善意の処刑台 -地獄のトロッコ問題-
霧島猫
問いかけ : 陽炎の向こうの聖域
「……ええ、では、次回の納品分からは耐火基準を一段上げた新型のパネルで手配いたします。松岡課長、今日はお忙しい中ありがとうございました」
西陸運輸の片隅に佇む、築数十年は経過しているであろう古びた詰所。桐下鉄朗は、湿り気を帯びた手のひらで額を伝う汗を乱暴に拭うと、使い込まれて端が擦り切れた手帳をパタンと閉じた。窓の外から差し込む午後の陽光が、室内に舞う微細な埃を白く照らし出している。
窓枠に置かれた旧式のエアコンは、老人の喘鳴のような異音を立てながら懸命に冷気を吐き出そうとしていたが、室内を支配する熱気には到底太刀打ちできていない。卓上では、緑色の蚊取り線香が静かに身を削り、その青白い煙が、風のない空気の中を細く頼りなげにたなびいていた。
目の前に座る整備課長の松岡は、長年の現場作業で鍛え上げられた、節くれだった無骨な指先で桐下の名刺をパラパラと弾いた。彼の顔は、過酷な日差しに幾度も焼かれたことで、古い革製品のような深い皺が刻まれている。松岡はその相好を崩し、どこか感心したような、それでいて呆れたような視線を桐下に向けた。
「桐下さん、あんた本当に建材の営業マンか? さっきの分岐器の摩耗耐性の話、うちの若手より詳しかったぞ。おまけに西陸のダイヤを暗唱してるなんて、相当なもんだ。あんたみたいな男が営業に来ると、こっちも油断ができねえな」
松岡の言葉には、商売相手に対する社交辞令を超えた、同じ土俵に立つ人間への親愛の情が混じっていた。桐下は少しだけ姿勢を正し、上気した顔に控えめな、しかしその奥に隠しきれない情熱を滲ませた笑みを浮かべて答えた。
「いえ、ただの趣味ですから。……時刻表を眺めていると、この複雑なシステムが寸分違わず動いていることに、言いようのない美しさを感じるんです。
数千、数万の部品と、それを支える人々の意志が、一つの巨大な歯車として噛み合い、一秒の狂いもなく人々を運んでいく。その完璧な秩序の中に身を置くと、自分がちっぽけな存在であることを忘れられるような気がするんです」
桐下の言葉に熱がこもる。日々の業務では、建材の不具合に対する不毛なクレーム処理や、理不尽な納期短縮の要求に追われ、心が削られるような毎日だった。
だが、この鉄道という聖域の話題に触れるときだけは、彼の魂は解き放たれ、鋼鉄の規律が支配する純粋な世界へと回帰することができた。松岡はガハハと喉を鳴らして豪快に笑うと、重い腰を上げて立ち上がった。
「そこまで愛されてるなら、鉄道も本望だろう。あんたみたいな男には、机の上の資料じゃなくて本物を見せてやりたくなる。……よし、少し時間が空いた。特別だぞ。
今から第四分岐点の点検箇所まで同行させてやる。ちょうど特急しおかぜが通る前だ。生きた線路の迫力を間近で見ていくといい。鋼鉄が悲鳴を上げながら、巨大な質量を捌き分ける様は圧巻だぞ」
「えっ、いいんですか!? 一般人は立ち入り禁止区域のはずじゃ……」
桐下の胸が、まるで初恋の相手を目の前にした少年のように激しく高鳴った。住宅建材の営業という、数字と妥協に明け暮れる味気ない日常のすぐ隣に、これほど魅力的な深淵が広がっていたとは。
松岡から手渡された、煤けた黄色いヘルメット。その重みは、彼にとって勲章のように誇らしく感じられた。ヘルメットの顎紐を締める彼の指先は、期待と武者震いでわずかに震えていた。
詰所のドアを開け放ち、外に一歩踏み出した瞬間、暴力的なまでの熱波が全身を包み込んだ。それは単なる暑さではなく、物理的な重圧を伴う壁のようだった。線路沿いの鬱蒼とした斜面からは、何千何万という蝉たちが一斉に鳴き立てる蝉時雨が、まるで耳を貫く鋭い針のように降り注いでいる。
山が近いせいか、空気はねっとりと肌に張り付くような湿り気を帯び、アスファルトの代わりに敷き詰められた無数のバラストが、蓄えられた熱を吐き出して、空気の層をゆらゆらと歪ませていた。遠くの景色が溶け出したように揺らめく陽炎。その向こう側には、人智を超えた力が支配する鋼鉄の領土が広がっている。
