第八話 究極の「詰み」と四国の夜
四国、徳島県と高知県の境にある、地図にも載っていないような山奥。
巨木が立ち並び、湿った苔の匂いが立ち込めるその隠れ里は、一本足の妖怪「一本だたら」たちの聖域だった。
仮設の高座に座る公平の全身からは、止めどなく汗が吹き出していた。
それが、四国の蒸し暑さによるものか、極限の緊張による冷や汗か、あるいは狂気的な興奮によるものか、もはや自分でも判別がつかない。
それもそのはずだ。
最前列には、酒を煽る酒呑童子と、刀を磨く安倍金吉。
二列目には、冥界から派遣された、メモ帳を片手に無表情で座る冥官。
そして、観客席の真ん中。
神々しい黄金の光を放ち、周囲の妖怪たちが恐縮して道をあける場所に、その男はいた。
「我は毘沙門天なり。帝釈天の命により、下界を騒がす貴殿の視察に参った」
武神・毘沙門天。
背負った後輪が物理的に眩しい。持っている三叉戟(さんさげき)からは、一突きで山を砕きそうな神気が漏れている。
「(……終わった……。もう、逃げ場がない)」
天界(毘沙門天)、地上界(妖怪と陰陽師)、地獄界(冥官)。
公平の落語一席のために、三千世界すべてのVIPが勢揃いしてしまった。
ここでしくじれば、物理的に消滅させられるか、地獄で永遠に炎上させられるか、あるいは神の裁きを受けるか。
逃げようにも、四方の出口は大妖怪と神と術師によって完全に封鎖されている。
かと言って、この状況で「もう辞めます」と言えるほどの度胸も公平にはなかった。
(……やるしかない。機嫌を損ねたら死ぬ。でも、普通にやってもこの人たちは笑わない。だったら……毒を食らわば皿までだ!)
公平は、震える手で扇子を握り直し、深々と頭を下げた。
「えー……本日は、天界、地獄界、そして怪異界からお越しいただき……。これほどまでに**『お足元(物理的に一本足)が悪い』**中、ありがとうございます」
まずは一本だたらに向けた軽い地元の挨拶(つかみ)を入れ、公平は本題に入った。
「さて、本日の一席……神様も仏様も、あるいは鬼様もいらっしゃるところで、恐縮ながら**『正義の味方の定年退職』**という噺を」
(正義の味方「今日で、悪の組織を全滅させて定年だ。明日からは隠居生活だな」
妻「あなた、明日からどうするの? 悪を倒す以外、何もできないじゃない」
正義の味方「ふふふ。近所のゴミ捨て場を見回るのさ。分別を間違えた者を、必殺技で裁く!」
妻「やめてよ。ゴミの出し方を間違えただけで、街が半分消し飛ぶわよ」
正義の味方「いいか、妻よ。『正義』とは、敵がいなくなった瞬間に、ただの『暴力』に変わるんだ。 裁く相手がいなくなったら、自分たちが一番困るのさ。だから俺たちは、ゴミの分別ミスを『世界滅亡の兆し』だと解釈して、全力で叩き潰す必要があるんだ!」
妻「……あんた、悪役よりタチが悪いわね」)
公平が、正義という名の「行き過ぎた独りよがり」を皮肉ったオチをつけた瞬間。
「…………」
会場を、凍りつくような静寂が包んだ。
一本だたらたちが怯え、金吉が息を呑む。
毘沙門天の眉間には、深い皺が刻まれていた。
(やばい、不敬罪で殺される……!)
公平がそう確信して目を閉じた、その時。
「……ハッ。ハッハッハ!! 痛快なり!!」
毘沙門天が、岩をも通すような豪快な声で、笑い出した。
その背後で輝く後輪が、笑いの振動でチカチカと点滅する。
「『正義とは敵がいなくなった瞬間に暴力に変わる』か! 面白い! 天界の連中に聞かせてやりたい皮肉よ! まさに、我ら武神が最も恐れる『平和という名の失業地獄』を、見事な滑稽話に仕立ておった!」
毘沙門天は膝を叩き、腹の底から笑い転げた。
それを見た酒呑童子がニヤリと笑い、「見ろ、神様も笑ったぞ!」とさらに酒を煽る。冥官も「地獄の業務に、天界の失業対策を取り入れましょうか」と不気味に微笑んだ。
毘沙門天は、笑い涙を拭うと、公平に向かって力強く頷いた。
「こんぺいよ。おぬしの噺、帝釈天様に直接聞かせる前に、もう少し近くで見極めねばならんようだ」
「えっ……それって」
「私も、この『闇巡業一座』に同行する! おぬしが、いつか『天界の理不尽』までをも笑いに変えるその日まで、この毘沙門天が守護(ウォッチ)してやろう!」
公平は、天を仰いだ。
これで、連れは「大鬼二人、最強の陰陽師、冥界の役人、そして最強の武神」。
「……師匠、助けてください。僕、ただの前座見習いなんです。なのに、日本を滅ぼせそうなメンツを引き連れて、落語しなきゃいけないんです……」
こうして、公平の冷や汗混じりの「闇巡業」は、天・地・冥の三界を股にかける、文字通りの神がかり的な珍道中へと突入していった。
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