結末2 : 殺人者の英雄と血塗られたレバー

「うおおおおおおッ!」


桐下の脳裏で、何かが爆ぜるような鋭い音がした。それは長年彼を縛り付けてきた、平穏で事なかれ主義な営業マンとしての理性が、灼熱の太陽の下でついに限界を迎えて弾け飛んだ音だった。

視界の右隅、線路上に横たわる現場監督の姿が網膜に焼き付いている。そのオレンジ色の反射ベストが、まるで「俺を殺すのか」と問いかける巨大な瞳のように見えたが、桐下はそれを意識の深淵へと強引に、暴力的に叩き落とした。

今は考えるな。一人を捨てて、百人を拾う。その冷酷な算術だけが、彼の震える魂を支える唯一の杖だった。彼は歯を剥き出しにし、喉の奥から絞り出すような咆哮を上げると、全体重を乗せてレバーへと体当たりした。

手のひらの皮が焼けた鉄と擦れて剥がれるような痛みが走ったが、彼は構わずにハンドルを本線側へと叩きつけた。ガコン、という、骨にまで響くような重厚な手応え。トングレールが本線に吸い付くように密着し、逃げ場のない鉄の道が再構築された。


その瞬間、桐下は既に線路の方へと走り出していた。肺が焼け付くような熱い空気を吸い込み、足元のバラストが不規則に崩れるのも構わず、彼は必死に腕を振った。


「逃げろ! 起きろ! 頼む、死なないでくれ! 逃げてくれ!!」


喉が裂け、血の味が口内に広がるほどの絶叫。だが、彼の願いはあまりにも無力だった。特急しおかぜの巨大な排障器は、既に陽炎を切り裂いて、銀色の死神のようにすぐそこまで迫っていた。

運転士の驚愕に満ちた顔が一瞬だけ見えた気がしたが、次の瞬間には凄まじい風圧が彼の全身を叩いた。


キィィィィィィィィッ!


鼓膜を容赦なく切り裂くような、金属性の非常ブレーキの摩擦音。線路からは青白い火花が激しく飛び散り、焦げ付いたゴムと焼けた鉄の臭気が辺り一帯を支配した。

巨大な鋼鉄の塊が、桐下の鼻先をかすめ、肌を焦がすほどの熱風を置き土産にして通り過ぎていく。列車は脱線することなく、その完璧な重量バランスを保ったまま、本線上で激しく車体を震わせながら停車した。

百数十人の乗客は、何が起きたのかも分からず、ただ座席に深く沈み込んでいた。


「……はぁ、はぁ、はぁ……っ」


静寂が戻った線路で、桐下は糸の切れた人形のようにその場に膝をついた。救ったのだ。自分のこの汚れた両手で、百数十人の見知らぬ命を救い上げたのだ。

本来なら達成感に満たされるべき瞬間のはずだった。だが、視線の先――ようやく止まった列車の先頭車両、その無機質なスカート部分が彼の視界を凍りつかせた。そこには、鮮やかすぎる「赤」が、まるで狂った画家が力任せにぶちまけたペンキのように、べったりと、無残に付着していた。

さっきまでそこにあったはずの、一人の人間の尊厳も、歴史も、家族との思い出も、その「人」の形をしたものは、もはやどこにも存在していなかった。


桐下は、痙攣する指先でポケットからスマートフォンを取り出し、画面に滲む汗を拭うこともせず110番を押した。呼び出し音が、彼の罪を告発するメトロノームのように響く。


「……人を、殺しました。僕が、あのレバーを引いて……僕の意志で、一人の男を殺したんです。お願いします、早く来て僕を捕まえてください」


数日後、窓のない取調室の、鉛のように冷たい空気の中で、検察官は書類をめくる乾いた音を立てながら、淡々と桐下を追い詰めた。蛍光灯の白い光が、桐下の深く窪んだ眼窩を強調している。


「桐下さん、君は自分が神にでもなったつもりか? 命の価値に優劣をつけ、どちらを生かしどちらを殺すか選ぶ権利が、君にあると思っていたのかね」


桐下は力なく俯き、自分の手のひらを見つめた。あのレバーの冷たい感触が、まだ消えずに残っている。


「確かに君の行動で、多くの乗客の命が救われた事実は認めよう。だが、君は現場監督がそこにいることを認識し、彼が死ぬことを予見しながら、自らの意志でスイッチを入れた。

 これは法的には、紛れもない未必の故意による殺人だ。鉄道職員でもない、ただの通りすがりの君に、誰の命を奪うかを決める権限など、この国のどこにも存在しないんだよ」


裁判は、正義と倫理が激しく衝突する凄惨な場となった。傍聴席の半分を占めるのは、桐下を「自らの人生を犠牲にして私たちを守ってくれた英雄」と涙ながらに拝む、あの日の乗客たちだった。

しかし、残りの半分には、肉塊となって変わり果てた現場監督の遺影を抱え、獣のような憎悪を剥き出しにして桐下を睨みつける遺族たちが座っていた。


「人殺し! 英雄なんて嘘だ! 私たちの夫を、愛するあの人を返せ! どの面を下げて、そんな平気な顔で生きているんだ!」


傍聴席から浴びせられる罵声は、桐下の心臓を何度も切り刻んだ。判決は、執行猶予付きの有罪。殺人罪という消えない汚名。そして、遺族からは個人では到底不可能な、億単位に及ぶ損害賠償請求が突きつけられた。

社会的には「究極の選択を迫られた悲劇の英雄」としてワイドショーの格好の餌食となったが、実生活での彼は、会社を懲戒解雇され、それまでのささやかな貯金もすべて賠償金と弁護士費用で使い果たし、路頭に迷うこととなった。


一年後。桐下は、都心から遠く離れた郊外の工事現場で、泥にまみれて日雇いの荷運びをしていた。

ヘルメットの下の顔は無精髭に覆われ、かつての清潔感あふれる営業マンとしての面影は微塵もない。重い資材を担ぎ、バラストの上を歩くたびに、あの日踏みしめた線路の感触が蘇り、背筋に冷たいものが走る。


休憩中、埃っぽい重機の影で、ふと地面に落ちていた古びた新聞の切れ端が目に留まった。そこには、あの日起きた事故の最終調査報告が小さな活字で載っていた。

『事故の直接原因は、配線ボックス内に侵入したカミキリムシの一種による光ファイバーの食害。制御系に致命的なショートが発生し、信号と連動しないはずの分岐器が誤作動を引き起こしたことが判明』

桐下の手から、飲みかけのぬるい水がこぼれ落ちた。


「……虫、か。たった一匹の、あの小さな虫のせいだったのか」


桐下は乾いた笑いを漏らし、コンビニで買ったパサパサの安物パンを強引に口に押し込んだ。あの時見た、虹色の光沢を持つ小さな顎。それが、巨大な鉄道システムを狂わせ、彼の人生を噛み砕き、一人の尊い命を奪い去ったのだ。

それが分かったところで、奪った命が戻るわけでも、失ったキャリアが回復するわけでもない。夜な夜な枕元に現れ、血の涙を流して自分を呪う遺族の泣き声も、何一つ消えはしない。


彼は、作業着の袖で額の汗を拭いながら空を見上げた。どこまでも青く、残酷なまでに澄み渡った空の下、遠くの陸橋を美しい銀色の列車が渡っていく。

かつてあれほど愛し、完璧な秩序の象徴として憧れたその走行音は、今や彼を永遠の処刑台へと誘う、無慈悲な鎮魂歌にしか聞こえなかった。彼は再び重い荷を背負い、泥濘の中へと一歩を踏み出した。

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