第10話 人は、影を噂する

 その噂は、酒場から始まった。


「なあ、聞いたか?」


 木杯を傾けた傭兵が、声を潜める。


「山向こうの鬼の村……なくなったらしい」


 卓を囲む人間たちが、ぴたりと動きを止めた。


「なくなった?」


「正確には……“変わった”だ」


 火のそばにいた行商人が、眉をひそめる。


「鬼も狐も、争ってたはずだろ。なのに、今は一つの国になってるって話だ」


 笑い声が上がった。


「妖怪が国? 馬鹿言うな」


「だがな……」


 行商人は、声を落とす。


「逃げてきた猟師が言ってた。

 “影が動いて、村を守った”って」


 空気が、冷えた。


 人間にとって、妖怪とは“脅威”であり“資源”であり、そして――

 管理されるべき存在だ。


 それが、国を作った?


「王は誰だ」


 誰かが呟いた。


「名前は……分からん。ただ、“影を縫う妖怪”だとか」


 その言葉に、酒場の主が顔をしかめる。


「……厄介だな」



 同じ頃。


 城壁に囲まれた町――

 人間国家【セイラン王国】の政庁では、別の形で噂が整理されていた。


「山岳地帯に、新たな妖怪勢力」


 文官が、巻物を広げる。


「鬼族と妖狐族が統合。統治者不明。推定規模、小国家」


 玉座の前に立つ将軍【ヴァルド】が、腕を組む。


「統治者が“不明”とは?」


「名を名乗らぬ存在だそうです。影のような妖怪だと」


 沈黙。


 王【レオン】が、ゆっくりと口を開いた。


「……最悪だな」


「はい」


 文官は頷く。


「名を持たぬ支配者は、交渉の余地が読めません」


 王は、指を組んだ。


「放置すれば、妖怪同士が結束する前例になる」


「討伐を?」


「いや……」


 王は、首を振る。


「まずは“観測”だ。

 下手に刺激すれば、火種になる」


 その視線は、冷たい。


「国を名乗るなら、いずれ接触せざるを得ん」



 さらに遠く。


 人の世から隔絶された深山の奥。


 巨大な樹木と石殿に囲まれた地で、妖怪たちが集っていた。


「影の国……だと?」


 重く、湿った声。


 蜘蛛の妖怪が、脚を鳴らす。


「九尾の【ミズハ】が従った、という噂です」


 玉座に座るのは、巨大な妖怪。


 別の妖怪国家――

 妖都【クグツ】の主。


「……面白い」


 その目が、細くなる。


「妖怪が、王を選んだか」


 傍らの妖怪が、低く問う。


「どうなさいます?」


 主は、笑った。


「見に行くさ」


 牙が、闇に光る。


「影が、どこまで広がるのかをな」



 噂は、広がる。


 人の間で。

 妖怪の間で。

 国と国の、境界で。


 まだ誰も知らない。


 その影の中心にいる存在が、

 戦うためではなく、居場所を作るために国を興したことを。


 だが、世界はもう、動き始めていた。


 朝霧の中、影の国は静かだった。


 鬼たちは木柵の補修に回り、妖狐衆は森の縁で風と気配を読む。戦の後の緊張はまだ残っているが、ここには確かな秩序が生まれつつあった。


 その中心に、俺は立っていた。


「……使者を出す」


 言葉にすると、思った以上に重い。


 【ミズハ】が一歩前に出る。


「人の国か、妖都【クグツ】か。どちらへ?」


「まずは、人だ」


 俺は即答した。


「妖怪同士より、先に“外”を知る必要がある」


 ミズハは目を細め、頷いた。


「妥当だ。では、我が衆から二名。言葉と礼を心得た者を出そう」


 そのやり取りを、鬼火小僧おにびこぞうが黙って聞いていた。


「……なあ、影縫」


「どうした」


「それ、もう“国交”だぞ」


 その言葉に、胸の奥がわずかに痛んだ。


 国交。

 使者。

 交渉。


 俺は、ただ生き延びるために縫ってきただけだ。

 居場所を増やしたかっただけだ。


「……違う」


 ぽつりと、言葉が漏れる。


「俺は、王じゃない」


 その場が、静まり返った。


 鬼も、妖狐も、皆がこちらを見る。


 長老が、ゆっくりと口を開いた。


「だが、影縫。決めておるのはお前じゃ」


 俺は首を振る。


「俺は縛ってない。命令もしてない」


「それでもじゃ」


 長老の声は、穏やかだった。


「お前が“決める”と、皆が動く。それが、王というものじゃ」


 違う、と言い返そうとして――言葉が詰まった。


 事実だったからだ。


 契約のことわりは、支配の力じゃない。

 だが、選択の重みは、確実に俺へ集まっている。


「……王になった覚えはない」


 俺は影を見つめながら言った。


「名もない雑妖だった。ただの影だ」


 【ミズハ】が、静かに口を挟む。


「王とは、生まれではない」


 九尾が、ゆるやかに揺れた。


「選ばれ、逃げなかった者だ」


 胸の奥が、強く脈打つ。


 逃げなかった。

 それだけは、確かだ。


 戦のときも。

 契約のときも。

 村が壊れかけたときも。


 ――逃げなかった。


 鬼火小僧が、照れくさそうに笑った。


「呼び方の話だろ?」


「……?」


「王って呼ばれるのが嫌なら、別にいい。でもさ」


 彼は、はっきりと言った。


「俺たちは、あんたの背中を見て動いてる」


 その言葉が、深く刺さった。


 俺は、ゆっくりと息を吐く。


「……分かった」


 影が、静かに揺れる。


「王と呼ばれることは、止めない」


 皆が息を呑む。


「だが、勘違いするな」


 俺は、円の中心に立ち、告げた。


「俺は、上には立たない。前に立つだけだ」


 影が、皆の足元へ伸びる。


「選択は俺がする。責任も俺が取る。だが――」


 視線を巡らせる。


「国は、俺一人のものじゃない」


 沈黙のあと、誰かが膝をついた。


 次々と、鬼も、妖狐も、同じように頭を下げる。


「……やめろ」


 思わず、そう言った。


 だが、ミズハが穏やかに言う。


「違う。これは服従ではない」


 彼は顔を上げ、微笑んだ。


「了承だ」


 胸の奥で、何かが静かに定まった。


 そのとき、妖狐の一体が進み出る。


「使者の準備が整いました」


 俺は頷いた。


「行け。無理はするな」


 背を向ける使者たちを見送りながら、俺は影に呟く。


「……王、か」


 まだ、慣れない。


 だが、逃げるつもりもない。


 影の国は、初めて外へ踏み出す。


 そして俺は、

 王と呼ばれる影として、

 その責任を背負い続けることになる。

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