第2話:綻びと静かな決意

あの屈辱的な食事会から一ヶ月。私の心についた傷は癒えるどころか、日ごとに鈍い痛みを増していた。夫である大輝との間には、目には見えない、しかし確かな亀裂が生まれていた。会話は減り、彼が私に向ける視線には、以前のような温もりはもう感じられない。まるで、壊れかけた器のひびに気づきながらも、見て見ぬふりを続けるような、そんな危うい平穏が私たちの日常を支配していた。


そんなある週末の昼下がり、けたたましいインターホンの音で偽りの静寂は破られた。モニターに映っていたのは、満面の笑みを浮かべた義母・美代子の姿だった。アポイントもなしに突然訪れるのは、いつものことだ。


「紗良さん、いるんでしょう? 開けてちょうだい」


マイク越しに響く甲高い声に、私は重い溜息を一つついてから玄関の鍵を開けた。


「こんにちは、お義母様。どうかなさいましたか?」

「まあ、こんにちは。ちょっと近くまで来たものだから、寄らせてもらったのよ。あなたに、これを渡しておこうと思って」


そう言って美代子がずいと突き出してきたのは、見るからに高級そうな百貨店の大きな紙袋だった。その中から彼女が取り出したのは、一枚のドレスを収めたガーメントバッグ。嫌な予感が、背筋をぞくりと撫でた。


「これは…?」

「来週、大輝の従兄弟の結婚式があるでしょう? あなたが着ていくドレスよ。橘家の嫁として、みっともない格好をされては困るから、私が特別に選んであげたの。感謝なさい」


有無を言わせぬ口調で、美代子はバッグを私に押し付けた。リビングへ上がり込むと、彼女はさっそくバッグからドレスを取り出し、ソファの背もたれに広げてみせる。


その瞬間、私は言葉を失った。目に飛び込んできたのは、毒々しいまでの光沢を放つ、ショッキングピンクのサテンドレスだった。胸元には不必要に大きなフリルが幾重にも重なり、ウエストには金色の安っぽいバックルがついた太いベルト。スカートの裾はアシンメトリーになっていて、そこにもまたフリルがあしらわれている。悪趣味、という言葉をそのまま形にしたようなデザインだった。


「どう? 素敵でしょう? 最新の流行を取り入れたデザインですって。あなた、こういう華やかな服は持っていないでしょうから」


美代子はうっとりとドレスを眺めている。私の呆然とした表情を、きっと感動しているのだと勘違いしているのだろう。


「お義母様、ですが、これは少し…派手すぎるような…。親族の席ですし、もう少し落ち着いた色のほうが…」

「何を言っているの。お祝いの席なのよ? 地味な格好で行くほうが失礼だわ。それに、これは私があなたのために、わざわざデパートを歩き回って見つけてきたものなのよ? 私の顔に泥を塗る気?」


美代子の目がすっと細くなる。いつもの脅し文句だ。ここで反論すれば、また面倒なことになる。私が口ごもっていると、タイミング悪く、書斎から大輝が出てきた。


「母さん、来てたのか。……なんだ、そのドレス?」

「あら、大輝。ちょうどよかったわ。来週の結婚式で紗良さんに着てもらうドレスよ。私が選んだの。似合うと思わない?」

「ああ…まあ、派手だけど、母さんが選んだならいいんじゃないか」


大輝はドレスを一瞥しただけで、興味なさそうにそう言った。彼のその無関心さが、私をさらに追い詰める。


「でも、あなた…」

「紗良」


私がなおも何か言おうとすると、大輝は私を制し、小さな声で耳打ちした。


「母さんの厚意なんだから、ありがたく受け取っておけよ。角が立つだろ」


厚意。これが、厚意だというのか。自分の趣味を押し付け、相手の気持ちを一切考えない、自己満足の塊。それを、私の夫は「厚意」と呼ぶのか。私は、きつく唇を噛みしめた。すべての言葉を飲み込み、無理やり笑顔を作る。


「…ありがとうございます、お義母様。大切に着させていただきます」

「そう、分かればいいのよ」


満足そうに頷く美代子。彼女はしばらく息子の近況などを根掘り葉掘り聞いた後、「じゃあ、当日はその素敵なドレスで、橘家の嫁として恥ずかしくないように振る舞うのよ」と言い残して帰っていった。


