第4話:私の新しい序曲(プレリュード)

あの嵐のような最後の晩餐から、季節は一つ巡った。冷たい冬の空気が澄み渡り、街はクリスマスイルミネーションの柔らかな光に包まれている。私は、翔太と暮らしたマンションを引き払い、都心を見渡せる新しい高層マンションの一室に居を移していた。白を基調とした、広々としたリビング。家具は全て新調し、私の好きなミニマルで洗練されたデザインのものだけを揃えた。ここにはもう、誰かの好みに合わせる必要はない。この城の女王は、私自身なのだから。


窓際のデスクに座り、淹れたてのハーブティーを一口含む。眼下に広がる街の灯りを眺めながら、この数ヶ月の変化を静かに噛み締めていた。離婚は、驚くほどスムーズに進んだ。あの夜、全てのカードを失った翔太に、抵抗する術は残されていなかった。慰謝料も財産分与も、私が提示した合意書の通りに履行された。手にした十分な資産は、私の新しい人生を始めるための、力強い支えとなった。


「白石さん、この間の準備書面、完璧でしたよ。相手方もぐうの音も出ないでしょう」


声のした方へ振り向くと、法律事務所の先輩弁護士が笑顔で立っていた。そう、私は今、再び法律の世界に戻ってきている。橘さんの紹介と、かつての上司の推薦もあり、国内でも有数の大手法律事務所に、ブランクを経ての再就職を果たすことができたのだ。


「ありがとうございます。至らない点も多いですが、ご指導のおかげです」

「謙遜しないでください。あなたのその分析力と粘り強さは、本当に頼りになります。正直、五年のブランクがあるとは思えませんよ」


最初は、家庭にいた頃の自分とのギャップに戸惑いもあった。けれど、一度感覚を取り戻してしまえば、水を得た魚のようだった。複雑な案件を解きほぐし、依頼人のために最善の戦略を練る。そのプロセスは、かつて翔太のために完璧な家庭を築こうとしていた頃の情熱とは全く違う、知的な興奮と達成感を私に与えてくれた。ヒールの音を響かせ、スーツに身を包んでオフィスを歩く。鏡に映る自分の姿は、自信に満ち、生き生きと輝いているように見えた。これこそが、私が本当に求めていた「白石莉奈」の姿だったのだ。


仕事帰りに、橘さんと食事に行くことも時々ある。彼は、私の離婚劇の立役者であり、今では何でも話せる良き友人だ。


「すっかり、元の君に戻ったな。いや、前よりもっと強くなったかもしれない」

「そうかしら。橘さんのおかげよ。あの時、あなたがいなかったら、私はきっと泣き寝入りしていたわ」

「そんなタマじゃないだろう、君は」


彼はそう言って、悪戯っぽく笑った。

「それにしても、見事な手際だった。翔太くんも、まさかあそこまでやられるとは思っていなかっただろうな」

「……彼は、どうしているの?」


ふと、口をついて出てしまった質問。もう関心はないはずなのに、心のどこかで、彼の末路が気になっていた。橘さんは少し表情を曇らせ、ワイングラスを置いた。


「あまり良い噂は聞かないな。君との離婚で財産のほとんどを失い、慰謝料の支払いで貯金も底をついたらしい。会社でも、不貞行為の噂が広まって、かなり立場が悪いようだ。エースだった頃の面影は、もうないよ」

「そう……」

「桜井亜美も、結局会社を辞めたそうだ。翔太くんが慰謝料を肩代わりしてくれるとでも思っていたんだろうが、そんな余裕は彼にはなかった。二人で慰謝料のことで揉めに揉めて、結局、彼女は親に借金して支払ったと聞いた。当然、二人の関係も終わったよ」


自業自得、という言葉が頭をよぎる。けれど、不思議と胸がすくような気持ちにはならなかった。ただ、一つの関係が終わったという事実が、冷たくそこにあるだけだった。彼らがこれからどんな人生を歩もうと、それはもう、私の物語とは何の関係もない。


その日の夜、自宅のポストに一通の手紙が入っていた。差出人の名前を見て、私は眉をひそめた。翔太の母親、つまり元・義母からだった。嫌な予感がしたが、開封せずに捨てるのも違う気がして、封を切った。


便箋には、震えるような文字で、私への恨み言と、息子を返してほしいという懇願が綴られていた。

『莉奈さん、あなたが翔太から全てを奪っていったせいで、あの子は心も体もボロボロです。あなたは完璧な妻のふりをして、裏ではこんな恐ろしい計画を立てていたのですね。どうか、息子を許してやってはもらえないでしょうか』


私はその手紙を最後まで読むと、ため息一つつかずに、シュレッダーにかけた。細かく裁断されていく文字を見ながら、思う。この人たちもまた、何も分かっていなかったのだ。私がなぜ、あそこまでする必要があったのか。私がどれだけのものを我慢し、飲み込んできたのか。彼らの世界では、息子は少し道を誤っただけの可哀想な被害者で、私は全てを奪った冷酷な悪女なのだろう。もう、理解し合おうとするだけ無駄だった。


数日後、私のスマートフォンに、非通知設定の着信があった。普段なら出ないのだが、その時はなぜか、虫の知らせというものがあったのかもしれない。通話ボタンを押すと、懐かしくも、今は聞きたくない声が耳に飛び込んできた。


「……莉奈か?」

翔太だった。ひどくかすれた、力のない声。

「何の用かしら。もう、私たちに関わる理由はないはずよ」

「頼む、もう一度だけ会って話がしたい。謝りたいんだ。俺、間違ってた。お前がいないと、俺は……」


彼の声は、惨めなほどに震えていた。かつての自信に満ちた声とは、まるで別人のようだ。彼はきっと、私が少しでも同情すれば、元の関係に戻れるかもしれないと、淡い期待を抱いているのだろう。


私は、窓の外に広がる夜景に目を向けたまま、静かに、しかしはっきりと告げた。

「謝罪なら、もう十分聞いたわ。あなたと会う時間があるなら、私は新しい案件の資料を一枚でも多く読み込みたい。私の時間は、もうあなたのためには一秒たりとも使えないの」

「そ、そんな……」

「それに、気づいている? あなたが今いる場所は、過去よ。私は、もう未来にしか興味がないの。さようなら、白石さん」


私は彼の名前ではなく、苗字で呼んだ。それは、彼がもはや私にとって、血の繋がりも、心の繋がりもない、赤の他人であることを示すための、最後の線引きだった。


通話を切り、私は彼の番号を着信拒否に設定した。そして、スマートフォンをテーブルに置くと、深く息を吐く。これで、本当に全てが終わった。過去との、完全な決別だ。


リビングのオーディオから、ドビュッシーの『月の光』が流れ始める。ピアノの繊細な旋律が、静かな部屋を満たしていく。私はソファに深く身を沈め、目を閉じた。


完璧な妻を演じていた日々。それは、偽りだったかもしれないけれど、無駄ではなかったと思う。あの経験があったからこそ、私は自分の本当の望みを知ることができた。誰かのための人生ではなく、自分のための人生を歩みたいという、強い渇望を。


翔太は、後悔の中で生きていくのだろう。彼が失ったのは、財産や社会的地位だけではない。彼が本当に失ったのは、彼を心から支えようとしていた人間の、最後の信頼だった。その価値に気づいた時には、もう手遅れだったのだ。


私は目を開け、もう一度、窓の外の景色を見た。無数に輝く街の灯り一つ一つに、人々の人生がある。喜びも、悲しみも、後悔も、希望も。私の人生も、またここから新しく始まっていく。


翌朝、私はいつもより少し早く目を覚ました。クローゼットから、お気に入りのネイビーのセットアップスーツを選ぶ。丁寧にメイクを施し、髪をきっちりとまとめる。最後に、耳元で揺れる小ぶりのパールのイヤリングをつけた。それは、再就職を祝して、自分で自分に贈ったプレゼントだ。


玄関のドアを開け、朝の冷たい空気を胸いっぱいに吸い込む。空は快晴。新しい一日が、私を待っている。


「行ってきます」


誰に言うでもなく、私は小さく呟いた。その声は、希望に満ちて、弾んでいた。

かつて夫を送り出すために使っていた言葉は、今、私自身の新しい人生の序曲(プレリュード)を奏でるための、始まりの合図に変わっていた。


私の静かで華麗なる離婚劇は、幕を閉じた。そして今、白石莉奈の第二幕が、静かに、しかし力強く始まろうとしていた。

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さよなら、愛したあなたへ。完璧な妻が仕掛ける、静かで華麗なる離婚劇 @jnkjnk

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