世界5分前仮説
ages an
或いは、世界の連続性について。
『世界5分前仮説』をご存知だろうか。バートランド・ラッセルという哲学者が提示した思考実験だ。
「この世界は5分前から始まった」
貴方に、そう伝えたとする。そんなのあり得ない、と貴方は否定するだろう。しかし、世界が5分前から始まったということは、誰も否定できない。貴方の過去の記憶や外見、それら全てを「初期設定」として、5分前からこの世界は始まった。そう言ってしまえば、誰もその可能性を否定できないのだ。
貴方は、俺の話を屁理屈だと思うだろう。しかし、なんの保証も無いのだ。貴方が夜に眠り、意識が途絶えた後。目が覚めた時に、今の貴方が明日も続いていると、一体誰が保証してくれるのだろう? 意識が途切れて、再び意識を取り戻した時。パソコンを再起動したかのように、世界が再起動されていても不思議じゃない。
貴方も、明日の朝に体験するかもしれない。俺のように。
夜眠り、目が覚めたら、別世界の別人に生まれ変わっているかもしれない。
そんな嘘みたいな経験が、もう何年も続いている。誰に生まれ変わるか、どんな世界に生きるのかは、その日見聞きした物語で決まるみたいだった。異世界転生のテンプレ小説を読んでいたら、その世界のモブキャラに転生していたり。ゾンビがわんさか出てくるホラー映画を見たら、中盤でゾンビに食われて死ぬ脇役になってたり。年齢、性別、記憶、全部バラバラ。別人として生きて、やがてその生に終わりがくる。ぶっちゃければ、死ぬ。死ぬと、元の世界に戻ってくるのだ。
俺が平凡な人間だからか、生まれ変わるのも大抵モブキャラだ。物語の中で、さっさと死んで退場するキャラ。ゾンビに食われたり、ドラゴンの炎で焼かれたりして。だが、ごく稀に勇者みたいなのに生まれ変わることがあった。そうなると、意外と大変だ。長い人生を生きることになる。スライムを倒してレベル上げから始まって、大魔王を倒すまで。長い時間を別人として過ごすと、元の自分が誰なのか、曖昧になってくる。
そんな経験をしているからか、俺は日中に見聞きする物語を厳選する様になった。まず、生まれ変わったら悲惨そうなディストピアSFやホラーは避ける。小説でも映画でも。なるべく、穏やかなコンテンツを選ぶ。……と工夫したつもりで、でかい鯨が大海原を泳ぐ癒し系動画を観ていたら、悲惨な目に遭ったことがある。目が覚めるなり大海原へ放り出されていて、なす術もないまま溺れ死んだことがある。あの絶望感と溺死の苦しみは、一生忘れないだろう。油断できない。
だから俺は、夜眠る時、祈るような心持ちになる。目が覚めたら、少しでもマシな世界で、マシな人間でいられますように、と。
貴方も、気をつけた方がいい。まさに今夜、俺と同じ体験をするかもしれない。ちょうど、カクヨムコン11も佳境だ。貴方は今日、どんな作品を読んだだろう? もしもゾンビやホラーだったら、御愁傷様だ。俺は、貴方が少しでもマシな朝を迎えられるよう祈っている。
***
**
*
……え? 俺が、今どんな世界にいるかって? ……正直言って、こんなに悪趣味な世界は、経験したことがない。こんなクソみたいな世界を描いた小説や映画は、一度も観たことがないのに。なぜこんな最悪な物語の中で目覚めたのか、わからない。
目覚めた時、俺の記憶は嫌になるくらい鮮明だった。生まれ落ちて40年間の記憶。最愛の妻との結婚生活。妊活で苦労した後に生まれてくれた、溺愛しっぱなしの一人娘。
その一人娘が一年前、八歳の誕生日に、交通事故で死んでしまったこと。
愛し合っていたはずの妻と、共にこの悲しみを乗り越えようと思っていたのに。妻は、子を失った悲しみを紛らわすようにホスト通いに夢中になって。それを問いただしたら、「貴方は私を慰めてくれない」って激昂して、外泊が続く様になって。これ以上一緒に暮らすのは無理だと思い、離婚するしかないと決意した。俺が目を覚したのは、そんな朝だったのだ。
俺は一体どこで、こんな醜悪なドラマを見たのだろう。記憶のどこにもないフィクションだ。こんなクソ物語、誰も観たくないはずなのに。
しかも、だ。今から10分ほど前。
離婚の話を切り出したら、妻は半狂乱になって、取っ組み合いになった。もみくちゃになって、反射的に突き飛ばしたら、後頭部を強く打ってしまったみたいで。息をしてない。心臓が止まってる。
あぁ。この世界はきっと、5分前から始まったに違いない。
全ては、「初期設定」なのだ。娘が死んだことも。俺がつい先ほど、妻を殺したことも。目を覚ますと生まれ変わってる、なんてあり得ない経験と記憶は、辛い現実から逃げるための幻想だということも。
神サマは酷い奴だ。こんな悪趣味な世界を創るなんて。大海原で独り溺死するよりも、余程救いがない。こんな世界は、一刻も早く終わらせてやる。幸いに「初期設定」の俺の記憶は、お誂え向きだ。何度も碌でもない死に方をしている。ゾンビに食われて、炎に焼かれて。そのせいか、不思議と恐怖を感じない。
キッチンから包丁を取り出して、首筋に当てる。大丈夫だ。今まで経験したことになってる死に方と比べたら、むしろ安らかなくらいだ。
それでは、さようなら。次に目を覚ましたら、少しでもマシな世界にいられます様に。
貴方も、そう祈ってくれたら嬉しい。
世界5分前仮説 ages an @ages_an
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