第3話:友情のカウンター・スピーチ
承知いたしました。
ご依頼に沿っ静寂が、まるで分厚い鉛の壁のように披露宴会場を支配していた。由香里さんが席に戻り、司会者が次の進行をどう切り出すか戸惑っている、そのわずかな時間。私にとっては、永遠にも感じられる屈辱の時間だった。もうここから逃げ出してしまいたい。すべての視線から、好奇と非難の刃から、隠れてしまいたい。そう思った瞬間だった。
「――失礼いたします。司会の方、少しだけお時間を頂戴してもよろしいでしょうか」
凛とした、よく通る声が静寂を破った。声の主は、私の親友、相沢亜矢だった。彼女はゆっくりと席を立ち、その手にはマイクが握られている。本来であれば、この後の友人代表スピーチで使うはずだったマイクだ。
会場中の視線が、一斉に亜矢へと集まる。突然の出来事に、誰もが戸惑いの表情を浮かべていた。司会者も「え、あ、はい…」と答えるのが精一杯のようだ。
「ただ今の新郎姉・由香里様のスピーチに関しまして、新婦友人として、いくつか訂正させていただきたい点がございます。そしてその後、改めて心からのお祝いの言葉を述べさせていただきます」
亜矢はそう言うと、高砂にいる私に向かって、力強く一度頷いてみせた。その揺るぎない瞳が、「信じて」と語りかけてくる。凍りついていた私の心に、かすかな熱が灯った。
由香里さんが、席から「あなた、何を言っているの?」と鋭い声を飛ばす。だが、亜矢は彼女を一瞥だにせず、落ち着き払った様子で言葉を続けた。
「まず、由香里様は先ほど、新婦・美咲の過去の交友関係、特に男性関係が乱れていたと仰いました。そして、その証拠として『派手な身なりで多くの男性と親密にしている姿を見た』と」
亜矢の言葉に、会場が再びざわめく。皆、これから何が始まるのかと固唾を飲んで見守っている。
「それでは、由香里様がご覧になったというその『姿』が、どのような状況であったのか、皆様にもご確認いただきたく存じます。詩織、お願い」
亜矢がそう言うと、隣に座っていた詩織がノートパソコンを素早く操作した。すると、会場の巨大スクリーンに、ぱっと一枚の写真が映し出される。それは、けばけばしい化粧をし、露出の多い衣装を着た私が、見知らぬ男性と親密そうに肩を寄せ合っている写真だった。
「きゃっ…!」
「なんだ、これ…」
会場のあちこちから、驚きと軽蔑の混じった声が上がる。由香里さんの口元に、勝ち誇ったような笑みが浮かぶのが見えた。彼女が事前に何人かの親族に「証拠」として見せていた写真なのだろう。この写真が、彼女の嘘を補強する最大の武器だったのだ。
健太くんが「美咲、これはいったい…」と絶句している。ご両親に至っては、もう私を人間ではないかのように見つめていた。
だが、亜矢は全く動じない。
「皆様、驚かれたことでしょう。確かにこの写真だけを見れば、美咲が素行の悪い女性であるかのように思えるかもしれません。しかし、物事には常に全体像というものが存在します。詩織」
詩織がエンターキーを押す。すると、スクリーン上の写真がぐっと引いていき、隠されていた全体像が明らかになった。
そこに映し出されていたのは、大学のサークル仲間、男女十数人が満面の笑みでバーベキューを楽しんでいる、ごくありふれた集合写真だった。先ほどの写真は、この大人数の写真の中から、私とたまたま隣にいた男の子の部分だけを、悪意をもって切り取ったものに過ぎなかったのだ。
「――え?」
誰かが、間の抜けた声を漏らした。会場の空気が、再び変わる。困惑、そして疑念。その矛先は、もはや私ではなく、別の誰かに向けられ始めていた。
「次に、『派手な身なり』についてです」
亜矢は淡々と続ける。
「これもご覧ください」
詩織が操作すると、スクリーンには数枚の写真と、短い動画が次々と映し出された。金髪のウィッグをつけ、パンクロック風の衣装を着た私。古風な着物を着て日本髪を結った私。それらはすべて、大学の演劇サークルで私が演じた、舞台上の役柄の写真だった。動画には、私が舞台の上で熱演し、公演後、共演者たちと涙ながらに健闘をたたえ合っている様子が収められていた。
「美咲は大学時代、演劇に情熱を注いでおりました。由香里様が『派手な身なり』と仰ったのは、すべて舞台衣装のことです。そして『多くの男性』とは、同じ夢を追いかけた大切なサークル仲間たちのことです。これを『乱れた交友関係』と断じるのは、あまりにも一方的で、美咲の懸命に打ち込んだ青春そのものを侮辱する行為ではないでしょうか」
亜矢の静かだが力強い言葉が、会場に響き渡る。
そうだ。あれは、私の大切な思い出。必死で練習し、仲間たちと一つのものを作り上げた、かけがえのない時間。それを、あんなふうに汚されていたなんて。悔しさと、友人たちがそれを晴らしてくれた感動で、視界が滲み始める。
