第17話 邪を祓う者

 影都えいとに、ふだの匂いが混じった。


 それは、妖怪なら誰でも分かる。

 清く、鋭く、そして――拒絶する匂いだ。


「……来たな」


 【ミズハ】が、街門の上から呟く。


 通りの先。

 人の波が、無意識に道を空けていた。


 一人の男が、歩いてくる。


 白と藍の狩衣かりぎぬ

 腰には刀ではなく、符筒ふづつ

 年齢は分からない。若くも老いても見える。


 だが――

 格が違う。


 街に満ちていた妖気が、わずかに引いた。


「陰陽師……」


 鬼火小僧おにびこぞうが、低く唸る。


 男は、影国主えいこくしゅである俺の前で立ち止まり、静かに頭を下げた。


「初めてお目にかかる」


 声は、穏やかだった。


「我が名は【アベノ・セイラン】」


 その名に、ざわめきが走る。


 人間側で知らぬ者はいない。

 邪悪な妖怪のみを討つ陰陽師。


 無差別ではない。

 だが、容赦もしない。


「影の国の王よ」


 彼は、俺をまっすぐに見た。


「貴国が“中立”を名乗ったと聞き、確かめに来た」


 俺は、一歩も引かなかった。


「何をだ」


「――ここが、“邪”に堕ちていないかを」


 空気が、張り詰める。


 妖怪たちが、一斉に身構えた。


 だが、セイランは符を抜かない。


 ただ、目を閉じ――

 街を“見る”。


「……興味深い」


 目を開いた彼は、そう呟いた。


「確かに妖は多い。

 だが、怨念が少ない」


 視線が、街を巡る。


「逃げ場として集まった者たちだ。

 邪ではない」


 その言葉に、わずかに緊張が緩む。


 鬼火小僧が、小声で言った。


「……マジで見分けてやがる」


 セイランは、俺に向き直る。


「一つ、問う」


「答えよう」


「もし、この街に“邪悪な妖怪”が紛れ込んだら?」


 俺は、迷わなかった。


「裁く」


 影が、足元で静かに揺れる。


「ここでは、邪も善も、放置しない」


 セイランは、微かに笑った。


「……ならば、今は刃を向ける理由はない」


 そう言って、踵を返す。


 だが――

 その瞬間。


 俺は、気づいた。


 彼の影が、妙に薄い。


 影縫として、見逃せない違和感。


 影は、その者の“重み”を映す。

 だが、【アベノ・セイラン】の影は――


 人のものではなかった。


「……待て」


 俺が声をかけると、彼は立ち止まった。


「一つ、聞きたい」


 セイランは、振り返らない。


「なぜ、邪悪な妖怪だけを討つ?」


 沈黙。


 そして、低い声。


「……それが、私の“罪”だからだ」


 初めて、感情が滲んだ。


 彼は、こちらを見ないまま続ける。


「この街は、まだ“邪”に染まっていない」


 わずかに、声が揺れた。


「だが――

 もし染まったときは、王よ」


 その言葉に、鋭い何かが混じる。


「私は、貴殿であろうと、討つ」


 そう言い残し、彼は人波に紛れて消えた。


 街に、ざわめきが戻る。


「……ヤバい奴だな」


 鬼火小僧が、率直に言う。


「ああ」


 俺は、セイランの消えた先を見つめる。


「だが――

 彼は、嘘をついていない」


 問題は、何を隠しているかだ。


 最強の陰陽師。

 邪悪な妖怪のみを討つ正義。


 そして――

 人ではない影。


 影都は、また一つ、

 危険な存在を引き寄せてしまった。



 影都えいとの中央塔で、影国主えいこくしゅである俺は立っていた。


 集まっているのは、街の代表たち。

 鬼族、妖狐衆、人間区画の長、そして流れ着いた難民の代表。


 全員が、次の言葉を待っている。


「宣言する」


 影が、床に静かに広がった。


「影の国は――

 中立国であるが、交渉地ではない」


 ざわめき。


 予想していた反応だ。


「この街は、逃げ場であり、生活の場だ。

 国同士の責任転嫁の場ではない」


 視線を巡らせる。


「誰かの代わりに、争いを終わらせることはしない。

 誰かの代わりに、決断を引き受けることもしない」


 言葉は、柔らかい。

 だが、逃げ道はなかった。


「中立とは、

 踏み台になることではない」


 誰も、反論しなかった。


 それが、影の国の答えだ。



 翌日。


 俺は、影都を出た。


 護衛は、いない。

 影だけが、足元についてくる。


 向かう先は――

 【リオネス公国】。


 中立を“便利な場”として使おうとした国。


 城門前で、兵がざわついた。


「影の国の……王?」


「通告だ」


 俺は、名乗らない。


「影国主だ」


 それだけで、門は開いた。



 謁見の間。


 公国の貴族たちは、戸惑いを隠せずにいた。


「交渉の場の件で、返答に来たのか?」


「違う」


 俺は、はっきりと言う。


「拒否を伝えに来た」


 空気が、凍る。


「影の国は、

 貴国とセイラン王国の交渉地にはならない」


 貴族の一人が、苛立ちを隠さず言った。


「中立国だろう!

 それなら、場を提供する義務が――」


「ない」


 即答だった。


「中立は、便利さではない」


 影が、床に伸びる。


「貴国が戦争を避けたいなら、

 自分の国で決めろ」


 沈黙。


 俺は、最後に言い足した。


「影の国は、逃げ場だ。

 だが、責任の置き場ではない」


 それだけ言って、踵を返す。


 誰も、引き留めなかった。


 引き留められないと、分かっていたからだ。



 影都へ戻る途中。


 森の縁で、気配を感じた。


 札の匂い。


 振り向くと、そこに【アベノ・セイラン】が立っていた。


「……やはり、そう出たか」


 彼は、穏やかに言う。


「中立を守るために、拒む。

 正しい判断だ」


「それを確かめに来たのか」


「ああ」


 短い沈黙。


 その間、俺は気づいていた。


 彼の呼吸が、わずかに乱れている。


 影が――

 揺れている。


 人のものではない影が、内側で蠢いている。


「……セイラン」


 名を呼ぶと、彼は一瞬だけ、表情を歪めた。


「見るな」


 低い声。


 だが、もう遅い。


 彼の胸の奥。

 札で幾重にも縛られた――妖。


 強大で、荒々しく、

 そして深い憎しみを孕んだ存在。


 封じられているが、

 完全ではない。


 セイランの理性が揺れた瞬間、

 内側から叩くように暴れ始める。


「……時間が、近い」


 彼は、自嘲気味に笑った。


「だから私は、邪悪な妖怪だけを討つ」


「それは――」


「贖罪だ」


 彼の声が、微かに震える。


「この妖が、完全に目覚める前に」


 影が、激しく波打った。


 一瞬、俺の影と、彼の影が重なる。


 ――危険だ。


 この男は、正義であり、

 同時に災厄そのものだ。


 セイランは、背を向けた。


「影国主」


 振り返らずに言う。


「もし、私が“邪”に堕ちたときは――」


 言葉が、刃のように落ちる。


「貴殿が、私を止めろ」


 森に、静寂が戻る。


 彼の姿は、もうない。


 俺は、影を握りしめた。


 中立を宣言し、

 拒否を示し、

 そして――


 止めるべき存在が、また一つ増えた。


 影の国は、

 争いを避けるために立っている。


 だが、避けられない影もある。


 その中心で、

 王は、今日も選択を迫られている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る