第五話|「写真だけでも」
第五話|「写真だけでも」
キッチンの蛍光灯が、心許ない音を立てて小さくチカついている。 換気扇から入り込む冬の風が、ガスコンロの火をわずかに揺らした。今夜の献立は、特売で買った「賞味期限が三時間後に迫った挽肉」と玉ねぎを炒めたもの。味付けは、施設時代に慣れ親しんだ、適当なソースとケチャップ。どこか懐かしく、そしてひどく「現状維持」の匂いがした。
ダイニングテーブル代わりの段ボールの上には、二枚の給料明細が並べられている。
「……ねえ、悠真。これ、見て」 葵が、明細の右下を指先でなぞる。 「家賃、光熱費、食費……。それから、よし子さんの部屋で割っちゃった花瓶の弁償代」 「……あれは俺が半分持つって言っただろ」 「いいよ。私がよろけたんだから。……で、残ったのが、これ」
悠真が数字を覗き込み、短く「ふむ」と唸った。その「ふむ」には、元大物政治家の入居者が一晩で空けるシャンパンよりも、ずっと重い重力がかかっている。
「……一万二千円、か」 「そう。一万二千円。これで一ヶ月、私たちは『娯楽』という名の何かをしなきゃいけない。映画なら三回行けるし、牛丼なら……何杯食べられるかな」 「映画はやめとけ。終わった後に感想を言い合うカフェ代で、来週の朝飯が食パン一枚になる」
悠真は、冷めた挽肉を口に運び、咀嚼した。 「……葵。これ、ソース足りない。もっと『家族の温もり』を感じる濃い味にして」 「贅沢言わないで。ソースだって一滴五円くらいの価値があるんだから」
葵は笑いながら、空になったカップを片付けた。 二人の会話は、いつだって数字がついて回る。ロマンチックな愛の囁きよりも、一キログラムあたりの米の価格の方が、今の二人にはよほど重要な「愛の形」だった。
「……ねえ。今日、冴島夫人が言ってたんだ」 葵が、蛇口から出る冷たい水に手を浸しながら言った。 「宝石は、贈ってくれる人がいて初めて輝くって。……私たちの宝石、どこにあるのかな」
悠真は、給料明細の端を綺麗に折り畳みながら、しばらく黙っていた。 「……宝石なんて、あんな大理石のロビーにしかないよ。俺たちの手元にあるのは、この明細と、明日も六時に鳴る目覚まし時計だけだ」
そう言ってから、悠真は椅子の背もたれに体を預け、天井のシミを見上げた。 「……でもさ。写真だけでも、撮れたらいいよな。いつか」
葵の手が止まった。排水口に吸い込まれていく水の音が、やけに大きく響く。 「……写真?」 「そう。ドレスも、ハワイも、三百万もいらない。ただ、お前が白い服着て、俺がこの格安スラックス履いて。どこかの公園の、枯れ木の前のベンチでいい。……『俺たちは、ここにいた』っていう証拠写真だ」
葵は、濡れた手をエプロンで拭き、悠真の隣に座った。 彼の首筋には、今日一日、車椅子を押したせいでこわばった筋肉の筋が浮いている。
「……急がなくていいよ」 葵は、自分の声を一音ずつ確かめるように言った。 「今は、生きるので精一杯だもん。……三脚を買うお金があったら、新しい靴下が欲しい。よし子さんの入浴介助で、私の靴下、もう穴が開いちゃったから」
「……靴下なら、俺が誕生日に買ってやるよ。三足千円のやつじゃなくて、五本指の、滑り止めがついた最強のやつ」 「何それ、全然可愛くない」
二人は、暗いキッチンで小さく笑った。 その笑い声は、施設時代のプレイルームで、消灯時間を過ぎてからコソコソと話していたあの頃と、何も変わっていない。
「……でもさ、悠真。これ、夢じゃなくて『計画』にしようよ」 「計画?」 「うん。再来年の三月。貯金が二十万貯まったら、写真を撮る。レンタルドレスの一番安いやつでいい。……あと、その日はお昼に、コンビニじゃないケーキを食べる。二個。……どう?」
悠真は、真剣な顔で葵を見つめた。 彼は、感情を言葉にするのが苦手だ。でも、その瞳が「了解」と言っているのを、葵は知っている。
「……わかった。二十万、貯めるぞ。……よし。じゃあ、明日から俺、昼飯を焼きそばから『素うどん』に格下げする。一食三十円浮く。一ヶ月で九百円。一年で一万八百円だ」 「極端すぎるよ。死んじゃう。……倒れたら、入院費でマイナスになるでしょ。計画的に食べて」
二人は、再び給料明細を見つめた。 それは、ただの紙切れではなく、自分たちの未来を少しずつ削り出し、象っていくための「設計図」のように見えた。
「……写真。いつか撮ろうね、葵」 「うん。……そのときは、よし子さんに借りようかな。あの青い髪。富士山役で」 「余計な金かかるだろ、出演料。……お前は、お前のままでいいよ」
キッチンの蛍光灯が、また一つ、小さく瞬いた。 外では、深夜の配送トラックが通り過ぎる音がして、薄いカーテンが微かに震える。
特別な救済も、ドラマチックな逆転劇もない。 けれど、この暗い部屋の真ん中で、二人は「二十万」という具体的な数字を握りしめ、冷え切った挽肉を分け合った。
いないから、作る。 足りないから、計画する。
その不器用な生活の足音が、静かな夜にリズムを刻んでいた。 二十歳の夫婦の、五日目の夜。
「……よし。寝よう、悠真。明日、六時だよ」 「……ああ。おやすみ、葵」 「……おやすみ。旦那様」 「……その呼び方、やっぱり禁止だ」
二人は並んで立ち上がり、光の足りない部屋を、ゆっくりと歩き出した。
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