「暑いな。この時期は山から変な虫が下りてきて困るんだ。機械の隙間にでも入られたら、とんでもない事故に繋がりかねないからな。ほら、そこにも」
松岡が厚い指先で指差した先。路傍に据え付けられた配線ボックスの無機質な蓋の上に、その異質な存在はいた。陽光を反射して、まるで磨き上げられた宝石のような虹色の光沢を放つカミキリムシ。
その長い触角が、機械的なリズムで左右に揺れている。生き物としての脈動を持ちながら、どこか精密な工芸品を思わせるその虫は、一瞬の静止の後、迷うことなく機械のわずかな隙間へと吸い込まれるように這い込んでいった。
「綺麗なもんですね。この過酷な環境でも、こんなに鮮やかな色をしているなんて」
「現場にしてみりゃ、ただの害虫だよ。どんなに綺麗だろうが、システムの調和を乱す不純物でしかない。
……おっと、悪い。詰所に書類を忘れてきた。これがないと点検記録が書けねえ。桐下さん、ここで少し待っててくれ。いいか、絶対に黄色い線の内側から出ちゃダメだぞ。命に関わるからな」
「わかりました。ありがとうございます! ここで大人しく見学させていただきます」
松岡は、年齢を感じさせない軽やかな足取りで、陽炎の中を詰所へと小走りで戻っていった。一人残された桐下は、眼前に無限の彼方まで伸びる二条のレールを、愛おしむような眼差しで見つめた。
太陽の熱を極限まで吸収した鉄の道は、研ぎ澄まされた刃物のように鋭く銀色に輝いている。遠くの山々は、水分をたっぷり含んだ深い緑色に染まり、空は雲一つない、吸い込まれるようなコバルトブルーを湛えていた。
時折、熱風に運ばれてくる、重厚な潤滑油と焼けた鉄の匂い。それは、桐下にとってどのような高級な香水よりも芳しく、高貴な香りに感じられた。
彼の足元には、大地に根を張る無骨な鉄の塊――14号分岐器が、その巨大な質量を横たえて鎮座している。今は死んだように静止しているこの巨大な鉄の爪が、数分後には、凄まじい轟音とともに数千トンの重圧を受け止め、巨大な特急列車を運命の方向へと導くのだ。
ジリジリと肌を焼く容赦ない暑さの中で、汗が目に入り、シャツが背中に張り付く不快感さえも、桐下にとっては「本物の現場」にいる証であり、幸福な感覚でしかなかった。彼はただ、夢にまで見た神聖な景色の一部になれた歓喜に、心ゆくまで浸っていた。
遠くの山あいで、微かに甲高い電子音が、静まり返った真昼の空気を切り裂くように響き始めた。特急しおかぜの接近を知らせる自動警報装置の音だ。その音は、規則正しい拍動を刻みながら、死の到来を告げるカウントダウンのように桐下の鼓膜を震わせた。
「……来た」
桐下は、期待に胸を躍らせて、眩しさに目を細めた。彼の口元には、無意識のうちに微かな笑みが浮かんでいた。視線の先、カーブの入り口にある信号機は、一点の曇りもない鮮やかな「青」を点灯させている。
それは、この完璧な交通システムが、何者にも邪魔されずに機能していることを示す聖なる証であった。時速百キロメートルを超える速度を維持したまま、制限速度ぎりぎりでこの曲線区間を駆け抜ける特急の勇姿を脳裏に描き、彼は誰に見られるわけでもないのに、儀式を執り行う司祭のように、無意識に靴の先を揃えて姿勢を正した。
だが、ふと慈しむような視線を足元のレールに落としたとき、心臓が巨大な氷の指で直接掴まれたような、悍ましい感覚が全身を駆け抜けた。桐下の表情から色が消え、代わりに粘りつくような冷や汗が噴き出した。
「え……?」
眼前に横たわる14号分岐器。彼の信仰の対象であったはずの鉄の造形が、今は歪んだ悪夢のように見えた。
本来、本線へと寸分の隙もなく密着しているはずのトングレールが、中途半端な位置で動きを止め、口を半開きにした怪物の顎のように異様な隙間を晒している。いや、それどころか、レールはゆっくりと、絶望的な確実さをもって「右」――すなわち、行き止まりの保守用側線を指し示していた。
桐下の脳内にある膨大な鉄道知識が、彼の意志を置き去りにして、瞬時に最悪のシミュレーションを弾き出した。
信号は依然として「青」を灯し続け、システムは正常であると嘘を吐いている。しかし、このレールの先には、輝かしい未来など何もない。あるのは、衝突の瞬間を待ち構える無骨な車止めと、その背後にうず高く積まれた、逃げ場のない死を象徴するバラストの山だけだ。
