第14話 王は、考えを変えていた

 影の国を離れるのは、久しぶりだった。


 いや――

 王になってからは、初めてだ。


「本当に行くのか」


 鬼火小僧おにびこぞうが、不安を隠さずに言う。


「ああ」


 俺――影国主えいこくしゅは、結界の外に立っていた。


「今回は、剣も影も持っていかない」


 【ミズハ】が、静かに尾を揺らす。


「妖都【クグツ】は、王の都だ。

 軽んじられれば、帰れぬ可能性もある」


「分かっている」


 それでも、行く理由があった。


「だから、俺が行く」


 名を持つ王として。



 妖都【クグツ】は、深かった。


 森を抜け、岩を越え、霧を潜る。

 気づけば、音が減り、色が落ちていく。


 巨大な石殿。

 絡み合う糸のような結界。

 そして――妖怪たちの視線。


 敵意ではない。

 値踏みだ。


「……これが、都か」


 俺は、足を止めなかった。


 逃げない王を、彼らは嫌いじゃない。



 玉座の間。


 そこにいたのは、ただ一体。


 【クグツ王・オロチ】は、前と同じように座していた。


「来たか、影国主」


 声は低く、変わらない。


「用件は?」


 俺は、一礼だけして言った。


「考えが、変わった」


 オロチの目が、わずかに細まる。


「ほう」


「以前は、守るために国を作った」


 影が、足元で揺れる。


「だが今は――」


 俺は、言葉を選び、続けた。


「繋ぐために、国を使おうと思っている」


 沈黙。


 重いが、拒絶ではない。


「人と妖の間に立つ?」


「そのつもりだ」


 俺は、正面から答えた。


「どちらかを選ぶなら、いずれ戦争になる。

 なら、選ばない道を作る」


 オロチは、低く笑った。


「……理想だな」


「そうだ」


 否定しない。


「だが、影の国は“奪わず、救った”。

 それを見た者は、剣を抜けなかった」


 オロチは、玉座から立ち上がった。


 一歩、近づく。


「分かっているか」


 圧が、来る。


「その役目は、最も憎まれる」


「分かっている」


 俺は、視線を逸らさない。


「だが、誰かがやらなければ、争いは続く」


 長い沈黙の後。


 オロチは、静かに言った。


「……だから、お前を選んだ」


 俺は、息を呑む。


「影は、どちらにも染まらぬ。

 人でもなく、妖怪でもない」


 王は、笑った。


「最初から、役目は決まっていたのかもしれんな」


 そして、俺を見据える。


「条件がある」


「聞こう」


「影の国は、妖都【クグツ】の庇護を出る」


 一瞬、言葉を失う。


「庇護を、捨てろ?」


「そうだ」


 オロチは、はっきりと言った。


「盾の裏では、繋げぬ。

 中立を名乗るなら、独りで立て」


 重い言葉だった。


 だが――

 納得もしていた。


「……分かった」


 俺は、深く頷く。


「それが、王としての覚悟だな」


 オロチは、満足そうに笑った。


「次に会うときは、

 世界が、お前をどう呼んでいるかで話そう」


 影が、静かに揺れる。


 俺は、玉座の間を後にした。



 帰路。


 影の国の境界が、見えてくる。


 胸の奥に、不安はある。

 だが、後悔はなかった。


「……考えは、変わった」


 守るだけの王では、足りない。


 影国主は、

 世界を繋ぐために、外へ出る王になる。


 その一歩が、

 新しい争いを呼ぶのか、

 終わらせるのか――


 まだ、誰にも分からない。


 

影の国の広場に、全てが集まっていた。


 鬼族。

 妖狐衆。

 付喪神たち。

 そして、外から招いた者たち――行商、人の使者、名もなき旅人。


 影国主えいこくしゅである俺は、円の中心に立つ。


 今日は、剣を持たない。

 影を伸ばさない。


 言葉だけの日だ。


「聞いてほしい」


 声は、大きくも小さくもない。

 だが、広場にいる全員へ届く。


「影の国は、これより――

 中立国を名乗る」


 ざわめきが走る。


 人の使者が、眉をひそめる。

 妖怪たちは、息を呑む。


 俺は続ける。


「どの国にも与しない。

 どの国にも刃を向けない」


 影が、足元で静かに揺れる。


「だが、奪う者には立ち塞がる。

 滅ぼす者には、居場所を与えない」


 沈黙。


 それは、曖昧な立場ではない。

 覚悟のいる立場だ。


「影の国は、境界になる」


 人と妖。

 国と国。

 強者と弱者。


「逃げ場を失った者が、最後に立てる場所だ」


 【ミズハ】が、一歩前に出た。


「妖狐衆は、この宣言を支持する」


 九尾が、静かに揺れる。


 続いて、鬼火小僧おにびこぞうが声を張る。


「鬼族もだ!

 戦うためじゃなく、守るために力を使う!」


 鬼たちが、拳を打ち鳴らす。


 付喪神たちは、焚き火を強くした。


 国が、一つの意思を持った瞬間だった。



 人の使者が、恐る恐る口を開く。


「……それは、

 どの国にも従わないという宣言でもある」


「そうだ」


 俺は否定しない。


「だからこそ、ここでは争わせない」


 使者は、息を呑んだ。


「それは……

 すべての国から、睨まれる道だ」


 俺は、静かに答えた。


「もう、睨まれている」


 笑いは起きなかった。

 だが、理解は広がった。



 宣言は、文として刻まれた。


影の国 中立宣言


一、影の国は、いかなる国家にも属さない

一、影の国は、交易と対話を拒まない

一、影の国は、侵略と強制を許さない

一、影の国は、名と居場所を奪われた者を拒まない


「この四つを破る者は、

 人であろうと、妖であろうと――」


 影が、わずかに濃くなる。


「影の国の敵だ」



 その日の夜。


 影の国の境界に、二つの気配があった。


 一つは、人の王国側。

 急使が、馬を走らせている。


 一つは、妖都【クグツ】側。

 静かな観測の視線。


 そして、そのどちらにも属さない場所で――

 影の国は、灯をともしていた。


 俺は、広場の焚き火を見つめる。


「……中立、か」


 楽な道じゃない。

 だが、選んだ。


 守るためでも、勝つためでもない。


 繋ぐための国として。


 影は、もう逃げ場ではない。


 世界の真ん中で、

 立ち続ける意思になった。

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