一人になったリビングで、私はソファに広げられたショッキングピンクの塊を前に立ち尽くす。それはまるで、これから私が味わうことになるであろう屈辱そのものを象徴しているかのようだった。


そして、運命の結婚披露宴当日。


私はあの悪趣味なドレスに身を包み、ホテルの大きな鏡の前に立っていた。自分で見てさえ、その姿は滑稽で惨めだった。肌の色にも合わないけばけばしいピンクが、私の顔色を不健康に見せている。大輝はそんな私を見て、「まあ、似合ってなくもないんじゃないか」と気のない感想を述べただけだった。


会場であるホテルのバンケットルームは、シャンデリアが煌めき、美しい花々で飾られた、夢のように華やかな空間だった。しかし、その輝きは、私の心をより一層惨めにさせるだけだった。親族席に案内されると、案の定、叔母たちが私の姿を見てぎょっとした表情を浮かべるのが分かった。


「まあ、紗良さん、ずいぶん華やかなのね…」

「ええ…お義母様が、選んでくださったんです」


私がそう答えると、叔母たちは「ああ…」と納得したような、同情したような、複雑な表情を浮かべて口をつぐんだ。隣に座った美代子は、そんな周囲の反応もどこ吹く風で、得意満面だった。


「どう? やっぱり紗良さんには、これくらい華やかなのが似合うわ。私が選んだだけのことはあるでしょう?」


彼女の自己満足に満ちた声が、私の耳にはただの騒音として響いた。新郎新婦が入場し、主賓の挨拶、乾杯と、式は滞りなく進んでいく。私は、ただひたすらに気配を消し、この時間が早く過ぎ去ることだけを願っていた。


歓談の時間になり、出席者たちが席を立って移動し始めた頃だった。ふと、数名の男性に囲まれた、いかにも重役といった雰囲気の初老の紳士と目が合った。その紳士は、私の顔を見るなり、少し驚いたように目を見開き、周りの人々に一言二言断ってから、まっすぐにこちらへ向かってきた。


まずい、と思った。こんな格好をしている時に、知り合いに会うなんて。しかし、紳士はもう私たちのテーブルのすぐそばまで来ていた。


「失礼、あなたは…もしや、ミナセホールディングスの水瀬会長のお孫様…紗良お嬢様ではございませんか?」


その言葉に、テーブルの空気が一瞬で凍りついた。特に、私の隣に座っていた美代子と、向かいにいた大輝の表情が固まるのが分かった。


紳士は、驚く私に構わず、深々と頭を下げた。


「これはこれは、ご無沙汰しております。私、東都銀行の常務を務めております、高坂と申します。会長には、いつも大変お世話になっております」

「……高坂、様。ご無沙汰しております」


私は咄嗟に立ち上がり、体に染み付いた作法で、丁寧にお辞儀を返した。祖父の会社と付き合いの深いメインバンクの重役だ。祖父に連れられて参加したパーティーで、何度かお会いしたことがある。


「まさか、このような場所でお会いできるとは。ご結婚なさったのですね。誠におめでとうございます。会長も、さぞお喜びのことでしょう」


高坂常務の態度は、終始、丁寧で敬意に満ちていた。その様子を、大輝と美代子は信じられないといった目で凝視している。


「あの…あなた、どちらの『ミナセ』の…?」


美代子が、探るような声で高坂常務に問いかけた。


「はあ。ミナセと申しますと、総合商社のミナセホールディングスですが…。会長は、水瀬宗一郎様でいらっしゃいます」


高坂常務は当然のようにそう答えた。ミナセホールディングス。その名前は、経済に疎い美代子でさえ、ニュースで何度も耳にしたことがあるだろう。日本を代表する巨大企業グループだ。


「さ、紗良、どういうことだ…? 水瀬って…」


大輝が、戸惑いを隠せない声で私に尋ねる。彼の動揺が手に取るように分かった。


私は、ただ曖昧に微笑むことしかできなかった。「少し、祖父がお世話になっておりまして」とだけ答えると、高坂常務は「いえいえ、こちらがお世話になっております。では、私はこれで。また会長にもよろしくお伝えください」と再び丁重に一礼し、去っていった。