「嘘だろ……なんで、こんなことが。システムは、完璧じゃなかったのか」
桐下は震える声で呟いた。彼の人生は、常に不完全なものとの戦いだった。
営業先で浴びせられる理不尽な怒号、自らの些細なミスが招いた致命的な損失、それらを埋め合わせるために費やした卑屈な時間。そんな泥濘のような日常から救い出してくれる唯一の聖域が、この鉄道という秩序の世界だった。
もしここが壊れているのだとしたら、彼は一体何を信じて生きていけばいいのか。
時速100キロを超える鋼鉄の塊が、このまま狂った分岐点に突っ込めば、行き止まりの衝撃で車体は物理法則に従って跳ね上がり、巨大な鉄の礫となって住宅街へ降り注ぐだろう。その先にある平穏な家庭、昼寝をしていた老人、幼い子供の笑い声――すべてが、一瞬にして圧殺される。
混乱し、焦点の定まらない視界の端で、さらなる絶望が鮮明なオレンジ色を伴って飛び込んできた。
右側の側線、その冷たいレールの真上に、反射ベストを着用した男が倒れ込んでいる。それは先ほどまで精力的に動いていたはずの現場監督だった。連日の、それこそ脳を茹で上げるような酷暑にやられたのだろう。
彼は糸の切れた人形のように線路上に突っ伏し、その指先一つ動く気配がない。少し離れた場所では、別の作業員たちが背を向け、騒々しい重機の音に包まれながら自分たちの仕事に没頭していた。彼らはまだ、死神が背後に立っていることにすら気づいていない。
レールの微かな振動が、靴底を通じて桐下の全身に伝わり始めた。地底から響くようなその震えは、巨大な質量がこちらへ向かって開始した、確かな死の秒読みだった。桐下は、酸欠の魚のように口をパクパクと動かし、周囲を見渡した。助けを呼ぼうにも、声は震えて音にならない。
桐下の視線は、路盤の脇に設置された、油と埃にまみれた手動の切り替えレバーに固定された。あのハンドルを、人生のすべてを賭けて引き込み、本線側へ固定すれば、特急は何事もなかったかのように走り去る。乗客百数十名の命は、何一つ損なわれることなく明日へと繋がる。
だが、その代償はあまりにも残酷だ。レバーを引いたその瞬間に、右側のレールの先に横たわる現場監督は、逃げる間もなく、そして自分がなぜ死ぬのかを理解する暇もなく、冷徹な車輪の下で肉塊へと変貌することになる。
(俺が、殺すのか? 秩序を守るために、生贄を捧げろというのか?)
喉が、熱せられた砂を流し込まれたように乾き、激しい動悸で視界が明滅した。今、この灼熱の結界の中にいるのは、桐下ただ一人だ。松岡課長はまだ戻らない。今ここで、何も見なかったことにして背を向け、詰所の方へなりふり構わず走り出せば。
「現場監督が倒れているのを報告しに走ったんです。必死だったんです」 「急に猛烈な目眩がして、自分の命を守るために日陰を探していました。レールの異常なんて、素人の私に見抜けるはずがない」
どんな言い訳だって、法と社会は受け入れるだろう。自分はただのしがない建材営業マンだ。システムの守護者でもなければ、英雄でもない。関わらなければ、俺の手は清潔なままでいられる。
明日になれば、また謝罪の電話をかけ、冷えたビールを喉に流し込み、何も変わらない平凡で、それゆえに尊い日常が続くのだ。
(……くそっ、なんで俺なんだ! 完璧な世界に、なぜこんな不純な選択肢が混じり込んでいる!)
桐下は、自身の運命を呪うように顔を歪めた。これまでの人生で、彼は常に「選択」から逃げてきた。
誰かが決めたレールの上を歩くことで、責任という重圧を回避してきた。だが今、神は彼に、誰の命を断ち切り、誰を救うかという残虐な転轍機を握らせている。
レールの振動が、大地を揺るがす地鳴りのような唸りに変わった。カーブの向こうから、特急のヘッドライトが、審判の光のように白く強烈な輝きを放ちながら現れた。
陽炎の向こう側で、死の象徴が実体を持って迫り来る。残された時間は、心拍数にしてわずか二十回程度、時間にすればおよそ20秒。桐下は、脂汗がこめかみを伝うのを感じていた。
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