結末1 : 傍観者の崩れ落ちる正義

心臓の鼓動が耳の奥で、まるで巨大な寺院の鐘を乱れ打ちにするかのように激しく鳴り響いている。

その衝撃は鼓膜を震わせ、視界の端をちかちかと明滅させた。桐下の足は、もはや自分の意志とは無関係な生存本能に突き動かされ、熱を孕んだバラストを激しく蹴散らしていた。

一歩踏み出すごとに、足裏からは逃げ場のない灼熱が伝わり、喉の奥からは酸っぱい胃液の逆流がせり上がってくる。


「あああああ! 動け、動いてくれ!」


喉の奥で、理性の欠片もない獣のような絶叫を上げながら、彼は路盤脇に鎮座する手動レバーへと泥臭く飛びついた。

無機質な鉄のハンドルを、脂汗に濡れた両手でひっ掴む。指先が夏の太陽に焼けた鉄の温度に悲鳴を上げたが、それを意に介する余裕など微塵もなかった。

全体重を後ろにかけ、背筋を軋ませながらレバーを強引に引き寄せようとする。ぐっ、という重厚な手応えが腕に伝わり、鉄と鉄が擦れ合う鈍い音が響いた。だが、その刹那、桐下の網膜に「右側」の絶望的な光景が、呪わしいほどの鮮明さで焼き付いた。


側線の上、伏したまま動かない現場監督。その汚れ、綻びた反射ベストの端が、熱風に煽られてわずかに震えた。さらに、土埃にまみれた彼の指先が、微かに、本当に微かに、救いを求めるかのように動いた気がした。

今、ここで桐下がこのレバーを引き切れば、レールの継ぎ目は音を立てて本線側へと密着する。特急は救われるだろう。しかしその代償として、あの指先が、あの温もりを持った肉体が、文字通りこの世から消滅することになる。

自分の腕に伝わっている鉄の重みが、そのまま一人の人間の頭蓋を砕き、内臓を蹂躙し、磨り潰す感触へと変貌する未来を、彼の脳は残酷なまでに正確にシミュレートしてしまった。


(できない。無理だ。俺に、俺のような人間に、この手で人を殺せっていうのか!? 誰がそんな権利を俺に与えたんだ!)


劇薬を流し込まれたかのように、一瞬にして腕から力が抜け落ちた。いや、それは正確には脱力ではなく、魂の沈没だった。

「救うべき百数十名」という抽象的な数字と、「目の前で確かに呼吸をしている一人の命」という圧倒的な実存。その二つの重圧が脳内で完全に拮抗し、彼の肉体は逃げ場を失って完全に凍りついた。

迷いという名の猛毒が全身の筋肉を硬直させている間にも、レールの地響きは牙を剥く捕食者のように迫り来る。特急しおかぜの鋭利な排障器が、陽炎の揺らめきを無慈悲に切り裂き、桐下のすぐ目前まで肉薄していた。


「動け……動けよ、俺の腕! 今すぐ、どっちでもいいから動け!」


裂帛の叫びを上げるが、その声は特急が引き連れてきた凄まじい風圧と、空気を震わせる巨大な金属音によって、塵のようにかき消された。桐下は、冷たくなったハンドルを握りしめたまま、血管が浮き出るほど目を見開いて立ち尽くした。


直後。世界は、すべての理性を否定するような、巨大な鉄の悲鳴に包み込まれた。


本線を外れ、誤った方向へと突っ込んだ車輪が、レールとの摩擦で凄まじい火花を周囲に撒き散らす。行き止まりの車止めに激突した先頭車両が、重力から解き放たれたかのようにスローモーションで宙へ浮き上がり、鉄の塊となって横転した。

