第三話|「超高級老人ホーム」

第三話|「超高級老人ホーム」


 職場である『グランド・メゾン・白金(しろかね)』の自動ドアが開くと、そこには異界が広がっている。  天井からは、シャンデリアが「どうだ、重いだろ」と言わんばかりの威圧感で吊り下がり、ロビーの中央では自動演奏のグランドピアノが、ショパンの夜想曲を優雅に奏でている。  空気は、冬の乾燥した外気とは無縁の、加湿器と高級なアロマがブレンドされた「豊かな温室」の匂いだ。


「おはようございます、中村さん」  受付の女性が、バレリーナのような姿勢で会釈する。 「あ、おはようございます……」


 葵は、自分の履き潰したスニーカーが、磨き上げられた大理石の床を汚しているような気がして、つま先立ちに近い歩き方で更衣室へ向かった。隣を歩く悠真は、感情を完全にオフにした「仕事モード」の顔をしている。


「……悠真。これ、何度来ても慣れないね」  葵が小声で囁くと、悠真はロッカーの鍵を開けながら、唇を最小限に動かして答えた。 「慣れるなよ。麻痺したら、俺たちの六畳一間が『ゴミ捨て場』に見えてくるから。……いいか、ここは戦場だ。それも、札束が飛び交う、静かな戦場」


 二人が制服に着替え、フロアに出ると、そこにはかつて日本の経済や文化を動かしていた「巨星」たちが、車椅子に揺られて静かに余生を過ごしている。  元大手商社の社長、往年のスクリーンを飾った大女優、心臓外科の世界的権威。  彼らが纏うカシミヤのカーディガン一着で、葵たちの家賃が半年分払えるだろう。


「葵さん、ちょっといらっしゃい」


 声をかけてきたのは、元女優の冴島(さえじま)夫人だ。御年八十二。いまだに背筋を伸ばし、紅を引き、毎日「自分という役」を演じ続けている人だ。


「はい、冴島様。いかがなさいましたか?」 「今日の紅茶、少し温度が低いのよ。……私の心みたいに」


 出た、と葵は内心で呟く。  この施設の人々は、空腹や痛みよりも、「退屈」と「孤独」を何よりの敵としている。


「申し訳ございません。すぐにお淹れ直ししますね」 「いいのよ。……それより、葵さん。あなた、昨日何かいいことあったでしょ? 目が少しだけ、昨日より温かいわ」


 葵の心臓が、ドクンと跳ねた。  婚姻届を出したこと。夜、悠真と薄い布団の中で指を繋いだこと。そんな、生活の端々に宿る熱が、この鋭敏な大女優に見透かされている。


「いえ、別に……何もございませんよ」 「嘘ね。幸せっていうのは、隠そうとすればするほど、指先のささくれみたいに露呈するものよ。……いいわね、若いっていうのは」


 夫人が寂しげに窓の外を見つめる。  その視線の先にあるのは、見事な冬枯れの庭園だが、夫人の目には、もうここへは二度と会いに来ない、忙しい息子たちの背中が映っているのかもしれない。  葵は、胸の奥がキュッと締め付けられるのを感じた。


(……この人は、こんなに豪華なシャンデリアの下にいるのに、あのアパートの階段でくしゃみをしている隣人よりも、ずっと寂しそうだ)


 葵は夫人の冷えた手を、無意識に両手で包み込んでいた。 「……冴島様。また、昔の映画のお話、聞かせてくださいね」


 その様子を、少し離れた場所で血圧計を片付けながら見ていた悠真が、葵に目配せをした。  その目は、明確に「共感しすぎだ」と警告していた。


 昼休憩。誰もいないリネン室の隅で、二人は並んで座った。  昼食は、昨日スーパーで買った「一袋三食入りの焼きそば」を、葵が朝五時に起きて炒めた弁当だ。


「……葵。あのお客さんたちに、深入りするなよ」  悠真が、割り箸で焼きそばを口に運びながら言った。 「わかってるけど。……でも、あんなに綺麗な服を着て、あんなに美味しいものを食べてるのに、誰も会いに来ないなんて、悲しすぎるよ」


「それは、俺たちの感想だ。彼らは、あのお金を払うことで『寂しさをケアしてもらう権利』を買ってるんだ。俺たちは、その対価として労働を提供してる。……家族じゃないんだよ。絶対に」


 悠真の言葉は、冷たい刃物のように葵の感傷を切り刻む。 「……悠真は、悲しくないの?」 「……悲しんでたら、仕事にならない。俺たちの生活は、あのお客さんたちの『寂しさ』を処理した給料で成り立ってるんだから。……葵、俺たちは『作る家族』だろ。よその家族の欠落を、自分たちの心で埋めようとするな。自分たちの心が空っぽになっちゃうぞ」


 葵は、プラスチックの弁当箱に詰まった、茶色い焼きそばを見つめた。  不器用な味。少し焦げた匂い。  それは、この施設で供される金箔入りの懐石料理とは正反対の、泥臭い「生活」の味がした。


「……わかってる。わかってるよ、悠真」 「わかってればいい。……よし。午後はよし子さんの入浴介助だ。富士山を溺れさせるなよ」 「縁起でもないこと言わないで」


 葵は、少しだけ軽くなった心で立ち上がった。  悠真の冷徹さは、彼なりの防波堤なのだ。自分たちの「小さな家族」を守るための、少しだけ無骨な壁。


 更衣室に戻る廊下。  また、グランドピアノがショパンを奏で始める。  葵は一瞬だけ立ち止まり、シャンデリアを見上げた。  眩しすぎて、少しだけ目が痛い。


「……名前。まだ呼んでないね、仕事中」  悠真が前を歩きながら、ボソッと言った。 「……中村さんって、呼ぶのが一番安全だもん」 「……俺も、葵を『中村さん』って呼ぶたびに、心の中で『違うよな』って思ってる」


 二人は、丁寧すぎる敬語の海へと、再び潜っていく。  きらびやかな地獄。優雅な牢獄。  その中で、一組の「いないから、作る家族」が、今日もまた、他人の孤独を背負いながら、自分たちの生活を紡いでいく。


「さあ、仕事戻ろう。……中村さん」 「はい、中村さん」


 二人は、互いの「同じ苗字」を仕事の仮面として使い、豪華な自動ドアの向こう側へと消えていった。


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