「そ、そんなもの…! そんなもの、後からどうとでも言えるわ! 都合のいい部分だけ切り貼りして…! 捏造よ!」
席から立ち上がった由香里さんが、ヒステリックに叫んだ。だが、その声には先ほどまでの自信はなく、明らかな焦りが滲んでいた。
「捏造、でございますか」
亜矢は冷ややかに由香里さんを見据えた。その目は、法廷で嘘偽りの証言をする証人を見る弁護士の目そのものだった。
「では、由香里様。こちらは、どうご説明なさいますか?」
詩織が、最後の切り札を切った。
スクリーンに映し出されたのは、あるSNSの匿名アカウントの投稿画面だった。アイコンは真っ黒。しかし、その投稿内容は、誰が見ても異常だった。
『弟の彼女、本当にむかつく。育ちの悪い貧乏人がしゃしゃり出てこないでほしい』
『ドレス選びに着いて行ったけど、安物しか似合わないくせに。篠田家の品位が下がる』
『あいつの友人、弁護士だのITだの、ろくなのがいない。類は友を呼ぶって本当ね』
私の結婚が決まってから今日までの、由香里さんの行動と完全に一致する、悪意に満ちた投稿の数々。それらはすべて、この日のために詩織が探し出し、突き止めていたものだった。
会場が、今度こそ完全に静まり返った。もはや、ざわめきすら起きない。誰もが、スクリーンに映し出された醜悪な言葉と、フューシャピンクのドレスを着て顔を真っ青にしている由香里さんの姿を、交互に見比べている。
「な…っ、私じゃ、ないわ…! こんなもの、知らない…!」
「そうですか。では、このアカウントが投稿に使用したスマートフォン。その端末識別情報と、本日、由香里様がお持ちのスマートフォンの情報が、完全に一致しているという事実については、どう思われますか?」
詩織が、涼しい顔で専門用語を並べる。ITに疎い人には意味が分からないかもしれない。だが、その言葉が持つ決定的な威力は、誰の目にも明らかだった。
「また、このアカウントが最後に投稿したのは、つい先ほど。由香里様がご自身の席に戻られてから、ほんの数分後のことです」
詩織はパソコンの画面を操作し、最新の投稿を大写しにした。
『計画通り。あの女の顔、最高に傑作だわ。これで弟もようやく目が覚めるはず。私の勝ちね』
その投稿が表示された瞬間、すべてが終わった。
それは、自らの犯行を自白する、動かぬ証拠だった。
「ひっ…!」
由香里さんが、短い悲鳴を上げた。顔からは完全に血の気が失せ、わなわなと震える指で私たちを指差している。
「嘘よ、嘘、嘘! 全部あいつらが仕組んだ罠よ! 健太! お母様! 私を信じて!」
彼女は、健太くんとご両親に必死に助けを求めた。しかし、健太くんは、信じられないものを見る目で姉を見つめ、ただ立ち尽くしている。ご両親も、あまりの衝撃と羞恥に顔を覆い、言葉を失っていた。
ここで、ずっと私の隣で震える肩を抱きしめてくれていた奈々が、静かにマイクを手に取った。彼女の目には、大粒の涙が浮かんでいた。
「美咲は、ずっと我慢していました…! 由香里さんから、どんなにひどいことを言われても、健太さんのことを困らせたくないからって、ずっと一人で耐えてきました…! 結婚式の準備だって、本当はもっともっと楽しみにしていたのに…。それでも、今日のこの日を、心の底から楽しみにしてたんです…!」
奈々の涙ながらの訴えが、会場の全員の胸を打った。
「美咲は、お金なんかじゃありません! 健太さんの、優しくて、誠実なところに心から惹かれて…! こんなに素敵な人の奥さんになれるんだって、本当に幸せそうでした…! なのに、どうして…! どうして、こんなひどいことができるんですか!」
奈々の嗚咽が、マイクを通して響き渡る。
もう、誰も由香里さんを信じる者はいなかった。彼女に向けられるのは、侮蔑、軽蔑、そして冷え切った非難の視線だけ。彼女が私に浴びせかけたかった視線の、何倍もの刃となって、今、彼女自身に突き刺さっていた。
「私たち三人は、ただ、親友のたった一度の晴れの日を守りたかっただけです」
亜矢が、静かにスピーチを締めくくった。
「偽りの暴露ではなく、真実の友情を、皆様にお見せしたかった。新郎・健太さん。あなたが愛した美咲は、ここにいる、涙もろくて、でも誰よりも心が綺麗で、誠実な女性です。どうか、その手を、二度と離さないであげてください」
亜矢の言葉が、魔法を解いた。
堰を切ったように、私の目から涙が溢れ出した。それは、屈辱や悲しみの涙ではなかった。友人たちへの感謝と、張り詰めていた心の糸がほどけた安堵と、そして、取り戻した幸せへの感動が入り混じった、温かい涙だった。
私は、もう一人じゃない。
私の尊厳は、最高の友人たちの手によって、見事に守り抜かれたのだ。
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