に回り始める。私なら、もっとうまくやれる。まずは徹底的なコストカットからだ。業者との契約を見直し、厨房の廃棄ロスを数値化して……。


「あなた、そこで何をしているの」


思考の海に沈んでいた意識が、厳しい声で引き戻された。いつの間にか、聡子と沙織がすぐそばに立っていた。


「申し訳ありません。柱の汚れが気になりましたので……」

「余計なことを。あなたは本当に、じっとしていられないのね。そんなに働きたいなら、蔵の整理でもしていなさい。どうせ暇なのでしょう?」

「……はい」

「ああ、そうだわ」


立ち去ろうとする私を、沙織が呼び止めた。彼女はスマートフォンを私に見せつける。画面には、煌びやかな内装の新しいホテルの写真が映っていた。


「今度、駅前に外資系のデザイナーズホテルができるんですって。見て、このお洒落な内装。それに比べて、うちは古臭くて地味よね。こんなんじゃ、若いお客さんが来るわけないわ」

「沙織。口を慎みなさい」と聡子が咎めるが、沙織は止まらない。

「だって本当のことじゃない、お母様。もっと大胆にリニューアルしないと。例えば、ロビーにプロジェクションマッピングを導入するとか、お部屋を全部洋室にして、ベッドはシモンズにするとか!」


得意げに語る沙織の言葉に、私は心の中でため息をついた。その投資額がいくらになるか、考えたことがあるのだろうか。回収の目処は? そもそも、橘花楼の強みである「和の趣」を自ら捨てて、どうやって外資系ホテルと差別化するつもりなのだろう。


「馬鹿なことを言うんじゃありません。橘花楼の伝統を汚す気ですか。うちは、安っぽい流行に乗るような安宿ではないのですよ」

「でも、このままじゃジリ貧よ!」

「黙りなさい!」


聡子と沙織の不毛な言い争いが始まる。私はそっとその場を離れ、薄暗い蔵へと向かった。埃っぽい空気の中、古い帳簿や使われなくなった調度品が山と積まれている。その一つ、古い桐の箪笥の引き出しを開けると、中には先々代の女将がつけていたという経営日誌が入っていた。こっそりとそれを読むのが、私の唯一の楽しみであり、学びの場だった。そこには、日々の売上から客層の変化、従業員の管理に至るまで、生々しい経営の記録が細やかに記されていた。


(先々代の女将は、こんなにも細かく旅館のことを把握していたんだ……)


それに比べて、今の橘花楼はどうだろう。どんぶり勘定の経営、現実を見ないプライド、無計画な提案。このままでは、先人たちが築き上げてきた百年の歴史が、泡のように消えてしまう。

その夜、旅館の空気をさらに重くする出来事が起きた。夕食後、応接室に家族全員が呼び出されたのだ。そこには、メインバンクである地元の銀行の支店長が、厳しい表情で座っていた。


「……というわけで、橘花楼様へのこれ以上の追加融資は、本日の役員会議にて否決されました」


支店長の冷たい声が、しんと静まり返った部屋に響く。


「長年のお付き合いを考え、我々としましても苦渋の決断です。ですが、ここ数年の業績悪化は看過できるレベルを超えています。返済も滞りがちになっている。このままでは……」

「なんですって……!」


聡子の顔から血の気が引いた。


「うちの格式を、橘花楼の暖簾の重さを、あなた方はお分かりでないのですか! 一時的に客足が遠のいているだけです。すぐに戻ります!」

「奥様。我々が相手にしているのは、格式や暖簾ではなく、数字です」


支店長はきっぱりと言い放った。


「一ヶ月。それが我々が提示できる、最後の猶予です。一ヶ月以内に、抜本的な経営改善計画をご提出ください。実現可能で、具体的な数字に基づいた計画を。それができなければ、我々は融資の全面引き上げ、そして……法的な手続きに移行せざるを得ません」


法的な手続き。それは、事実上の倒産宣告だった。

支店長が帰った後、応接室は墓場のような沈黙に包まれた。


「……なんてこと。あの銀行、恩を仇で返しおって……!」


震える声で呟く聡子は、まだ現実を受け入れられていない。


「だから言ったじゃない! もっと早くリニューアルすべきだったのよ! こうなったらもう、クラウドファンディングしかないわ! 私のSNSのフォロワーに呼びかければ、きっと……」


沙織の的外れな提案が、空しく響く。


「一真! あなた、なんとか言いなさい! あなたは次期当主でしょう!」


聡子に怒鳴りつけられ、一真はびくりと肩を震わせた。彼は青ざめた顔で俯き、か細い声で「……どうしたら……どうしたらいいんだ……」と繰り返すばかり。その姿は、あまりにも頼りなかった。

誰もが絶望し、責任をなすりつけ合うだけの、地獄のような家族会議。

その中で、莉子はただ一人、固く拳を握りしめていた。悔しさ、無力感、夫への失望。様々な感情が渦となって胸を締め付ける。


(終わり……? ここで、全部終わらせるの?)


橘花楼がなくなる。一真が愛した場所が。そして、私が唯一、自分の力を証明できるかもしれないと願った場所が。


(冗談じゃない)


ふと、莉子の脳裏に、大学の卒業論文のテーマが鮮明に蘇った。『老舗企業の事業再生における伝統と革新のジレンマ――成功事例に見る定量的アプローチ』。何百もの論文を読み漁り、何社ものケーススタディを分析した。あの時、紙の上で組み立てたロジックが、今、目の前の現実とピタリと重なる。


コスト構造の分析、負債の圧縮、新たな収益源の確保、ターゲット顧客の再定義、損益分岐点の引き下げ……。

頭の中で、具体的な数字と計画が、パズルのピースのように組み上がっていくのが分かった。


絶望に満ちたこの部屋で、誰もが下を向いている。だが、莉子は静かに顔を上げた。その瞳には、もはや諦めの色はない。嘲笑され、蔑まれ、存在しないものとして扱われてきたこの一年。溜まりに溜まった悔しさが、今、冷たく燃える闘志へと変わろうとしていた。


「あなたみたいな育ちの人に、何ができるわけない」

義母の言葉が、耳の奥で反響する。


(見ていなさい、お義母様)


心の中で、莉子は静かに呟いた。


(あなたたちが守れなかったこの橘花楼を、育ちの悪いこの私が、必ず立て直してみせる)


絶望の淵で、一人の嫁の静かな反撃が、今、始まろうとしていた。

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