第2話:沈黙のゲームプラン
都心の一角に建つ、ガラス張りのモダンなオフィスビル。その一室に、『橘法律事務所』のプレートは掲げられていた。重厚な扉を開けると、かつての同僚、橘隼人が少し驚いた顔で私を迎えてくれた。
「白石さん……いや、莉奈。久しぶりだな。電話をもらった時は驚いたよ」
「ごめんなさい、橘さん。急に。お忙しいところ申し訳ないわ」
最後に会ったのは、私の結婚式だっただろうか。五年という月日は、彼を学生のような青年から、落ち着きと自信を湛えた一人の弁護士へと変えていた。けれど、理知的で、どこか悪戯っぽさを隠したような瞳は昔のままだ。
「いや、構わない。それより、君が専業主婦になったと聞いた時は、もっと驚いた。法務部始まって以来の逸材だって、部長が嘆いていたのを覚えてるよ」
「昔の話よ。今はただの主婦だもの」
自嘲気味に微笑むと、橘さんは私の目の奥をじっと見つめた。
「その『ただの主婦』が、僕に法律相談とは穏やかじゃないな。座って、ゆっくり話してくれ」
応接セットのソファに腰を下ろし、私はバッグからスマートフォンを取り出した。そして、彼に一枚の写真を見せる。あの日撮った、高級レストランのレシートの写真だ。
「夫のジャケットに入っていたものよ。この日、彼は会社に泊まると私に連絡してきたわ」
橘さんの表情が、友人としてのものから弁護士のそれへと瞬時に切り替わった。彼は黙って写真の細部を確認し、それから静かに口を開いた。
「なるほど。状況は理解した。莉奈、君はどうしたい? 感情的に問い詰めて謝罪させたいのか、それとも……」
「いいえ」
私は彼の言葉を遮り、きっぱりと告げた。
「私が望むのは、謝罪じゃない。感情的な復讐でもないわ。私が望むのは、法的な完全勝利。彼が犯した裏切りに見合うだけの、正当な代償を支払わせたいの」
私の声に揺らぎはなかった。かつて、企業の命運を左右する契約書を前に、一言一句の矛盾も見逃さなかった頃の自分が、身体の奥で目覚めていた。
橘さんは、ふっと息を吐き、少しだけ口角を上げた。まるで、懐かしいものを見るような目だった。
「……了解した。それなら、僕のやるべきことは明確だ。君の代理人として、完璧なゲームプランを提示しよう」
そこからの彼は、私が知る橘隼人そのものだった。冷静に、そして的確に、勝利への道筋を組み立てていく。
「まず、このレシートだけでは不貞行為の直接的な証拠としては弱い。二人で食事をした事実は証明できても、肉体関係があったとまでは断定できないからだ。重要なのは、継続的かつ悪質な不貞行為があったことを、第三者が見ても否定できない形で証明することだ」
彼はホワイトボードに、いくつかのキーワードを書き出した。
「必要な証拠は、大きく分けて三つ。一つ、二人がラブホテルやどちらかの自宅など、明らかに肉体関係があったと推認される場所に出入りする写真や動画。二つ、不貞行為の継続性を示すための、複数回にわたる密会の記録。三つ、相手女性の身元特定と、彼女が既婚者と知っていたという証拠。これにより、相手女性への慰謝料請求も可能になる」
聞いているだけで、目の前が暗くなりそうな内容だ。愛した夫と、見知らぬ女が密会する生々しい記録。それを、私はこれから自分の手で集めなければならない。胸の奥が冷たく痛んだが、顔には出さなかった。これは、私が選んだ戦いなのだから。
「証拠の集め方だが、いくつか方法がある。ご主人の車にGPS発信機を仕掛けて行動を追跡する。それから、信頼できる探偵を雇って、決定的な場面を押さえてもらうのが最も確実だ。費用はかかるが、慰謝料で十分回収できる見込みはある」
「ええ、それでお願いするわ。費用は、私の独身時代の貯蓄から支払います」
「分かった。探偵事務所は、僕の方で腕利きのところを手配しよう。あとは……ご主人のスマートフォンだが、見る機会はあるか?」
「……彼がお風呂に入っている時なら」
「リスクは高いが、もし可能なら、メッセージアプリのやり取りを写真に撮っておけると強い武器になる。だが、無理はするな。気づかれたら全てが水の泡だ」
