第四話|「祝われなかった結婚」

第四話|「祝われなかった結婚」


 お昼休憩の職員休憩室は、レンジで温められたコンビニ弁当の匂いと、無遠慮な「おめでとう」の弾丸が飛び交う戦場だった。


「葵さん、これ見てよ! 先週挙げたハワイ挙式のデータ、やっと届いたの!」  同僚の美咲が、眩いブルーの海を背景にしたスマートフォンの画面を突き出してくる。そこには、レースをふんだんに使った純白のドレスに身を包み、この世の春をすべて独り占めしたような笑顔の美咲がいた。


「うわぁ……綺麗。海、本当に青いですね」  葵は、自分の口角を左右均等に引き上げる。これは『接遇マニュアル』の第3章、感情を伴わない笑顔の作り方だ。


「でしょ? 準備だけで三百万吹っ飛んだから、当分はもやし生活だけどさ。でも、やっぱり親がああいう姿見て泣いてくれると、やって良かったーって思うよね。葵さんは? 籍入れたんでしょ? 挙式とか新婚旅行の予定は?」


 葵の心臓が、冷たい水に浸されたように縮んだ。 「私たちは……別に。仕事も忙しいし、当分は予定ないです」 「えー、もったいない! 若いうちしかドレスなんて着れないんだから。新婚旅行だって、福利厚生の休暇使えるじゃん。あ、ごめん、お弁当食べ終わっちゃうよね」


 美咲に悪意はない。ただ、彼女の世界には「親がいないから、祝う側が誰もいない」という選択肢が存在しないだけなのだ。  葵は、朝五時に詰めた「一袋十円のもやし炒め」を、プラスチックの箸で慎重に口へ運んだ。咀嚼する音が自分の耳の中でだけ、ひどく卑屈に響く。


「ごめん、葵。先に行くわ」  隣でカップ麺を啜っていた悠真が、割り箸を置いて立ち上がった。彼の顔は、冬のコンクリートのように無機質だ。 「あ、うん。後で行くね、中村さん」


 仕事に戻れば、そこはシャンデリアの楽園だ。  午後の回診中、葵は元女優の冴島夫人に呼び止められた。 「葵さん。今日のあなた、なんだか『抜けた殻』みたいね。魂をどこに忘れてきたの?」 「いえ、冴島様。ただの寝不足です。申し訳ありません」 「嘘をおっしゃい。……あのね、葵さん。宝石っていうのはね、それを贈ってくれる人がいて初めて輝くのよ。自分ひとりで抱えてる宝石は、ただの硬い石ころ。……あなたも、石ころを飲み込んでるような顔をしてるわ」


 葵は夫人の言葉に、呼吸が止まりそうになった。喉の奥に、苦い「祝われなかった記憶」が詰まっている。  施設を出るとき、園長がくれた数万円の封筒。役所の窓口で「おめでとう」と無感情に言った職員。それだけだ。私たちの結婚には、ハワイの海も、三百万のドレスも、感涙する両親もいない。


 帰り道、夜の空気は昨日よりもさらに鋭く、肺の奥まで凍りつかせようとしていた。  駅前の安っぽいイルミネーションが、風に揺れてチカチカと目に痛い。


「……葵」  前を歩いていた悠真が、立ち止まった。 「……なに?」  葵はマフラーに顔を埋め、声が震えないように注意する。


「……今日、美咲さんの話、聞いてたとき。……顔、動いてなかった」 「……仕事中だもん」 「仕事中じゃない。……本当は、どう思ってるんだ」


 悠真が振り返った。街灯の光が、彼の鼻筋を鋭く照らし、その瞳の奥にある動揺を浮かび上がらせる。 「……別に。羨ましいとか、そういうのじゃないよ。ただ、なんていうか、世界が違うんだなって再確認しただけ」 「……結婚式。したかったか?」


 不意に投げかけられた直球に、葵の思考がフリーズした。  頭の中に、一瞬だけ、真っ白な布が浮かんだ。それはドレスかもしれないし、施設の真っ白なシーツかもしれない。


「……別に」  葵は、自分でも驚くほど冷たい声で答えてしまった。 「別に、したくないよ。お金かかるし。祝ってくれる親戚もいないのに、誰を呼ぶの? 職場の人を呼んで、憐れみの視線を浴びるの? そんなの、拷問じゃん」


 悠真の肩が、びくりと震えた。 「……そうだな。……そうだよな。無駄だよな」 「そうだよ。だから、もうこの話はやめよう。寒いし、お腹空いた」


 アパートまでの細い裏路地。焼き鳥屋の焦げた脂の匂いが、空虚な心に容赦なく入り込んでくる。  部屋に入り、扉を閉めた瞬間、静寂が二人を包み込んだ。  狭い、六畳一間。  家具のない部屋には、自分たちの吐く息の音しか聞こえない。


 葵はコートを脱ぐのも忘れ、暗い部屋の真ん中に立ち尽くした。 「……ごめん。悠真」 「……なにが」 「さっきの『別に』、嘘。……本当は、ドレスとか、ちょっとだけいいなって思った。お母さんとかいたら、見せたかったなって思った」


 暗闇の中で、悠真が葵に近づく気配がした。  彼の手が、葵のコートの袖を掴む。 「……俺も、ごめん。……三百万は無理だけど。ハワイも無理だけど」 「わかってるよ。わかってる」 「……写真、撮ろう。いつか。葵が笑える日に。三脚立てて、この部屋でもいいから。……俺が、シャッター押すから」


 葵の目から、一粒の涙がこぼれ、コートの襟に染み込んだ。 「……この部屋でドレス着たら、ただのコスプレだよ」 「いいだろ、それでも。……俺たちが祝えば。……いないから、作るんだろ? 家族も、お祝いも」


 悠真が、ぎこちなく葵の肩に手を置いた。  まだ「他人行儀」が抜けないその手の震えが、何よりも切実に、葵の胸を打つ。 「……お湯、沸かそう。今日は、あの海老入りのカップ麺、食べようよ」 「……お祝いか?」 「うん。お祝い」


 ストーブの青い炎がボッと燃え上がり、冷え切った部屋に小さな熱を広げていく。  誰にも祝われなかった、二十歳の結婚。  けれど、この暗い六畳一間には、ハワイの太陽よりも静かで、強い光が差し込み始めているような気がした。


「……ねえ、悠真」 「ん」 「明日、よし子さんに『富士山』って言ってみる。……なんか、今の私なら、うまく言える気がする」 「……なんだよ、それ。意味わかんねえ」


 二人の不器用な笑い声が、薄い壁を越えて、冬の夜へと溶けていった。


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