第七話|「老夫婦の最期」

第七話|「老夫婦の最期」


 その日の『グランド・メゾン・白金』は、いつもよりずっと静かだった。自動演奏のピアノも、今日はショパンではなく、音数の少ないサティを奏でている。  ロビーに漂うカサブランカの香りが、どこか線香の匂いに似て感じられるのは、葵の心が湿っているせいだろうか。


 入居者の中でも、ひときわ仲の良かった「元外交官の藤堂(とうどう)夫妻」の部屋の扉が、重く閉ざされていた。数時間前、ご主人の正雄(まさお)さんが、眠るように息を引き取ったのだ。


「葵、顔を洗ってこい。鼻水が出てるぞ」  廊下の隅で、悠真が声をかけてきた。彼の声はいつも通り低く、乾いているけれど、血圧計を握る指先がわずかに白くなっているのを、葵は見逃さなかった。 「……だって、昨日まであんなに笑って『明日の朝食はクロワッサンがいいな』なんて言ってたんだよ。あまりに、あっけなさすぎるよ」 「あっけないのが、ここでの『最高の終わり方』なんだ。……ほら、奥様をリビングにお連れする時間だ。仕事だぞ、中村さん」


 悠真に背中を押され、葵は大きく息を吸って、藤堂夫妻の部屋へ入った。  部屋には、死の気配よりも、長い時間をかけて熟成された「生活の澱(おり)」のような、温かくて重い空気が満ちていた。  ソファに座る和子(かずこ)夫人は、泣いていなかった。ただ、夫がさっきまで座っていた空っぽの椅子を、慈しむように見つめている。


「葵さん、悠真さん。……主人を綺麗にしてくださって、ありがとう。あんなに安らかな顔、現役の頃には一度も見せなかったわ」  夫人の声は、枯れ葉が重なり合うような、優しくてカサカサした響きだった。 「……藤堂様。何か、お手伝いできることはございますか?」  葵が膝をついて問いかけると、夫人はふっと、少女のような悪戯っぽい笑みを浮かべた。


「ねえ、あなたたち。……私たちね、結婚式、挙げてないのよ」  葵と悠真が、同時に息を呑んだ。  こんな超高級施設に入居し、宝石を散りばめたような人生を送ってきたはずの二人が、式を挙げていない?


「戦後すぐでね、食べるものもなかった。ドレスなんて夢のまた夢。あるのは、この人がどこからか工面してきた、配給の乾パンと、小さなブリキの指輪だけ。……誰にも祝われず、親にも反対されて、二人で夜逃げみたいにして始めた生活だったわ」


 夫人が、骨張った指で、左手薬指の古ぼけた指輪をなぞる。 「三階建ての豪華なケーキも、ハワイの海もなかったけれど。……でもね、あの日、二人で食べた乾パンの、あの粉っぽい味と、主人が私の名前を呼んだ時の震える声。……それだけで、私たちは六十年生きてこれたの」


 夫人は、静かに横たわる夫の元へ歩み寄り、その冷たい手に自分の手を重ねた。 「正雄さん。……ありがとう。あなたと生きてよかった。名前を呼んでくれて、ありがとう」


 その言葉が、葵の胸の奥にある、ダムの決壊を招いた。  我慢していた涙が、大理石の床にポタポタと音を立てて落ちる。 「……ごめんなさい、藤堂様。スタッフとして、失礼ですよね……」  葵が鼻をすすりながら謝ると、夫人は優しく葵の頬を撫でた。


「いいのよ。……お祝いっていうのはね、誰かにしてもらうものじゃないの。二人の間で、どれだけ深く、相手の存在を刻めたか。……それだけが、最後に残るのよ。……ねえ、悠真さん」  夫人が、後ろに控えていた悠真を呼んだ。 「はい」 「葵さんのこと、ちゃんと名前で呼んであげてね。……世界でたった一人の、あなたの家族なんだから」


 悠真は、しばらく黙っていた。  シャンデリアの光が、彼の伏せた睫毛に反射して、複雑な陰影を作っている。 「……はい。……努力します」


 帰り道。  夜の空気は昨日よりもさらに冷たく、肺を刺すようだった。けれど、葵の心には、温かい乾パンの粉のような、素朴な熱が残っていた。


「……ねえ、悠真」 「ん」 「……祝われなくても、いいんだね。私たちが、お互いに『ありがとう』って言えれば、それで。三百万のドレスよりも、名前を呼び合うことの方が、ずっと……『家族』なんだね」


 悠真が、足を止めた。  駅前の、相変わらず安っぽくてチカチカうるさい青いイルミネーションの下。


「……葵」  彼は、小さな声で、でもはっきりと呼んだ。 「……なに?」 「……名前、呼んだだろ」 「……もう一回言って。風の音で聞こえなかった」 「二度は言わない。……でも、さっきの藤堂さんの奥さんの話。……俺、ちょっとだけ、救われた気がした」


 悠真が、葵の冷えた手を自分のポケットに引き入れた。  そこには、仕事で使い古した使い捨てカイロの、頼りないけれど確かな熱があった。


「……俺たちの結婚は、乾パン以下かもしれないけど。……でも、いつかお前が死ぬ時に、『悠真と生きてよかった』って言わせる。……それが、俺の新しい『計画』だ」


 葵は、悠真のポケットの中で、彼の指をぎゅっと握りしめた。 「……気が長い計画だね。……でも、予約しておくよ。……あと、乾パンよりは、海老入りカップ麺の方が美味しいから、私たちの勝ちだね」


 二人は、笑いながらアパートへの坂道を上った。  救済はない。魔法もない。  けれど、誰にも祝われなかった二人の頭上には、冬の星座が、まるで宝石を散りばめた天冠のように、静かに輝いていた。


「ただいま」 「……ただいま。……葵」 「……おかえり。……悠真」


 二十歳の夫婦。七日目の夜。  名もなき二人の生活は、藤堂夫妻が遺した「言葉の宝石」を胸に、明日もまた、平凡で、けれどかけがえのない一日を紡いでいく。


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