さよなら、愛したあなたへ。完璧な妻が仕掛ける、静かで華麗なる離婚劇
@jnkjnk
第1話:完璧な日常のひび割れ
午前七時。磨き上げられたリビングの窓から、柔らかな朝の光が差し込む。私が設定した時間に自動で開くカーテンは、今日も寸分の狂いもなく、新しい一日の始まりを告げていた。
キッチンには、焼きたてのパンの香ばしい匂いと、丁寧にドリップしたコーヒーの豊かなアロマが満ちている。テーブルの上には、彩り豊かな季節野菜のサラダ、ふわふわのスクランブルエッグ、そしてカリカリに焼いたベーコンが完璧な配置で並んでいた。夫である白石翔太が家を出る七時半から逆算し、すべてが最高の状態で彼の口に入るように計算された朝食だ。
「莉奈、おはよう。今日も美味そうだな」
寝癖をつけたままリビングに入ってきた翔太は、目を細めてテーブルの上を眺めた。彼の好きなものばかりを揃えた、私なりの愛情表現だ。
「おはよう、あなた。顔を洗ってきたら? コーヒー、淹れたてよ」
「ああ、そうする。いつもありがとうな」
感謝の言葉はくれる。けれど、その声にはどこか、当たり前のものを享受するだけの軽さが滲んでいた。結婚して五年。大手企業の法務部でキャリアを築いていた私は、彼の「家庭に入って俺を支えてほしい」という言葉を受け入れ、専業主婦になった。後悔はしていない。愛する人のために尽くすこと、彼が外で戦うための安らぎの場所を作ること。それが、私が選んだ新しい役割なのだと自分に言い聞かせてきた。
「今日のネクタイ、これでいいかな?」
「ええ、素敵よ。あなたの好きなブルー系で揃えておいたわ」
クローゼットの一角は、彼のスーツとシャツ、ネクタイがブランドと色ごとに完璧に分類されている。朝、彼が悩む時間を一秒でも減らすための工夫だ。アイロンがけされたシャツはしわ一つなく、彼の背中をパリッと見せてくれる。私は彼の妻であり、秘書であり、マネージャーでもあった。この完璧な城を維持することが、私のプライドだった。
「じゃあ、行ってくる」
「はい、行ってらっしゃい。お仕事、頑張ってね」
玄関で彼を送り出す。軽く交わされるキスは、いつからかすっかり儀式的なものになっていた。ドアが閉まる音を聞きながら、私は深く息を吐く。ここからが、私の本当の仕事の時間だ。掃除、洗濯、買い物、夕食の仕込み。すべてに無駄なく、効率的に。完璧な主婦、白石莉奈の一日が始まる。
その完璧な日常に、最初のひびが入ったのは、ほんの些細なことだった。
いつからだろう。翔太がスマートフォンをテーブルに置くとき、必ず画面を伏せるようになったのは。以前は無造作に放り出していたはずなのに。そして、バスルームにまで持ち込むようになった。防水でもないのに、と不思議に思ったが、「仕事の連絡がいつ入るか分からないから」という彼の言葉を、その時は信じた。
「会社の飲み会」の頻度も、目に見えて増えていた。週に二度、三度と続き、帰宅はいつも日付が変わってから。
「また飲み会? あなたの部署、最近大変なのね」
「ああ、大きなプロジェクトが動いててさ。接待も多くてかなわんよ」
疲れた顔でそう言う彼に、私はそれ以上何も言えなかった。営業のエースとして働く彼には、ストレスも多いのだろう。私ができるのは、温かいお風呂と、胃に優しい夜食を用意して待つことだけだ。
けれど、違和感は日に日に募っていく。ある夜、酔って帰ってきた彼のスーツから、ふわりと甘い香りがした。彼の愛用しているシトラス系のコロンではない。もっとパウダリーで、フローラルな、明らかに女性ものの香水の香り。
胸がちくりと痛んだ。まさか、と打ち消す。翔太に限って、そんなことはない。私たちは愛し合って結婚したのだから。飲み屋の女性の香りが移っただけかもしれない。そう自分に言い聞かせ、私は彼のスーツをハンガーにかけながら、心の中の小さなさざ波を無理やり静めた。
決定的な疑念を抱いたのは、洗濯物を仕分けていた時だった。彼のワイシャツや靴下の中に、見慣れない一枚のハンカチが紛れ込んでいたのだ。淡いピンク色で、角には小さな花の刺繍が施されている。私が彼に持たせるのは、決まって無地のネイビーかグレーの、アイロンがけしやすいシンプルなものだ。こんなガーリーなハンカチは、家のどこにも存在しない。
夕食の時、私は何気ないふりを装ってそれをテーブルに置いた。
「あなた、これ。洗濯物に入っていたけど」
ハンカチに目を落とした翔太の表情が、ほんの一瞬、凍りついたのを私は見逃さなかった。
「ああ、これか。会社の……後輩に借りたんだ。コーヒーをこぼしちまって」
「後輩? 女性の方?」
「うん。まあな。返しとくよ」
彼はそう言って、ひったくるようにハンカ-チを手に取り、自分のポケットにしまい込んだ。その一連の動作があまりに不自然で、私の心臓は嫌な音を立てた。嘘だ。彼の目は、明らかに泳いでいた。
追求はしなかった。ここで騒ぎ立てるのは、私の美学に反する。完璧な妻は、夫の些細な過ちを感情的に責め立てたりはしない。私はただ、いつもと同じように微笑んだ。
「そう。良かったら、今度お礼に何かお渡ししましょうか。ハンカチのお返しに、お菓子とか」
「い、いや、いいよそんなの! 気を使わなくていいって」
彼の慌てた声が、私の疑いをさらに深いものへと変えていく。その夜、私は翔太が眠りについた後、一人でリビングのソファに座っていた。静まり返った部屋で、壁の時計の秒針だけがやけに大きく聞こえる。
彼の言葉、彼の態度、彼の視線。一つ一つを反芻する。かつて法務部にいた頃の癖で、頭の中で事実を整理し、客観的に分析しようと試みていた。
状況証拠1:スマートフォンの扱いが変化。プライバシーを過剰に守る素振り。
状況証拠2:帰宅時間の遅延。理由とされる「飲み会」の頻度の異常な増加。
状況-拠3:付着していた女性ものの香水の香り。
状況証拠4:見知らぬ女性もののハンカチと、それに対する不自然な弁明。
これだけ揃えば、黒に近い灰色だ。悲しかった。悔しかった。私の捧げてきた日々は、彼にとって一体何だったのだろう。完璧な家庭を築くために費やしてきた私の努力は、彼を安心させ、外で過ちを犯すための土台にしかならなかったというのだろうか。
込み上げてくる熱い感情を、冷たい理性で押し殺す。まだだ。まだ、決定的な証拠はない。憶測だけで動けば、ただの嫉妬深い妻で終わってしまう。もし、本当に彼が私を裏切っているのなら……私は、決して感情的に彼を詰るような真似はしない。もっと静かに、もっと効果的に、そして、もっと致命的に。彼が犯した過ちの代償を、きっちりと支払ってもらう。
心の奥底で、かつて仕事に生きていた頃の、冷徹な自分が目を覚ますのを感じていた。
そして、運命の日は、数日後にやってきた。
季節の変わり目だ。翔太のスーツを冬物から春物に入れ替えるため、クローゼットの奥から一式を取り出す。クリーニングに出す前に、ポケットの中身を確認するのはいつもの習慣だった。ハンカチ、名刺入れ、ボールペン。そして、ジャケットの内ポケットの奥に、指先が硬い紙の感触を捉えた。
そっと引き出すと、それはくしゃくしゃに丸められた一枚のレシートだった。何気なくそれを広げた私の目は、そこに印字された文字列に釘付けになった。
『L'étoile Bleue TOKYO』
それは、都心の一等地に立つ五つ星ホテルの最上階にある、スカイラウンジの名前だった。予約が取れないことで有名な、夜景の美しいレストラン。私も結婚前に一度だけ、会社の同僚と訪れたことがある。
心臓が、ドクンと大きく脈打った。視線を下にずらすと、日付が印字されている。先週の火曜日。翔太が「急なトラブル対応で、会社に泊まりになるかもしれない」と連絡してきた日だ。
レシートには、『ディナーコース “Éternité” × 2』、そして『シャンパーニュ・ボランジェ ボトル』の文字がはっきりと記載されていた。“Éternité”――永遠。二人分の、永遠という名のコース料理。私ではない、誰かと。
全身の血が、急速に冷えていくのを感じた。指先が震え、呼吸が浅くなる。悲しみという生ぬるい感情は、一瞬で蒸発して消えていた。そこにあったのは、裏切られたことに対する、氷のように冷たい怒りだけ。
結婚記念日でも、私の誕生日でもない。何でもない平日に、彼は私に嘘をつき、別の女と高級レストランで「永遠」を語らっていたのだ。あのハンカチの持ち主だろうか。あの香水の女だろうか。彼の口から語られる「愛してる」は、一体どちらに向けられたものだったのだろう。
私はしばらくその場に立ち尽くしていた。涙は、一滴も出なかった。代わりに、頭の中は驚くほどクリアになっていく。
そうだ。これが、証拠だ。
彼が私を裏切った、動かぬ証拠。
かつて、法廷で幾度となく相手方の矛盾を突き、証拠を積み上げて勝利を掴んできた。あの頃の感覚が、鈍った身体の芯から蘇ってくるようだった。感情は、交渉の邪魔になるだけだ。必要なのは、冷静な分析と、周到な準備、そして相手の息の根を止めるための、完璧なシナリオ。
私は静かにスマートフォンを取り出し、レシートの写真を撮った。日付、店名、内容、金額。すべてがはっきりと写るように、角度を変えて何枚も。そして、くしゃくしゃになったレシートを、まるで何事もなかったかのように元の通りに丸め直し、ジャケットの内ポケットの奥深くへと戻した。
リビングに戻り、何食わぬ顔で掃除の続きを始める。掃除機の音が、私の心の雑音をかき消してくれるようだった。
さようなら、完璧な妻だった私。
こんにちは、あなたの敵になる私。
私は掃除機を止め、窓の外に広がる青空を見上げた。空はどこまでも青く、世界は何も変わらないように見えた。けれど、私の世界は、今この瞬間、確かに終わったのだ。そして、新しい物語を始めなければならない。
翔太が築き上げた偽りの平和。彼が当然のように享受してきた私の献身。その全てに、私がきっちりと値段をつけて、請求書を叩きつけてやる。
スマートフォンを手に取り、連絡先リストを開く。そして、数年間ほとんど開くことのなかった、ある名前をタップした。かつての同僚で、今は独立して弁護士をしている、最も信頼できる男の名前を。
プルルル、というコール音が、静かな宣戦布告のファンファーレのように、私の耳に響いていた。
「もしもし、橘さん? 白石莉奈です。……ええ、ご無沙汰しています。少し、法律相談に乗っていただきたいことがあって」
私の声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。もう、このゲームの主導権は、私が握ったのだから。
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