エピローグ|「冠雪の朝」
エピローグ|「冠雪の朝」
あれから、さらに幾つかの冬が通り過ぎていった。 相変わらずアパートの鉄の手すりは、冬の朝に触れると指が張り付くんじゃないかと思うほど冷たい。でも、二階の住人の「ハックション!」という盛大なくしゃみが、まるで時報のように聞こえてくると、葵は「ああ、今日も世界は平常運転だ」と、少しだけおかしくなる。
部屋の隅、かつてブリキの貯金箱が置かれていた場所には、今、一足の小さな、本当に小さな靴が並んでいる。 家族が「増えた」のだ。
「……ねえ、悠真。いい加減に起きて。よし子さんが待ちくたびれて、富士山が噴火しちゃうよ」 葵が布団の上から声をかけると、毛布の山がモゾモゾと動いた。 「……あと三分。……よし子さんは、噴火してもいいけど、俺の腰は噴火寸前なんだ。昨日、元横綱の入居者の移乗を手伝ったせいだ……」 「贅沢言わない。現役時代の横綱を抱えられるなんて、光栄だと思わなきゃ」
悠真が顔を出す。彼のこめかみには、いつの間にか一本、白髪が混じっていた。 葵は、その白を指でそっとなぞる。 「あ、悠真も冠雪し始めてる」 「……うるさい。それは苦労の結晶だ」
二人は、笑いながら朝の支度を始める。 キッチンのトースターからは、少し焦げたパンの香ばしい匂い。お湯が沸騰し、ポットが「ピィー!」と甲高く叫ぶ。その生活の騒音が、何よりも愛おしい。
職場である『グランド・メゾン・白金』へ向かう道すがら、二人はかつて通り過ぎたあの写真館の前に立った。 ショーウィンドウの中身は、流行りのデジタルフォトに変わっていたけれど、葵たちが撮ろうとしている「写真」の価値は、何も変わっていない。
「……葵」 悠真が、不意に足を止めた。 「なに?」 「今日、仕事が終わったら、ここ寄ろう」 「えっ、まだ貯金、あと五千円足りないよ?」 「いいんだよ。五千円分、俺たちの笑顔で値切る。……っていうのは冗談だけど、店主のおじいちゃんが『あんたたち、毎日毎日ここを覗いていくから、出世払いでいいよ』って、昨日言ってたんだ」
葵は、目を丸くした。 「……私たちの『覗き魔』、バレてたの?」 「バレてた。……でも、おじいちゃんが言ってたぜ。……『いい表情をしてる夫婦だ』ってさ」
その日の午後、よし子さんの入浴介助を終えた葵は、彼女の青い髪を丁寧に乾かしていた。 「よし子さん。私、今日、写真を撮ることにしたんです」 ドライヤーの温風が、青い髪をふわふわと踊らせる。 「あら。……やっとね。あんた、ずっと『まだ足りない、まだ足りない』って、お腹空かせた雛鳥みたいな顔してたもの」 よし子さんは、鏡越しに葵を睨んだ。 「いい? 幸せなんていうのはね、完成してから撮るもんじゃないのよ。……不格好なまま、今この瞬間を『これでいいんだ』って言い張るために撮るものなの。……ほら、私の富士山も、いつまで経っても雲がかかってて、ちっとも綺麗じゃないでしょ?」
よし子さんは、自分の白い髪を指差して笑った。 葵は、初めて、よし子さんのシワの深さが、美しい地図のように見えた。
夜、二人は写真館の、少し埃っぽいスタジオに立っていた。 葵が着ているのは、結局レンタルした、少し裾のほつれた、型落ちの白いドレスだ。 悠真は、あの格安スラックスに、少しサイズが合わないジャケット。
フラッシュの準備をする店主のおじいちゃんが、「はい、笑ってー」と声をかける。
葵は、隣に立つ悠真の、少し汗ばんだ手の温もりを感じていた。 ここにはシャンデリアも、カサブランカもない。 あるのは、二人が何年もかけて、自分たちの手で磨き上げてきた、泥臭くて、おかしな、けれど誰にも汚されない「日常」だけだ。
「……ねえ、悠真」 「ん」 「……おめでとう。私たち」 「……ああ。おめでとう、葵」
『カシャッ』
白い光が弾けた。 その一瞬に、二人の過去も、不安も、そしてこれから来るであろう、さらに冷たい冬の日々も、すべてが祝福として焼き付けられた。
写真館を出ると、夜空には満天の星が広がっていた。 駅前のイルミネーションよりもずっと静かで、ずっと強い光。
「お腹空いたね」 「ああ。……今日は、あの海老入りの、一番高いやつ食べよう」 「いいね。……お祝いだから」
二人は、繋いだ手をポケットに入れ、ゆっくりと坂道を下っていった。 誰にも祝われなかった。親もいない。実家もない。 けれど、二人の歩く道には、確かな生活の匂いと、誰にも奪えない愛の足跡が刻まれていた。
祝われなかった結婚は、今日もちゃんと生きている。 そして明日の朝、二人はまた、誰かの名前を呼びに、あの眩しい温室へと出かけていくのだ。
不器用な富士山に、また新しい雪が積もる、その日まで。
(完)
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