最終話|「撮る日まで、生きる」

最終話|「撮る日まで、生きる」


 数年後の冬も、やはり容赦なく冷たかった。  駅前のイルミネーションは相変わらず安っぽい青色のままで、いくつか電球が死んでいるのも相変わらずだ。風が吹くたびにチカチカと震える光は、まるで「今年も生き延びたね」と、皮肉混じりの挨拶を投げかけてくる。


 葵と悠真は、相変わらず介護の制服が入った重い鞄を肩に食い込ませ、並んで坂道を歩いていた。


「……ねえ、悠真。今日のよし子さん、見た?」  葵がマフラーに顎を埋め、白い息を吐き出す。 「ああ。あの『富士山』、ついに真っ白になったな。根元まで雪が降り積もって、本物の冠雪だ」 「でしょ? でも本人は『これからが登り時よ』なんて言って、レクリエーションの合唱で一番大きな声出してた。……あの生命力、どこから湧いてくるのかな」


 二人は、超高級老人ホームでの仕事を続けていた。  相変わらずシャンデリアの下で他人の孤独を拭い、高価なカシミヤのシワを伸ばす毎日。給料は劇的には上がらないし、生活の節々には相変わらず「一円でも安く」という計算がつきまとっている。


 坂を上りきった角に、一軒の古びた写真館がある。  ショーウィンドウには、何十年も前から飾られているような、色褪せた家族写真。見事にふくらんだウェディングドレスを着た花嫁が、柔らかい光の中で微笑んでいる。


 葵の足が、ふと止まった。 「……写真」


 悠真も立ち止まり、ショーウィンドウをじっと見つめた。  あのブリキの貯金箱は、今も部屋のカラーボックスの上に鎮座している。中身は二十万にはまだ届いていない。アパートの更新料に消え、葵が風邪を引いた時の医療費に消え、時には健吾さんが泣きついてきた時の「二度と貸さないからな」という手切れ金に消えた。


「……まだ、撮れないね」  葵が、少しだけ自嘲気味に笑った。 「……ああ。でも、あと三万。コーヒーに換算すると、あと何杯だ?」 「計算しないで。虚しくなるから」


 悠真は、ポケットの中で葵の手を握った。  数年前よりも少し硬くなった葵の手。水仕事で荒れ、消毒液の匂いが染み付いた指先。  写真館のショーウィンドウに映る二人の姿は、あのモデルのような花嫁たちとはほど遠い。どこにでもいる、疲れた顔をした、名もなき労働者の男女だ。


「……ねえ、葵。今日さ、冴島夫人が亡くなった後の部屋を掃除してたらさ」 「うん」 「あの人の枕元に、俺たちが撮ったあの『家族の肖像』イベントの写真が置いてあったんだ。……俺たちが照明係やって、葵がシャッター押した、あの写真」


 葵の胸が、冬の冷たい空気とは別の理由で、キュッとした。 「……そうだったんだ」 「あの人、最後の一週間、ずっとあの写真を抱えてたって、夜勤のスタッフが言ってた。……写真ってさ、撮るまでが大事なんじゃなくて、撮った後に、それを見て『生きててよかった』って思えるかどうかなんだな」


 悠真が、葵の手を自分のコートのポケットに引き入れた。 「だから、俺たちの写真は、まだ撮らなくていい。……まだ、足りないからな。お前に『白が似合うよ』って言ったあの時の気持ちを、もっと熟成させなきゃいけない」


「……何それ。ただの言い訳でしょ。単に貯金が貯まってないだけじゃない」  葵は笑いながら、悠真の腕に頭を預けた。 「でも、いいよ。……私、今の自分たちの手、嫌いじゃないし」


 二人は、写真館の前を通り過ぎた。  ドレスを着る日は、まだ先だ。ハワイに行く日なんて、一生来ないかもしれない。  自分たちを祝ってくれる親も、親戚も、盛大なパーティーも、この先もずっと現れないだろう。


 けれど、アパートの階段の下まで来たとき。  二階の住人の部屋から、味噌汁の匂いが漂ってきた。  自転車のベルの音、遠くで吠える犬の声、そして——。


「ただいま」  葵が、扉を開けながら言った。 「……ただいま」  悠真が、靴を揃えながら答えた。


 部屋に入ると、ストーブの青い炎が、小さな「家族の城」を静かに照らした。  ブリキの貯金箱は、月明かりを浴びて、鈍く光っている。  それは、二人が今日一日を、そしてこれまでの数年間を、「自分たちだけで肯定してきた」証そのものだった。


 貧しさは克服していない。  孤独が消えたわけでもない。  けれど、冷たい指先を重ね合わせれば、そこにしかない熱が生まれることを、二人は知っている。


 窓の外、夜の闇は深い。  けれど、この六畳一間の宇宙には、二人の呼吸と、明日へのわずかな期待が、確かに満ちていた。


 祝われなかった結婚は、今日もちゃんと生きている。


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