第二話|「家族がいないという共通点」

第二話|「家族がいないという共通点」


 新居、と呼ぶにはあまりに殺風景な六畳一間のワンルーム。  そこには、引っ越してきたばかりの活気よりも、使い古された図書室のような静謐さが漂っていた。窓に掛かっているのは、ホームセンターで一番安かった、遮光性もへったくれもない薄い生成りのカーテンだ。外を走る車のヘッドライトが通るたび、部屋の中が「ふわっ」と白く浮き上がる。


 葵は、フローリングの上に置かれた二つのプラスチック製衣装ケースを見つめていた。


「ねえ、悠真。これ、どこに置く?」 「……どこでもいいよ。葵の使いやすいところで」 「じゃあ、窓際」 「そこ、結露するぞ。服が湿気る」 「……じゃあ、キッチンの横」 「油、飛ぶだろ」


 悠真の言葉は正論だが、その語尾には「君が決めていいよ」という遠慮が、分厚いコーティングのようにこびりついている。二人は、同じ施設で育った。そこでは「自分の領域」なんてものは存在しなかった。ベッド一つ、引き出し一つ。与えられた最小限のスペースを、誰にも迷惑をかけずに、音を立てずに維持すること。それが彼らの生存戦略だった。


 その癖は、二十歳になり、夫婦となった今でも抜けない。  持ち物は驚くほど少ない。段ボール箱は、二人合わせて三つ。あとは布団と、小さな炊飯器だけだ。


「……静かだね」  葵が呟く。 「ああ。……テレビ、買うか?」 「いいよ、別に。高いし」 「そうだな。……別に、いらないか」


 二人は、部屋の真ん中に座り込んで、向かい合った。  夕食は、役所の帰りに買った、ちょっとだけ贅沢な海老入りのカップ麺だ。  ポットが「シュンシュン」と鳴き始めると、葵はその音にさえ、なんだか申し訳ないような気持ちになる。隣の部屋の人に、私たちがお湯を沸かしていることがバレてしまう。そんな、施設時代の「消灯後の緊張感」が、指先にまで残っている。


「……いただきます」  悠真が、割り箸を割った。パチン、と乾いた音が響く。 「……いただきます」


 ずるずる、という麺を啜る音だけが、部屋のBGMだ。  醤油のスープの匂いが、何もない部屋に充満していく。高級老人ホームの、あの花の香りが遠い国の出来事のように思える。


「……ねえ、悠真」 「ん」 「さっきから、敬語混じってるよ」 「……え?」 「『これ、食べますか』とか言ったじゃん」 「……言ったか?」 「言った。あと、私に触るとき、いちいち『失礼します』みたいな顔するの、やめてくれる? 執事じゃないんだから」


 悠真は、海老を口に運ぼうとして止まった。 「……しょうがないだろ。誰かと二十四時間、一つの部屋にいるなんて、十何年ぶりなんだ。……それも、男と女だし。……っていうか、結婚したし」 「……私も。なんだか、ずっと『お泊まり会』をしてるみたいで、落ち着かない」


 二人は、笑おうとして、結局カップ麺の底を覗き込んだ。  夫婦になったはずなのに、二人の間には、まだ見えない「仕切り板」がある。お互いの領域を侵さないように、失礼がないように、丁寧に、丁寧に距離を測っている。


 夜、唯一の家財道具である布団を二枚、並べて敷いた。  シーツは真っ白だ。施設で毎週替えられていた、あの糊の効いたシーツと同じ匂いがする。


「……寝るよ」  悠真が、壁にあるスイッチを紐で引いた。  パチン、と音がして、部屋が闇に包まれる。  薄いカーテン越しに、外の街灯の光が部屋に差し込み、畳んだ衣装ケースの影を、得体の知れない怪獣のように壁に映し出す。


 葵は、横たわったまま、隣にいる悠真の気配を探した。  数センチ。指を伸ばせば届く距離。なのに、その数センチが、まるで国境線のように遠い。


「……悠真、寝た?」 「……起きてる」 「……怖い?」 「……何が」 「家族になるのが」


 闇の中で、悠真が寝返りを打つ音がした。布団が「ササッ」と擦れる。 「……怖いっていうか、変な感じだ。今まで、俺たちは『いなくなること』には慣れてたけど、『ずっといること』の練習はしてこなかったから」


「……そうだね」  葵は、闇の中で自分の手を胸に当てた。 「私ね、今日、役所で悠真の手を握ったとき、あ、この手、もう離さなくていいんだ、って思ったの。でも、同時に、どうやって繋ぎ続ければいいのか分かんなくなっちゃった」


 悠真の手が、闇の中を彷徨い、葵の指先に触れた。  冷たい。でも、その奥に確かに血が通っている熱がある。


「……俺さ、明日からの仕事、今まで以上に気合入れるよ」 「なんで? 急に」 「……このカーテン、もうちょっと厚いのに替えたい。葵が、朝、眩しくて起きないように」 「……何それ。プロポーズのやり直し?」 「……うるさい。練習中だって言ったろ。家族っぽいことの」


 葵は、闇の中で声を押し殺して笑った。  それは、幸せと呼ぶにはあまりに慎ましく、けれど、絶望と呼ぶにはあまりに温かい時間だった。


 共通点は、家族がいないこと。  共通点は、自分のことを後回しにしてしまうこと。  そんな二人が、夜の海を漂う一艘の小さなボートのように、寄り添って、明日の朝を待っている。


「……おやすみ、悠真」 「……おやすみ、葵。……明日、よし子さんに『富士山』って言うの、忘れるなよ」 「言わないよ。……たぶん」


 冬の夜は長く、部屋は相変わらず冷え込んでいる。  けれど、繋いだ指先から、少しずつ「他人行儀」が溶け出し、二人の間の境界線を、ゆっくりと、ゆっくりと、消していく。


 まだ何もない。けれど、何もないからこそ、何でも描ける。  二十歳の夫婦の、これが二日目の夜だった。


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