第一話|「20歳の婚姻届」
第一話|「20歳の婚姻届」
区役所の戸籍住民課。そこは、幸せの絶頂にいるカップルと、人生の泥沼を煮詰めたような離婚協議中の男女と、住所変更を急ぐ苛立った会社員が、一つの長椅子で「無」を共有する奇妙な場所だ。 天井の空調は「ゴオオ」と低く唸り、誰かが持ち込んだ湿った傘の匂いと、古い書類が放つ埃っぽい香りが、冬の乾燥した空気に混じっている。
「……長いな」
悠真が、膝の上で指を組み替えながら呟いた。彼が履いている黒いスラックスは、この日のために新調した格安紳士服店のものだ。まだ折り目がナイフのように鋭く、座るたびに太ももを緊張させている。
「いいよ、急ぐ用事もないし」
葵は、自分の指先をじっと見つめていた。爪は短く切り揃えられている。介護職の宿命だ。ネイルも、指輪もない。その代わりに、二人の間には、茶封筒に入った一枚の紙――「婚姻届」が鎮座していた。
「ねえ、悠真」 「ん」 「これ、書くとき、左利き用のペンで書いちゃったの、不吉かな」 「……不吉の意味がわかんない。インクが掠れてなきゃいいだろ」 「そういう問題じゃないんだけど。……なんかさ、もっと、こう、キラキラしたペンとかで書くものかと思ってた」
葵の脳裏に、施設時代の記憶が不意にフラッシュバックする。 夕暮れのプレイルーム。テレビの中で流れていたのは、豪華な結婚式のドキュメンタリーだった。白いドレス、シャンパンタワー、泣き崩れる両親。 『葵ちゃんも、いつかあんな風になるんだよ』 施設の職員が優しく頭を撫でてくれたけれど、十歳の葵は、画面の中の「親」という存在が、異世界のクリーチャーか何かにしか見えなかった。自分には、そのパーツが欠けている。だから、あのパズルの完成形には、永遠に辿り着けない。
「三百二十四番の方、窓口へどうぞ」
無機質な電子音が、葵の感傷をぶち壊した。 悠真が「よし」と短く気合を入れ、立ち上がる。その拍子に、茶封筒の角が葵の脇腹に当たった。痛い。この「痛み」こそが、自分たちの現実だ。
窓口の担当者は、使い古された事務用メガネをかけた、疲れ切った中年の女性だった。彼女にとって、この紙切れは「人生の誓い」ではなく、今日の残業時間を左右する「データ入力項目」に過ぎない。
「えーと、佐々木悠真さんと、中村葵さん。……二十歳。お若いですね」
女性の手が、淡々と書類をめくる。指先で紙が擦れる「カサッ」という音が、やけに大きく響いた。 葵は、窓口のカウンターの冷たさを掌で感じていた。ステンレスの無機質な感触。消毒液のツンとした匂い。
「本籍地の記載、これで大丈夫ですね。……あ、ここ。証人の欄、お二人とも同じ方……『高木清』さんとなってますが」 「……はい。僕たちが育った施設の、園長です」
悠真の声が、少しだけ低くなった。それを聞いた担当者の手が、ほんの一瞬だけ止まる。メガネの奥の瞳が、少しだけ和らいだような気がしたけれど、それは気のせいだったかもしれない。彼女はすぐに、日付印を「ドンッ」と力強く押した。
「はい、受理いたしました。おめでとうございます。一週間ほどで新しい戸籍が作成されますので」
終わり。それだけ。 ファンファーレも、フラワーシャワーもない。あるのは、後ろの席で泣き止まない赤ん坊の声と、コピー機の回転音だけだ。
「……終わったね」 葵が呟く。 「ああ。終わったな。……いや、始まったのか」
役所を出ると、冬の西日がアスファルトに長く伸びていた。 冷たい風が吹き抜け、葵の鼻の奥をツンと刺激する。 「ねえ、悠真。これでさ、私たち、死んでも誰かが遺体を引き取ってくれるようになったんだよね」 「……お前、結婚した直後に言うセリフがそれかよ」 「だって、大事なことだよ。今まで、私たちは誰のものでもなかったんだから」
悠真はため息をつきながら、葵の右手をそっと握った。 彼の掌は、役所のカウンターよりもずっと温かくて、それでいて少しだけ汗ばんでいた。不器用で、熱い、生活の温度。
「これで、家族だね」
葵が言うと、悠真は少しだけ手を強く握り返した。 「ああ。……でも、まだ全然実感ない。明日も仕事だしな。朝六時起きで、よし子さんのオムツ替えだ」 「台無しだよ。……でも、それがいいのかもね」
二人は、駅前のスーパーに寄ることにした。 「家族」になって最初の買い出しだ。 「ねえ、今日は奮発して、百円高いカップ麺にしようよ。海老が入ってるやつ」 「贅沢すぎんだろ。八十八円のうどんでいい」 「いいじゃん、お祝いなんだから。……あ、でも、やっぱり卵は十個パック買おう。これからは二人分だし」
スーパーの入り口で、自動ドアが「ウィーン」と開く。 そこから漏れてくるのは、安売りの音楽と、夕飯の買い出しに急ぐ主婦たちの活気だ。
葵は、悠真の横顔を見た。 特別なことは何一つ始まらない。劇的な成長も、魔法のような変化もない。 ただ、今日から「ただいま」を言う相手が、一人固定されただけだ。 それだけのことが、今の葵には、高級老人ホームのカサブランカよりも、ずっと気高く、芳しく感じられた。
「悠真、カゴ持って」 「……はいはい。奥様」 「呼び方、キモい」
笑いながら、二人は夕暮れの人混みに紛れていった。 世界にたった一つだけ増えた、どこまでも普通で、不器用な、二十歳の家族として。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます