第3話:最後の晩餐とチェックメイト
金曜日の夜。リビングには、柔らかな間接照明が灯り、テーブルの上には磨き上げられたカトラリーと、クリスタルのワイングラスが美しい光を放っていた。ダイニングを彩るのは、私が週末にかけて入念に準備した料理の数々だ。
メインは、低温でじっくりと火を通した、艶やかなピンク色のローストビーフ。付け合わせには、トリュフが香るマッシュポテト。香り高いポルチーニ茸のクリームスープに、瑞々しい海の幸をふんだんに使ったシーフードマリネ。そして、食卓の中央には、翔太が一番好きなブルゴーニュ産の赤ワインが、デキャンタの中でゆっくりと呼吸をしていた。
「うわ、すげえ! 莉奈、今日何か特別な日だったか?」
仕事から帰宅し、シャワーを浴びてリラックスした格好でリビングに現れた翔太は、テーブルを見るなり子供のようにはしゃいだ。明日からの「大阪出張」を前に、最高の妻が用意した壮行会だとでも思ったのだろう。その無邪気な笑顔が、今はひどく滑稽に見えた。
「ううん、何でもない日よ。ただ、あなたが最近ずっと忙しそうだったから、たまにはゆっくり美味しいものを食べてほしくて。明日から出張で大変でしょう?」
私は完璧な妻の微笑みを浮かべて、彼のグラスに深紅のワインを注いだ。その所作は、我ながら優雅で、淀みがない。これから始まる断罪の儀式を前に、私の心は不思議なほど凪いでいた。
「ありがとう、莉奈。本当に、お前は最高の妻だよ」
またその言葉だ。彼は食事中、何度もそう繰り返した。私の作る料理を「美味い、美味い」と絶賛し、ワインを飲み干しては上機嫌に会社の自慢話をする。その一挙手一投足を、私は静かに観察していた。これが、私が愛した男の最後の姿。この穏やかな食卓も、この家で交わす最後の会話になる。
「大阪の仕事、首尾よくいくといいわね」
「ああ、任せとけって。この俺にかかれば、ちょろいもんさ」
彼はそう言って、自信満々に胸を叩いた。嘘で塗り固められた自信。そのメッキが剥がれ落ちる瞬間は、もうすぐそこまで来ている。
デザートに用意した濃厚なガトーショコラと、食後のコーヒーを出し終えた時、私は静かに切り出した。
「あなた。最後に、あなたへのプレゼントがあるの」
「え、プレゼント? なんだよ、急に」
きょとんとする翔太を前に、私は書斎から一つの重厚なファイルと、一枚の書類を持ってテーブルに戻った。そして、彼の目の前に、それを静かに置く。
「……なんだよ、これ。離婚届?」
翔太は、一番上に置かれた書類の文字を読み、怪訝そうな顔をした。最初は、私が冗談を言っているのだと思ったのだろう。彼の口元には、まだ笑みが浮かんでいた。
「なんでこんなもんが……。莉奈、何の冗談だよ。笑えないぜ」
「冗談じゃないわ。本気よ。ここに、署名と捺印をお願いします」
私の声は、温度というものが一切感じられないほど、平坦だった。その声色に、翔太は初めてただ事ではないと気づいたようだった。彼の顔から、すっと笑みが消える。
「……どういうことだよ。俺、何かしたか? 俺たち、上手くいってるじゃないか」
「上手くいってる? あなたがそう思っているだけでしょう。私との生活が、そんなにも退屈だった?」
「な、何を言って……」
狼狽する彼の言葉を遮り、私は目の前のファイルをゆっくりと開いた。
「では、説明してあげる。私が、なぜこうするのかを」
私はファイルの最初のページを彼の方に向けた。そこには、くしゃくしゃのレシートを撮影した写真が、鮮明にプリントアウトされていた。
「先月の火曜日。あなたは『会社に泊まる』と言ったわね。でも本当は、五つ星ホテルの最上階で、『永遠』という名前のディナーを召し上がっていた。私ではない、誰かと」
翔太の顔が、さっと青ざめた。彼は信じられないというように、写真と私の顔を交互に見る。
「な……なんで、それを……」
私は答えず、次のページをめくった。そこには、淡いピンク色のハンカ-チと、女性ものの香水の写真。
「あなたのスーツから香った匂い。あなたのポケットに入っていたハンカチ。あなたは『後輩に借りた』と言ったわね」
さらにページをめくる。そこには、彼の同僚である桜井亜美のSNSの投稿が、日付と共に時系列で並べられていた。夜景の写真、プレゼントされたネックレスの写真、そして「大好きな彼」への甘い言葉の数々。
「『桜井亜美』さん、というのね。あなたの会社の。とても可愛らしい方じゃない。あなたがあげたネックレス、とてもお似合いだわ。私が知らないところで、ずいぶんと羽を伸ばしていたのね」
私の淡々とした口調とは裏腹に、翔-太の呼吸はどんどん荒くなっていく。彼の額には、脂汗が滲んでいた。
「これは……違うんだ、莉奈! ちょっとした遊びで……」
「遊び?」
私は最後のページを、彼の目の前に叩きつけるように置いた。
「これも、『遊び』なのかしら?」
そこには、翔太と桜井亜美が腕を組み、キスを交わし、そして二人でラブホテルに入っていく姿が、複数のアングルから克明に撮影されていた。日付と時刻のタイムスタンプが、残酷なまでに真実を物語っている。
「ちが……あ……」
翔太は言葉を失い、ただ写真を見つめて喘ぐように息をしていた。血の気を失った彼の顔は、まるで死人のようだ。完璧な証拠の前に、彼の薄っぺらい言い訳はもはや何の役にも立たない。