橘さんの言葉に、私は静かに頷いた。それから、私はもう一つの懸念を口にした。
「離婚後の生活についても、準備を進めたいの。財産分与について、彼の資産を正確に把握する方法はあるかしら」
私の問いに、橘さんは満足そうに頷いた。
「いい質問だ。そこまで考えているなら安心だ。給与が振り込まれるメインバンクの通帳、株や投資信託の取引報告書、保険の契約書類。家に届く郵便物には注意を払ってくれ。コピーや写真で記録を残しておくだけで、後の交渉が格段に有利になる」
話は一時間以上に及んだ。緻密な計画、法的な戦略、そして勝利した後の未来。その全てが、目の前でクリアに描かれていく。打ち合わせを終える頃には、私の心にあった迷いは完全に消え去っていた。
事務所を出る間際、橘さんがふと私に言った。
「莉奈。君は、何も変わっていないな。その強さがあれば、大丈夫だ。何かあれば、昼夜問わずいつでも連絡してくれ」
その言葉が、凍てついた心に小さな火を灯してくれたような気がした。
その日から、私の二重生活が始まった。
昼間の私は、今までと何ら変わらない完璧な主婦・白石莉奈。翔太の前では、穏やかな笑顔を絶やさない貞淑な妻を演じ続けた。
「あなた、最近顔色が悪いわ。無理していない? はい、これ。滋養強壮のドリンクよ」
「おお、サンキュ。莉奈は本当に気が利くな。お前がいないと、俺はダメだよ」
そう言って私の頭を撫でる翔太の手を、振り払いたい衝動に駆られる。けれど私は、にっこりと微笑んで受け入れた。彼の油断こそが、私の最強の武器なのだから。
ある週末の朝、私は翔太に提案した。
「ねえ、あなた。今度のお休みに、車の中を徹底的に綺麗にしない? 私、ずっと気になっていたのよ」
翔太は「お、いいね。助かるよ」と二つ返事で了承した。そして、彼が趣味のゴルフの打ちっぱなしに出かけた隙に、私は計画を実行に移した。車内を丁寧に掃除しながら、運転席の下の目立たない場所に、橘さんから渡されたマッチ箱ほどの大きさのGPS発信機を強力な磁石で固定する。心臓が早鐘のように鳴り、指先が冷たくなるのを感じた。けれど、私の手は震えなかった。
そして夜、リビングのソファで寛ぐ翔太に、私は何気ない口調で話しかける。
「そういえば、あなたの部署に新しく入った後輩の方、元気かしら? この間、ハンカチを貸してくださった……」
テレビを見ていた翔太の肩が、微かに強張った。
「ああ……桜井さんのことか? 元気にしてるよ」
「桜井さん、というのね。可愛らしいお名前。今度、何かお礼をさせてほしいのだけれど」
私の言葉に、翔太はわざとらしく笑ってみせた。
「いいって、そんなの! 向こうも気にするから。それより莉奈、来週の金曜、また飲み会で遅くなると思う。大きな契約が決まりそうでな」
桜井亜美。名前が分かった。それだけで十分な収穫だ。私はすぐにスマートフォンのメモにその名前を記録した。
夜、翔太が眠りに落ちたのを確認すると、私は書斎のパソコンを開いた。GPSの追跡サイトにアクセスすると、赤い点が彼の車の現在地を示している。そして、会社のSNSから「白石翔太」を検索し、彼の同僚リストを辿っていく。すぐに、『桜井亜美』という名前のアカウントを見つけ出すことができた。
プロフィール写真は、あざとい上目遣いの若い女性。タイムラインには、いかにも「匂わせ」といった投稿が並んでいた。
『素敵な夜景が見えるレストランに連れてきてもらった♡ 永遠の愛、だって♡』
その投稿に添えられていたのは、私がレシートで見たレストランで撮られたであろう夜景の写真だった。ご丁寧に、男性ものの腕時計が少しだけ写り込んでいる。それは、私が翔太の誕生日にプレゼントした、見慣れた時計だった。
『大好きな彼からサプライズプレゼント♡ いつもありがとう』
そこには、翔太が「会社のコンペの景品で当たった」と言って私をごまかした、有名ブランドのネックレスが写っていた。
怒りで頭が沸騰しそうになるのを、深く、深く息をして鎮める。感情的になるな、白石莉奈。これはゲームだ。相手の愚かさは、こちらの有利なカードになるだけ。私は冷静に、全ての投稿をスクリーンショットで保存し、日付ごとにフォルダ分けして保存した。
翌日、橘さんから紹介された探偵事務所の担当者と、ホテルのラウンジで密会した。初老の、温厚そうな見た目の男性だったが、その目は鋭く、仕事への自信を窺わせた。私は彼に、翔太の写真と桜井亜美のSNSアカウント情報、そしてこれまでに集めた情報を全て渡した。
「承知いたしました、奥様。平日の夜と、ご主人が『出張』や『飲み会』とおっしゃる日を中心に、行動調査を開始します。結果は、随時ご報告いたします」
全ての手配は終わった。あとは、網にかかる獲物を待つだけだ。
それからの日々は、まるでスパイ映画のようだった。私は翔太の前で完璧な妻を演じながら、水面下で着々と離婚後の準備を進めた。橘さんのアドバイス通り、家に届く翔太宛の証券会社や保険会社からの郵便物は、開封前にこっそりスチームを当てて封を開け、中身を撮影してから元に戻した。翔太が予想以上の株式や投資信託を保有していることを知り、私は静かに唇の端を吊り上げた。これも、きっちり半分、私のものになるのだ。
同時に、私は自分の未来のためにも動き始めていた。かつての上司や同僚に連絡を取り、「また法務の仕事に復帰したいと考えている」と近況を伝えた。ブランクを心配する声もあったが、「君なら大丈夫だ」と励ましてくれる人もいた。空いた時間を見つけては、最新の法律雑誌を読み漁り、判例を調べ、鈍った頭脳を必死に動かした。それは、苦痛であると同時に、不思議な高揚感を私にもたらした。夫の影ではなく、「白石莉奈」という一人の人間として、自分の足で再び大地に立とうとしている。その実感が、私を強くしてくれた。
そして、計画開始から三週間後の夜。私のスマートフォンが静かに震えた。探偵からのメールだった。添付ファイルを開くと、そこには私の望んだ、そして見たくなかった光景が広がっていた。
翔太と桜井亜美が、腕を組んでレストラン街を歩く姿。楽しそうに笑い合い、人目も憚らずキスを交わす姿。そして、最後に添えられていたのは、二人が新宿のラブホテル街にあるホテルへと入っていく、決定的な写真だった。日付と時刻のタイムスタンプが、言い逃れの余地を完全 に奪っている。
私は写真を一枚一枚、指でなぞるようにスクロールした。悲しみは、もう感じなかった。ただ、パズルの最後のピースが、ぴたりとハマったような、冷たい満足感があるだけだった。
全ての証拠は、揃った。
ちょうどその時、リビングのドアが開き、翔太が帰ってきた。
「ただいまー。悪い、今日は長引いた」
「おかえりなさい、あなた。お疲れ様」
私はスマートフォンを伏せ、いつもの笑顔で彼を迎える。
「そうそう、莉奈。悪いんだけど、今週末、急な出張が入った。土日で、大阪まで行かなきゃならなくて」
来た。私は心の中で呟いた。GPSは、彼の車が今夜、桜井亜美の住むアパートの近くに停車していたことを示している。そして探偵からの追加報告によれば、二人は週末の温泉旅行の計画を立てていた。大阪出張など、真っ赤な嘘だ。
私は立ち上がり、彼のネクタイを優しく緩めながら、最高の笑顔を作って見せた。
「そうなの? 大変ね。最近、本当に忙しいものね。分かったわ。お土産は気にしなくていいから、気をつけて行ってきてね」
「ああ、ありがとう。やっぱりお前は、最高の妻だよ」
翔太は心底安心したようにそう言って、私を軽く抱きしめた。彼の身体から、あの甘い香水の匂いが微かに香る。
最高の妻。その言葉が、私の心に最後の引き金を引いた。
ええ、そうよ。私は、最高の妻だもの。だから、あなたに最高のフィナーレを用意してあげる。あなたの人生で、決して忘れられない、最後の晩餐を。
私は彼を送り出した後、一人キッチンに立ち、週末のメニューを考え始めていた。彼の好きな、ローストビーフ。彼の好きな、ポルチーニ茸のクリームスープ。彼の好きな、ブルゴーニュの赤ワイン。
チェックメイトまで、あと三日。静かで華麗なる離婚劇の、幕が上がろうとしていた。
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