第六話|「退所者の先輩」

第六話|「退所者の先輩」


 その夜、アパートのドアを叩く音は、まるで借金の取り立てのような執拗さだった。  『ドンドンドン!』という乾いた衝撃が、薄いドアを震わせ、静まり返った六畳一間に響き渡る。葵と悠真は、並んで座っていた床から、同時に跳ね起きた。


「……集金?」  悠真が眉をひそめて立ち上がる。 「いや、夜の九時だよ……」


 ドアを開けると、そこには冷たい夜風と共に、強いタバコの匂いと、安物の香水の混ざった、ひどく「疲れ切った大人の匂い」が立っていた。  施設の三学年上で、今は建設会社を転々としているはずの先輩、健吾(けんご)だった。


「よお、お前ら。結婚したんだって? お祝いにきてやったぞ」  健吾は、返事も待たずにズカズカと部屋に上がり込んできた。手には、飲みかけの安い焼酎のボトルと、スーパーの半額シールが貼られたひからびた唐揚げのパック。


「……健吾さん、お久しぶりです。でも、急にどうしたんですか」  悠真が動揺を隠すように、脱ぎ散らかされた健吾の靴を揃える。


「どうしたもこうしたもねえよ。追い出されたんだよ、女に。……見てろよ、これが三年の結婚生活のなれの果てだ」  健吾は、クシャクシャになった離婚届の控えを、二人の「段ボールテーブル」の上に叩きつけた。婚姻届を受理されたばかりの二人の前に、その対極にある「終わり」が投げ出される。


「健吾さん、飲みすぎですよ。……お水、持ってきますね」  葵がキッチンへ逃げようとすると、健吾の濁った瞳が彼女を射抜いた。


「葵、お前さ。結婚すれば、この世の孤独が全部消えると思ってんだろ? ……甘いぞ。施設にいた頃の方がまだマシだった。あそこには飯も屋根もあった。今は、隣で寝てる奴が一番の赤の他人だ。……結婚は救いじゃない。ただの、二人乗りの沈没船だ」


 健吾が笑う。その笑い声は、喉の奥で小石が転がるような、乾いた音だった。 「お前らみたいな、根っこのない奴らが『家族』ごっこしたって、風が吹けば一発で終わりだ。保証人もいねえ、頼る実家もいねえ。……借金背負って、どっちかが病気になったら、そこが終着駅だぞ」


 部屋の中に、重苦しい沈黙が落ちた。  焼酎のツンとしたアルコール臭が、昨日まで大切に育てていた「二十万の計画」という小さな希望の火を、容赦なく吹き消そうとする。


「……もう、いいですよ。健吾さん、帰ってください」  悠真が、氷のような声で言った。 「あ? なんだよ悠真、現実を教えてやってんだろ」 「現実は、自分たちで選びます。あなたの失敗を、俺たちに押し付けないでください」


 健吾が毒づきながら去った後、部屋には再び静寂が戻った。けれど、その静寂は、さっきまでの穏やかなものとは違っていた。床に落ちた唐揚げの油染みが、葵には自分たちの未来の汚れに見えて仕方がなかった。


「……ねえ、悠真」  葵が、震える指先で空のコップを握りしめた。 「……なに」 「私たちも、ああなるのかな。……借金して、誰にも助けてもらえなくて、お互いを嫌いになって。……結局、あの施設に戻る場所もないまま、壊れちゃうのかな」


「……あんなの、ただの酔っ払いの世迷い言だろ。気にするなよ」 「気にするよ! だって、私たち、本当に『実家』がないんだもん。不測の事態が起きたら、終わりなのは本当じゃない」


 葵の声が、思わず大きくなった。 「眩しい高級ホームで働いて、家に帰れば六畳一間。……私たちは、あそこで働く人たちみたいにはなれない。よし子さんみたいな『完成した富士山』にはなれない。……ただの、枯れ木のまま終わるんだよ」


「……葵、お前、いい加減にしろよ」  悠真が、初めて声を荒らげた。 「俺が、仕事と感情を切り離せって言っただろ! あのお客さんたちと自分を比べるから、そんな不安になるんだ。……俺たちは俺たちだ。健吾さんとも違う」


「何が違うの!? 計画? 二十万? ……そんなの、健吾さんの離婚届一枚で吹き飛ぶような、薄っぺらなものじゃない!」


 二人は、初めて激しくぶつかり合った。  怒りの根底にあるのは、お互いへの嫌悪ではなく、正体不明の未来への「恐怖」だった。  葵の目から、熱い涙が溢れ出した。冬の乾燥した空気の中で、涙だけがやけに生々しく頬を伝う。


「……怖いよ、悠真。……一人は怖かったけど、二人でいて、いつかいなくなるのは、もっと怖い」


 悠真は、拳をぎゅっと握りしめていた。爪が掌に食い込み、震えている。  やがて彼は、大きくため息をつき、葵の肩を乱暴に、けれど壊れ物を扱うように抱き寄せた。


「……分かってる。俺だって、死ぬほど怖いよ」  彼の胸から、早鐘のような鼓動が伝わってくる。 「でもさ、葵。……俺たちは、最初からどん底だ。健吾さんみたいに、落ちる場所なんて、もうないんだよ」


 悠真が、葵の涙を親指で拭った。 「沈没船なら、二人で漕げばいい。……俺が、名前を呼ぶ練習をしてるのは、お前を『他人』にしないためだ。……大丈夫だ。俺が、明日も六時に起こしてやるから」


 葵は、悠真のセーターにしがみついて泣いた。  安物の洗剤の匂い。そして、今日一日働いた、少し汗ばんだ、男の匂い。  それはハワイの海よりも、大理石のロビーよりも、今の葵にとっては信じられる唯一の「現実」だった。


「……明日から、焼きそばに戻そうね。うどんだと力がでないから」  葵が鼻をすすりながら言うと、悠真がふっと笑った。 「ああ。……キャベツも入れよう。ビタミン取らないと、心が荒れる」


 嵐のような夜が、ゆっくりと更けていく。  窓の外では、また配送トラックが通り過ぎていく。  先輩が残した離婚届は、ゴミ箱の奥へと押し込まれた。


 救済はない。保証人もいない。  けれど、二人の間の「仕切り板」は、この喧嘩の熱で、少しだけ溶けて無くなっていた。


「……寝よう、悠真。明日、仕事だよ」 「……ああ。おやすみ、葵」


 二十歳の夫婦。六日目の夜。  不安は消えない。けれど、その不安を「半分こ」にする方法を、二人は少しずつ、ユーモアという名の武装で学び始めていた。


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