第2話 名を告げる者

再び彼女を見かけたのは、昨日と同じく、人の流れの中だった。

 場所はよく分からない。橋が近く、商いの匂いが濃い通りだ。露店の呼び声がやけに通る。建物の作りも、どこか古い――けれど、はっきり「昔」だと言い切れるほどの知識はない。

 ただ、妙に落ち着かない。

 昨日からずっと、頭のどこかが現実を拒んでいる。

 夢だと決めつけるには、暑さも、人の体温も、生々しすぎた。

 その人の周囲だけ、空気が違って見えた。

 数人の男が、無言で先を行く。視線は鋭く、歩き方に迷いがない。まるで人払いをするみたいに、人の流れがわずかに避けていく。

 その中心に、彼女がいた。

 昨日と同じ装い。派手ではないのに、目を引く。

 自分が立ち止まったのも、意識的だったのかどうか分からない。

 彼女がふと顔を上げ、こちらを見た。

 一瞬、時間が止まったように感じた。

 ――まずい。

 そう思ったときには、護衛らしき男の視線がこちらに向いていた。鋭い。こちらを値踏みする目だ。

 距離を取るべきだった。

 なのに、彼女のほうが先に動いた。

 ほんのわずか、首を振る。

「……大丈夫です」

 静かな声だった。よく通るのに、強くはない。

 男は何か言いかけて、結局一歩下がった。

 そのやり取りだけで分かる。

 ――この人は、守られる側だ。

「昨日の……」

 声をかけてから、後悔した。

 続く言葉が、何も用意できていない。

「急に立ち止まってしまって。驚かせましたね」

 彼女はそう言って、小さく頭を下げた。

 その所作が、やけに自然で、浮いていない。

「いえ……こちらこそ」

 それ以上、何を言えばいいのか分からなかった。

 沈黙が落ちる。護衛の男たちが、こちらと彼女を交互に見ているのが分かる。長く話すことは許されない空気だ。

「お名前を、伺っても?」

 突然そう言われ、言葉に詰まった。

 名乗る。

 それだけのことなのに、なぜか躊躇してしまう。

「……名乗れるほどの者じゃありません」

 苦し紛れの答えだった。

 彼女は驚いた様子もなく、少しだけ視線を伏せた。

「そう、ですか」

 それから、はっきりとした声で言った。

「私は、鷹宮久子と申します」

 その瞬間、護衛の一人が、わずかに表情を引き締めた。

 空気が変わる。

 理由は分からない。

 ただ、その名前が、軽いものではないとだけ分かった。

「……どうか、お気をつけて」

 久子はそう言って、丁寧すぎない礼をした。

 それ以上の会話はなかった。

 護衛が前に出て、自然に距離が作られる。

 彼女は人の流れの中へ戻っていった。

 その背中を見送りながら、胸の奥に残ったのは、妙な感覚だった。

 同じ場所に立っているはずなのに、

 自分だけが、場違いなところに置かれているような感覚。

 理由は、まだ分からない。

 分からないままなのに――

 なぜか、この街が、昨日よりも少しだけ重く感じられた。

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