「言い訳は、もう結構よ。明日からの『大阪出張』も、本当は彼女との温泉旅行なのでしょう? 探偵を雇わせてもらったの。あなたの行動は、全て記録させてもらったわ」
「た、探偵……?」
翔太は絶望に染まった顔で私を見上げた。その瞳には、恐怖と混乱が渦巻いている。今まで彼が見たことのない、冷徹な妻の姿に、彼は心底怯えていた。
「なぜ……なぜこんなことを……」
「なぜ? それは、こちらのセリフよ。なぜ、あなたは私を裏切ったの? 私が捧げてきたこの五年という月日を、踏みにじったの?」
初めて、私の声に感情が乗った。けれど、それは怒りや悲しみというより、心の底から湧き上がる軽蔑の色を帯びていた。
「莉奈、ごめん……本当に、ごめん! 悪かった! 魔が差したんだ! もう二度としない! だから、許してくれ!」
翔太は椅子から転げ落ちるように床に膝をつき、テーブル越しに私の手に縋ろうとした。私はその手を、冷たく振り払う。
「許す? あなたは、私がまだあなたを愛しているとでも思っているの? 残念ね。あなたへの愛情は、あなたが嘘をついて別の女とベッドに入った日に、全て消え失せたわ」
「そ、そんな……」
「今さら謝られても、何も響かない。あなたの言葉は、もう何一つ信用できない。だから、法的に、事務的に、この関係を終わらせましょう」
私は立ち上がり、ファイルの最後のページに挟んでおいた書類を取り出した。それは、橘さんが作成した、慰謝料と財産分与に関する合意書だった。
「慰謝料として、あなたには五百万円を請求します。これは、あなたの不貞行為の悪質性を鑑みた、法的に妥当な金額よ。そして、財産分与。私たちの共有財産であるこのマンションの所有権は、私が慰謝料の一部として受け取るわ。あなたの預貯金、株式、保険、その全てを私は把握しています。これも、法律に基づいて、きっちり二分の一をいただきます」
私が彼の資産状況を詳細に記載したリストを読み上げると、翔太は愕然とした表情で私を見上げた。
「なんで……俺の資産のことまで……」
「あなたは、私が誰だか忘れたのかしら。私は、ただ料理と掃除が上手なだけの、お飾りの妻じゃない。あなたの知らないところで、私は私の戦いの準備を、ずっと進めてきたのよ」
翔太はがっくりと肩を落とし、床にへたり込んだまま動けなくなった。彼の脳は、この絶望的な状況を処理しきれていないようだった。営業のエースとして君臨し、家庭では完璧な妻にかしずかれ、自分の人生は全て上手くいっていると信じて疑わなかった男の、惨めな末路。
「もし、この条件に同意できないというのなら、それでも構わないわ。その時は、この証拠一式を裁判所に提出するだけ。あなたの会社のコンプライアンス部門にも、情報提供させていただくかもしれない。そうなれば、あなたは社会的にも全てを失うことになる。どちらを選ぶかは、あなた次第よ」
それは、最終通告だった。彼の逃げ道は、もうどこにもない。チェックメイトだ。
しばらくの沈黙の後、翔太は震える声で呟いた。
「……分かった。全て、君の言う通りにする」
それは、完全な降伏宣言だった。私は離婚届と合意書を彼の前に滑らせる。
「では、ここにサインを」
彼は震える手でペンを取り、力なく自分の名前を書き記した。その姿を見ても、私の心は少しも動かなかった。ただ、長く続いた舞台の、最後の幕が下りたような、静かな達成感があるだけだった。
「ありがとう。これで、私たちの契約は全て終了よ」
「莉奈……俺は……」
何かを言おうとする彼の言葉を、私は冷ややかに遮った。
「あなたの荷物は、明日にでも業者に頼んであなたの実家に送っておくわ。この家の鍵は、今すぐここに置いていってちょうだい。もう、あなたはここの住人ではないのだから」
私の言葉に、翔太は最後の希望さえも断ち切られたように、力なく立ち上がった。そして、テーブルの上に、家の鍵を置く。カチャリ、という小さな金属音が、私たちの終わりを告げていた。
彼は一度だけ、私の方を振り返った。その目には、後悔と、懇願と、そして失ったものの大きさに初めて気づいた男の絶望が浮かんでいた。けれど、私はその視線を受け止めることなく、背を向けた。
玄関のドアが静かに閉まる。家の中に、完全な静寂が訪れた。一人になったリビングで、私は大きく、深く息を吐いた。長かった仮面夫婦の演技が、ようやく終わった。
テーブルの上には、豪華な料理がまだ手付かずで残っている。この日のために用意した、最後の晩餐。それは、彼のためではなく、過去の自分と決別するための、私自身の儀式だったのだ。
私は、翔太が手をつけていない方のワイングラスを手に取り、一人、静かに乾杯した。
「さようなら、愛したあなた。そして、こんにちは、新しい私」
窓の外には、煌めく都会の夜景が広がっていた。それはまるで、これから始まる私の新しい人生を、祝福してくれているかのようだった。
その頃、桜井亜美のもとには、弁護士である橘さんから送られた内容証明郵便が届いていたはずだ。既婚者と知りながら不貞行為に及んだことに対する、慰謝料請求の通知書が。彼女の甘い夢もまた、今夜、終わりを告げるのだ。
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