第九話|「貯金箱」

第九話|「貯金箱」


 六畳一間の片隅、カラーボックスの上にそれは置かれている。  百円ショップで買った、どこにでもあるブリキの貯金箱。もとはポップな原色だったはずだが、蛍光灯の下で見ると少しだけ色が褪せて見える。その側面に、不格好な字で書かれた「写真」というラベル。葵の丸っこい文字と、悠真の角ばった文字が混ざり合った、世界で一番小さな「計画」だ。


「……ねえ、悠真。今日の分」  葵が、エプロンのポケットから十円玉を三枚と、少しだけ歪んだ五十円玉を取り出した。  『チリン』。  ブリキの底を叩く乾いた音が、静かな部屋に響く。 「俺も。……今日は自販機のコーヒーを我慢したから、百二十円」  『チャリン』。  悠真が投入した硬貨が、先に入っていた葵の十円玉と重なり、少しだけ「重い」音に変わった。


「……ねえ、これ。あと、どのくらいかな」  葵は貯金箱を両手で持ち上げ、耳のそばで軽く振った。  『シャラシャラ』と、金属が擦れ合う音がする。それは、二人がこの一年、高級老人ホームで他人の孤独を拭い、車椅子を押し、頭を下げて手に入れてきた「生活の欠片」だ。


「……まだ、三万いってないくらいか。二十万までは、あと何百回コーヒーを我慢すればいいんだろうな」  悠真が、畳の上に寝転びながら溜息をついた。 「でもさ、確実に増えてるよ。最初は『チャリン』って一回鳴って終わりだったのに、今はもう、振ると『ジャラッ』て重たい音がする。……なんか、私たちの毎日が、ここに溜まってるみたいだね」


 葵は、貯金箱を元の場所に戻し、悠真の隣に座った。  冬の夜、薄いカーテンの隙間から入り込む冷気が、フローリングの端を冷やしている。でも、ストーブの上でシュンシュンと鳴るやかんの音と、悠真の体温が、この部屋をかろうじて「家」に繋ぎ止めていた。


「……ねえ、悠真」 「ん」 「写真のとき。……ドレス、やっぱり白がいいかな」


 葵が、膝を抱えたまま、窓の外の暗闇を見つめて言った。  生まれて初めて口にした、「自分のための」贅沢な願い。 「……白? ウェディングドレスってやつか」 「うん。……施設のとき、誰かの誕生会で使った白いシーツを体に巻きつけて、お姫様ごっこしたことあったでしょ? あのとき、いつか本物を着てみたいなって、ちょっと思ったの。……でも、高いよね。カラードレスの方が安いかな」


 悠真は、しばらく黙って天井を見つめていた。  彼の目には、職場で見かける冴島夫人の高価なドレスや、美咲が見せたハワイの海の青さが浮かんでいたのかもしれない。 「……白でいいよ」  悠真の声は、少しだけ掠れていた。 「白がいい。……お前は、仕事のときはいつも地味な色のポロシャツ着て、入居者の汚れを拭いてるだろ。……一回くらい、誰の汚れもついてない、真っ白なのを着ればいい。……二十万、俺がなんとかする」


「無理しないでよ。素うどんは禁止だってば」 「わかってる。……でも、白は似合うよ。絶対」


 悠真が、照れ隠しに腕で顔を覆った。  葵は、その不器用な言葉が、どんな高級な宝石よりも熱く胸に響くのを感じた。


「……ありがと。……悠真がそう言ってくれるなら、白にする。レンタルの一番安い、ちょっと形が古いやつでいいから」 「……俺も、その日はネクタイくらい締めるよ。……よし子さんに結び方教わらなきゃな。あの人、元外交官の旦那のネクタイ、毎日締めてたって自慢してたから」


 二人は、暗い部屋でくすくすと笑い合った。  未来はまだ、霧の中にある。  健吾さんが言ったように、この先には借金や病気や、解決できない孤独が待っているのかもしれない。  けれど、このブリキの貯金箱が「ジャラッ」と鳴るたびに、二人は自分たちが「家族」であることを、一歩ずつ、確実に積み上げている。


「……ねえ、悠真。写真、撮ったら、どこに飾る?」 「どこでもいいだろ。こんな狭い部屋」 「ダメ。……貯金箱の隣がいい。……私たちが、あんなに頑張って小銭を貯めたんだよって、自分たちを褒めてあげるために」


 葵は、自分の指先を悠真の掌に重ねた。  仕事で荒れた、少しガサガサした指先。  けれど、その感触こそが、共に戦い、共に生きている「家族」の証だ。


「……いいよ。そうしよう」  悠真が、葵の指を優しく握り返した。 「……おやすみ、葵。明日も、富士山が待ってるぞ」 「……おやすみ、悠真。明日は、名前で呼んであげてね」


 冬の夜風がアパートを揺らす。  けれど、六畳一間の片隅で、ブリキの貯金箱は静かに、二人の明日を、そして真っ白な未来を、重たく抱えていた。


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