嵐が去った後のような静寂が、私たちのテーブルを包む。美代子と大輝の突き刺すような視線が、痛いほど私に集中していた。


「……何なの、今のは。どういうことか、後でちゃんと説明してもらうわよ」


美代子は、押し殺したような声でそう呟いた。その声には、いつものような勝ち誇った響きはなく、代わりに焦りと混乱の色が濃く滲んでいた。


披露宴の残りの時間は、まるで針の筵だった。せっかくの料理も全く喉を通らず、私はただ、時間が過ぎるのを耐え忍んだ。


そして、悪夢のような時間が終わり、帰路につく車の中。エンジンがかかるや否や、堰を切ったように美代子が私を詰問し始めた。


「さあ、説明なさい、紗良さん! さっきの男は誰なの!? ミナセホールディングスだなんて、一体どういうことなの!」

「お義母様、ですから…」

「まさか、見栄を張るために、あの人の勘違いを利用したんじゃないでしょうね! そんなみっともないこと、橘家の嫁として絶対に許さないわよ!」


ヒステリックな金切り声が、狭い車内に響き渡る。私のささやかな反論など、まるで聞こえていないようだった。そして、追い討ちをかけるように、ハンドルを握る大輝が冷たく言った。


「紗良、母さんの言う通りだ。どういうことか説明しろ。ああいう場で、みっともない真似はするなよ。俺の顔に泥を塗る気か?」


俺の顔に泥を塗る。その言葉が、私の心を深く切り裂いた。彼は、私の気持ちではなく、自分の世間体しか気にしていない。あの食事会の夜から抱き続けていた疑念が、確信に変わっていく。


自宅マンションの駐車場に着いても、二人の詰問は終わらなかった。エレベーターの中でも、玄関を開けて家に入るまで、ずっとだ。


「いい加減にしろよ、お前!」


リビングに入るなり、大輝が苛立ちを隠しもせずに怒鳴った。


「黙ってないで、何か言ったらどうなんだ! お前みたいな平凡な家庭で育った女が、大企業の重役と知り合いなわけないだろう! あの人が勝手に人違いしただけなんだろ!? いい加減、身の程をわきまえろよ!」


身の程を、わきまえろ。


その言葉は、まるで冷たい刃のように、私の心臓を貫いた。今まで耐えてきた、すべての我慢の糸が、ぷつん、と音を立てて切れた。涙さえ、もう出なかった。ただ、目の前にいる夫の顔が、ひどく遠い存在に見えた。


「……そう、ですね」


私は、自分でも驚くほど静かな声で答えた。


「あなたの、おっしゃる通りかもしれません」


それだけ言うと、私は寝室にまっすぐ向かい、内側から鍵をかけた。ドアの向こうで大輝が何か叫んでいるのが聞こえたが、もう私の耳には届かなかった。


部屋の明かりもつけず、ベッドの端に腰掛ける。窓の外には、都会の夜景が広がっていた。数え切れないほどの光が瞬いているのに、私の心は深い闇の中に沈んでいた。


もう、無理だ。この人たちのために、自分を偽り、心を殺して生きるのは。


私は静かに立ち上がると、ドレッサーの引き出しからスマートフォンを取り出した。そして、アドレス帳の奥深くに登録してある、一つの名前を呼び出す。コール音が数回鳴った後、電話の向こうから、穏やかで、しかし威厳のある声が聞こえてきた。


『…紗良か。どうした、こんな時間に』

「おじい様……」


久しぶりに聞く祖父の声に、堪えていた感情が少しだけ揺らぐ。しかし、私はぐっと涙をこらえ、はっきりとした声で言った。


「私、紗良です。……おじい様、私、もう疲れました」

『……何があった』

「いいえ、大丈夫です。大したことでは。ただ……少しだけ、おじい様のお力を、貸していただけますか?」


私の声に、普段の私にはない強い意志が宿っているのを、電話の向こうの祖父は敏感に感じ取ったのだろう。彼は多くを問わず、ただ静かに、そして力強く言った。


『分かった。いつでも、お前の望むように動こう』


その言葉だけで、十分だった。


「ありがとうございます、おじい様」


電話を切り、スマートフォンを置く。私はゆっくりと窓辺に歩み寄り、きらめく夜景を見下ろした。ついさっきまで絶望に染まっていた心が、今は不思議なほど静かに凪いでいる。


悲しみの涙は、もうとうに枯れ果てた。私の瞳に今宿っているのは、冷たく、そしてどこまでも澄み切った決意の光だった。


橘家の皆様。あなたたちが望んだ「格」というものを、今度はこちらが見せてあげる番ですわ。


上品な微笑みの仮面の下で、私は静かに、復讐の幕開けを誓った。

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