『いないから、作る家族』 〜富士山とカップ麺と、名前の呼び方〜
『いないから、作る家族』 〜富士山とカップ麺と、名前の呼び方〜
帰り道、夜の空気は冷たくて、喉の奥までミントのタブレットを流し込んだみたいに痛かった。 駅前のイルミネーションは、毎年使い回されているせいか、いくつか電球が切れていて、安っぽい青がまばたきするように震えている。葵はマフラーの端を指に巻きつけ、大きく息を吐いた。白い息が街灯の下でほどけ、消える。
「今日さ……」
悠真が、いつもより少しだけ声を張り上げた。寒さのせいで言葉がガチガチに硬い。冷凍庫から出したばかりの肉みたいな声だ。
「なに?」
葵が顔を向けると、悠真の耳が真っ赤だった。仕事場で見せる「冷静な中村さん」の仮面が剥がれ、ただの寒さに弱い二十代の男がそこにいる。葵は、その赤さに妙に安心して、少しだけ笑った。
「……先に言っとく。俺、今日、ちょっと……腹立ってた。自分に」
悠真は短く笑って、すぐ口を閉じた。自分も同じ気持ちだったことを、葵は知っている。 今日、二人が働く「高級老人ホーム」のロビーには、まばゆいばかりの『家族』が溢れていた。磨き上げられた大理石の床、カサブランカの暴力的なまでの芳香、そして、面会室から漏れ聞こえる、柔らかい毛布のような会話。
『お母さん、無理しないでね』 『孫がね、今度ね——』
その声は、耳の奥にチクりと刺さる針だった。持っていないものを突きつけられる、冬の静電気のような痛み。
「俺たち、そういうの……持ってないだろ」
悠真がぼそっと言うと、彼自身の肩が、物理的に数センチ沈んだのが見えた。 「持ってないね。だって、いないもん。……でもさ、いないって言えるようになったの、最近だよね」
葵が答えると、二人の間に北風がすっと入り込む。葵はアパートまでの近道を急いだ。商店街の裏路地に入ると、焼き鳥屋の換気扇から流れてくる焦げた脂の匂いと、誰かの家から漏れるテレビの笑い声が混ざり合い、ぐっと密度を増す。
「ねえ、悠真」 「ん」 「わたしたち、結婚したじゃん。なのに、まだ『家族』のやり方がわかんない。二人とも、見本を見たことがないから」 「……俺、下手なんだよ。家族っぽいこと。例えば……その、名前呼ぶとか」
葵は思わず、鼻から変な音を出して笑ってしまった。 「悠真、わたしの名前、呼んでるじゃん」 「仕事中は『中村さん』だろ。あれ、自分でも引くくらい距離できるんだよ。……怖いんだよ、葵を大事にしたいのに、マニュアルがないのが。老人ホームの介護マニュアルなら、暗記してるのに」
葵は立ち止まって、悠真のコートの袖をぐいっと引いた。 「ねえ、悠真。今日、言いたいことがある。……わたしたちには親がいないから、あの施設の人たちを家族だと思って大切にできたらいいなって」
悠真が目を見開く。前髪が風に煽られて、少しおかしな形に跳ねた。 「……老人ホームを?」 「そう。家族って、血じゃなくて……毎日顔を合わせて、味噌汁の匂いを共有して、相手の体調で一喜一憂することなら、わたしたち、あそこで毎日やってる。……血の家族がいなくても、ちゃんと家族みたいに生きられるって、あの頑固な入居者さんたちと一緒に、証明したいの」
悠真はしばらく黙っていた。喉仏が、コクンと上下する。 「……それ、いい。代わりを探すんじゃなくて、俺たちが、家族になればいいんだよな」
「じゃあ、まず何からやる? 悠真」 「……俺、明日から、入居者さんのこと、苗字じゃなくて名前で呼ぶ。あと、たまにタメ口混ぜる」 「それは怒られるよ」 「でも、近づきたいんだよ。あ、あと、葵のことも……家では、ちゃんとお前じゃなくて……名前で呼ぶ練習する」
「今、呼んでみてよ」 「……無理。空気が薄い」
二人は、笑いながらアパートの鉄の階段を上った。一段ごとに『ギィ、ギィ』と錆びた音が鳴る。二階の住人が、派手にくしゃみをする音が聞こえた。生活って、本当にうるさい。
部屋に入り、ストーブをつけると、青い炎がボッと音を立てて爆ぜた。 「ただいま」 「……ただいま」
悠真が靴を揃えながら言った「ただいま」は、まだどこか不慣れで、レンタルビデオの返却期限を気にするような硬さがあった。
「ねえ、悠真。今日、あのお祖母ちゃん見た?」 葵が、コートを脱ぎながらキッチンへ向かう。 「どのお祖母ちゃんだよ。うちはお祖母ちゃんだらけだ」 「青い髪の。富士山になりたいって言ってた人。フォロワーさんが教えてくれた話なんだけどさ、髪が伸びて上が白くなったら、富士山が完成するんだって」
悠真が、キッチンでカップ麺にお湯を注ぎながら、ふっと口角を上げた。 「富士山か。北斎みたいだな。……じゃあ、俺が明日から名前で呼ぶ第一号は、その富士山にする。……『富士山さん、薬の時間ですよ』」 「それ、名前にすらなってないじゃん」
葵は笑いながら、悠真の背中にそっと寄り添った。 部屋の中には、炊飯器の残り香と、ストーブの匂いと、安っぽい醤油のスープの香りが漂っている。
「悠真。いつか、写真撮ろうね。結婚式じゃなくても、どこかの公園で、セルフタイマーでさ。私たちが『家族』に見えるまで、何回でも撮り直そう」 「……ああ。笑える日、作ろう」
悠真が差し出した掌は、外気でまだ冷たかった。でも、葵が自分の手を重ねると、冷たさが混じり合い、やがてゆっくりと中和されていくのがわかった。
「葵」 「なに?」 「……呼んだだけだ。練習」 「下手くそ」
窓の外では、冬の風がヒューヒューと鳴っている。 けれど、この六畳一間の宇宙には、二人の呼吸と、カップ麺を待つ三分間の沈黙と、これから増えていくであろう「血の繋がらない家族」の気配が、確かに、そして愉快に満ちていた。
足りないから、諦めるんじゃない。 足りないからこそ、私たちはこの手で、不器用な富士山を積み上げていくのだ。
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