結末3 : 無知の逃亡者=消えた目撃者

桐下の足が、熱を帯びたバラストを深く踏みしめ、一歩、運命のレバーの方へ踏み出しかけて唐突に止まった。

彼の膝は微かに震え、全身の毛穴から嫌な汗が噴き出している。脳裏を瞬時に過ったのは、マニアとしての膨大な知識がもたらす最悪の確信ではなく、長年の営業マン生活で骨の髄まで叩き込まれた、リスク回避という名の冷徹な自己防衛本能だった。


「待てよ……もし、あのレバーが経年劣化で固着していたらどうなる?

 もし、俺の中途半端な力で切り替えが間に合わず、トングレールが浮いた状態で列車が進入し、脱線に拍車をかけることになったら?

 素人が勝手に鉄道施設に触れて被害を拡大させたと、社会中から指弾され、全責任を負わされるのは、この俺だ。会社も、家族も、俺の人生も、その一瞬で何もかもが終わってしまう」


そして何より、視界の端で微動だにせず横たわる現場監督の、不気味なほど鮮やかなオレンジ色の背中が、桐下の生存本能を氷のように凍りつかせた。今そのレバーを動かせば、俺は明確な殺意を持って一人の人間を磨り潰す殺人者になる。

だが、動かさなければ、俺はただの気づかなかった通行人でいられる。誰からも責められない、無辜の目撃者として、元の世界へ帰ることができるのだ。


「あ……う、ああ……無理だ、こんなの、俺の仕事じゃない……」


桐下は喉の奥で、引き攣ったような震える呼吸を漏らしながら、あえて反対方向へ、松岡課長がいるはずの詰所の方へと背を向けた。逃げるように踏み出した一歩は重く、まるで泥濘の中を歩いているようだった。


「気分が悪い。そうだ、これは熱中症なんだ。意識が混濁して、目の前の状況なんて理解できるはずがないんだ。早く誰かに知らせなきゃ。

そうだ、僕は何も見ていない。まだ何も始まっていないんだ。これはただの暑さが見せた悪い夢だ」


自分に言い聞かせる呪文のような、掠れた囁きは、早足から、やがてなりふり構わぬ逃走へと変わっていった。背中を焼く太陽が、まるで巨大な監視の目のように彼を追い詰める。

バラストを無茶苦茶に蹴散らす靴音が、自らの罪を数え上げる鼓動のように耳の奥で激しく鳴り響いていた。


その時だった。背後で、天を衝くような、この世のものとは思えない金属の断裂音が響き渡った。それは、桐下がこれまで愛してきた列車の規則正しい走行音とは対極にある、秩序が完全に崩壊する死の絶叫だった。

続いて、巨大な鋼鉄の怪物が地面をのたうち回るような、腹の底に響く不気味な地響きと、それらを一瞬で塗り潰す、逃げ惑う人々の裂帛の悲鳴。


桐下は一度も振り返らなかった。振り返れば、自分の魂が永久にその場所に繋ぎ止められてしまうことを知っていたからだ。

ただ、心臓が今にも肋骨を突き破って破裂しそうなほどの恐怖の中で、自分の無知という名の薄っぺらな盾を必死に守り抜こうと、陽炎の立ち昇る線路沿いを狂ったように走り続けた。


警察の取調室。窓のない冷たい空間で、検察官の剃刀のように鋭い眼光が、桐下の怯えた瞳を射抜いた。デスクの上に置かれた資料が、カサリと不吉な音を立てる。


「いいですか、桐下さん。現場付近の監視カメラの映像では、あなたは事故の直前、明らかに分岐器の方向を注視しています。

鉄道マニアとして専門的な知識を持っているあなたなら、レールの異常に気づけたはずだ。レバーはすぐ目の前にあった。なぜ、何もしなかったのですか?」


桐下は、たった数日の間に、まるで病人のようにすっかり痩せこけた頬を痙攣させ、掠れた声で、しかし断固として、自分自身の良心を殺すように言い返した。


「……何度も、何度も申し上げたはずです。あの日、現場は暴力的なまでの酷暑でした。私は、営業先での疲れもあり、立っているのもやっとという熱中症のような症状が出ていたんです。

意識は朦朧としていて、目の前の鉄の塊が何を意味しているかなんて、判断できる状態ではありませんでした。知識があるといっても、それはあくまで趣味の範囲、机上の空論であり、本の中だけのものです。現場で実際に何が起きているか、不測の事態において素人の私に正しく、瞬時に判断できるわけがない。

……私に、あの状況で死ねと言っているんですか? 専門家でもない私に、百数十人の命という想像を絶する責任を負えと言うんですか! 私だって被害者なんだ!」


最後は、自らを正当化しようとする悲鳴に近い叫びだった。その必死さは、内側から溢れ出そうとする良心の呵責を、強引に塗り潰そうとする絶望的な執念でもあった。

結果、彼は不幸にも現場に居合わせてしまい、ショックで適切な行動が取れなかっただけの気の毒な目撃者として処理された。世間の人々は、凄惨な事故の惨状を間近で見てしまい、精神に深く傷を負った彼に、憐れみと同情の言葉すら寄せたのだ。


西陸運輸の凋落と社会的信用失墜に伴い、桐下の勤める建材会社は大口の販路を失い、経営に深刻な打撃を受けた。

しかし、桐下自身は社内での立場を脅かされることもなく、解雇の危機に怯えることもなく、事故以前と変わらぬキャリアと資産、そして平凡な生活を維持した。彼は、物理的には何一つ失わなかった。


一年後の、穏やかな午後。桐下は、新しく担当になった取引先の洗練されたオフィスで、窓の外をぼんやりと眺めていた。

手元には、かつてページが擦り切れるほど愛読し、完璧なダイヤに酔いしれたあの時刻表ではなく、無機質で味気ない数字の羅列である見積書が置かれている。


キャリアは守り抜いた。生活も平穏そのものだ。だが、彼がかつて聖域として愛した鉄道の世界は、あの日を境に、取り返しのつかないほど一変してしまった。

街角でふと電車の走行音が聞こえるたび、あるいは踏切の警報音が鳴るたび、彼の脳内ではあの金属がひしゃげ、肉体と魂が砕け散る破壊音が、呪いのように自動的に再生されるようになった。


完璧なシステムへの憧憬は、今や自分が壊した、あるいは見捨てたものへの、暗く深い後悔という澱となって、心の底に重く沈殿していた。それは永遠に消えることのない不協和音として、日々の暮らしの中で彼を静かに苛み続けていた。


ふと、冷房の効いた窓の外に目をやると、街路樹の梢から、一匹の小さな虫がふわりと羽ばたき、自由を謳歌するように飛び立つのが見えた。

陽光を反射して虹色の不吉な光沢を放つカミキリムシ。あの小さな、しかし強靭な顎が、完璧だったはずのすべてを狂わせたことなど、彼は知る由もない。

ただ、その虫が、何ら責任を問われることもなく、自由に乗客のいない空へと消えていく姿を、桐下は自分自身を投影したかのような、激しい羨望と底知れぬ絶望が混じり合った虚ろな眼差しで見つめ続けた。


見積書を握る彼の手は止まらない微かな震えを帯びていた。たとえ法が彼を罰せず、社会が彼を許したとしても、彼自身の網膜に焼き付いたオレンジ色の反射ベストの残像と、逃げ出した自分の足音という記憶が、彼を一生、あの場所から解放してはくれないのだ。彼は平穏という名の牢獄の中で、あの日見捨てた自分自身を、一生探し続けることになる。

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