それはまるで、断末魔を上げる巨獣のようだった。住宅街の塀を、庭先の木々を、人々の日常を、無機質な暴力がなぎ倒していく。

鼓膜を内側から突き破るような破壊音。ダイヤモンドの粉末のように砕け散る窓ガラス。そして、わずかに遅れてやってくる、百数十人の阿鼻叫喚に満ちた絶叫。


桐下は、己の無力さを象徴するように、その場に力なく崩れ落ちた。手のひらには、最後まで動かしきることができなかった、死者の肌のように冷たいレバーの感触だけが、拭い去ることのできない烙印のように焼き付いていた。


半年後。桐下は、陽の光すら差し込まない薄暗いアパートの自室で、ベッドの端に腰を下ろしたまま、スマートフォンの青白い画面をぼんやりと眺めていた。部屋の中には、数日前に食べたコンビニ弁当の空き殻が散乱し、淀んだ空気が澱のように溜まっている。


裁判での証言台。彼はすべてを、隠すことなく、震える声で正直に打ち明けた。

「レバーの前まで行き、ハンドルに手をかけました。でも、あそこにいた作業員を殺すことが怖くて、どうしても引くことができなかったんです」と。

裁判所の判決は、法的に無罪であった。彼には線路を切り替える公的な義務も、鉄道職員としての権限もなく、このような突発的かつ極限の事故状況において、一般市民の不作為を罪に問うことは不可能である、という論理だった。


だが、世間という名の巨大で匿名な裁判所は、彼に対して、実刑よりも重い「死刑」を宣告していた。


『レバーに手をかけながら、自分の保身のために見殺しにした男』

『百数十名と一人を天秤にかけ、結果として全員を壊した、史上最も無能な目撃者』


ドライブレコーダーや防犯カメラの映像から、特定班の手によって瞬時に暴き出された彼の氏名、年齢、住所は、ネットの海という名の汚水溜めへと永遠に刻まれた。

勤務先の建材会社には、怒り狂った人々からの抗議電話が昼夜を問わず殺到し、彼は針のむしろに座るような日々を経て、追われるように退職届を出した。

ドアの下にあるポストの受け口からは、今も時折、差出人のない手紙が音を立てて滑り落ちてくる。


『あなたがあの時、一瞬の勇気を持って引いていれば、私の娘は今頃学校に行けていたはずなのに』


恨み言だけが、血の滲むような執念の筆致で綴られた言葉。それはもはや文字ではなく、桐下の心臓を突き刺す鋭い刃だった。


「……僕が、悪いのか。僕は、ただ、殺したくなかっただけなのに」


湿り気を帯びた、渇いた声が、家具のなくなった虚ろな部屋に虚しく響く。

剥き出しのフローリング、その中央にある安物のテーブルの上には、先日ホームセンターで購入した、無機質な白いビニールロープが、蛇のようにとぐろを巻いて置かれている。国家からも、司法からも裁かれないからこそ、彼は自らの記憶という名の、出口のない刑務所の中に、永遠に幽閉されていた。


ふと、視線を窓際に転じると、アルミサッシのわずかな隙間に、一匹の小さな虫が転がっているのが見えた。あの日、配線ボックスの蓋で見た、あの美しい虹色のカミキリムシだろうか。

しかし、今そこにあるのは、かつての鮮やかさを失って灰色に色褪せ、脚は無残に折れ曲がり、完全に干からびて物言わぬ骸となった姿だった。


「お前も、あのシステムからは逃げられなかったんだな。結局、僕たちはみんな、あの日から一歩も動けていないんだ」


桐下は、自嘲気味に、力なく乾いた笑い声を上げた。そして、その指先でゆっくりと、しかし確かな拒絶の意志を持って、テーブルの上のロープへと手を伸ばした。

窓の外では、あの日と変わらぬ青空の下、今日も何事もなかったかのように、遠くで列車の走行音が軽やかに響いている。

かつて桐下にとって、それは調和と秩序の象徴である「美しきシステム」の奏でる調べであった。だが今、その音は、彼を処刑台の階段へと誘う、無慈悲で容赦のない断罪の鐘の音にしか聞こえなかった。


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