「うちの家には釣り合わない嫁」と見下す義母へ。~実は私、日本を代表する大企業の創業家令嬢でした~
@jnkjnk
第1話:偽りの平穏と屈辱
柔らかな春の日差しが、レースのカーテン越しにリビングへと差し込んでいる。壁に掛けられた時計の針は、午後四時を指していた。今日の夕方から行われる橘家の親族食事会に向けて、私は最後の準備を整えていた。
「紗良、準備できたか? そろそろ出ないと間に合わないぞ」
リビングのドアを開けて顔を覗かせたのは、夫の橘大輝。ダークスーツをそつなく着こなし、ネクタイを締めながら私に声をかける。その姿は、大学時代に出会った頃の誠実な面影を残していて、私の胸を微かにときめかせた。
「ええ、もう大丈夫よ。あなたこそ、ネクタイ曲がってる」
私は彼のそばに駆け寄り、少し歪んだネクタイにそっと指を伸ばす。ふわりと香る、彼がいつも使っているオーデコロン。この香りに包まれると、不思議と心が安らいだ。
「ありがとう。……なあ、紗良」
「なあに?」
「今日の食事会だけどさ。母さん、また色々言ってくるかもしれないけど、あんまり気にするなよ。いつものことだから、適当に流しておいてくれ」
大輝は少しバツが悪そうにそう言った。その言葉は私を気遣っているようで、その実、これから起こるであろう面倒事から目を背けているだけの、無責任な響きを伴っていた。いつものこと。その「いつものこと」に、私がどれだけ心をすり減らしているか、彼は本当には分かっていない。
「分かってるわ。大丈夫よ」
私は努めて穏やかに微笑んだ。彼を困らせたくない。彼のお母様……義母である美代子さんとうまくやっていくことは、妻である私の務めなのだから。そう自分に言い聞かせる。
テーブルの上には、今日の食事会に持参する手土産が置いてある。有名な老舗和菓子店の季節限定の羊羹。上品な甘さと美しい見た目は、目上の方への贈り物として間違いない逸品だ。本当は、私の祖父が懇意にしている非売りの菓子折りを持って行こうかとも考えた。けれど、そんなことをすれば、また義母の機嫌を損ねるだけだろう。
『あら紗良さん、また見栄を張って。あなたのご実家の収入で、こんな立派なもの、無理してるんじゃないの?』
耳元で、義母の声が幻聴のように蘇る。だから私は、誰もが知る百貨店で購入したことが一目でわかる、当たり障りのない品を選んだ。そして、その百貨店の華やかな包装紙をわざわざ剥がし、自分で用意した地味な風呂敷に包み直す。これも、義母のプライドを無駄に刺激しないための、私なりの処世術だった。
「じゃあ、行こうか」
大輝に促され、私は「はい」と返事をして立ち上がる。鏡に映った自分の姿を確認した。光沢を抑えたネイビーのワンピースに、小ぶりなパールのネックレス。これも、決して華美にならず、しかし貧相にも見えないようにと、細心の注意を払って選んだものだ。私のクローゼットには、本当はもっと心ときめくデザインの服がたくさん眠っているけれど、それらが橘家の嫁として人前に出る際に袖を通されることは、決してない。
「橘家に嫁ぐということは、そういうことよ」
結婚の挨拶に伺った日、義母は私にそう言った。夫が経営する町工場が「城」であり、自分はその「城の女主人」であると信じて疑わない人。その小さな城を守るためには、嫁は常に控えめで、出しゃばらず、それでいて家の格を落とさぬよう、細心の注意を払わなければならないのだと。
その言葉を、私は愚直なまでに守ってきた。彼を愛していたから。彼との穏やかな生活を守りたかったから。玄関のドアを開けると、生ぬるい春の風が頬を撫でた。これから向かう戦場を思うと、私の心は重く沈んでいく。それでも、私は夫の隣で、淑やかな妻の仮面を貼り付けて微笑んだ。
橘家の実家は、私たちが住むマンションから車で三十分ほどの距離にある、少し古風な一軒家だった。立派な門構えと手入れされた庭は、義母・美代子の自慢の一つだ。インターホンを押すと、すぐに中からバタバタとスリッパの音が聞こえてきた。
「はいはーい! あら、大輝に紗良さん。いらっしゃい」
玄関を開けたのは、きっちりと和服を着こなした美代子だった。その視線はまず息子の顔を捉えて満足そうに細められ、次に品定めをするように、私の頭のてっぺんから爪先までをゆっくりと훑った。
「……まあ、紗良さん。そのワンピース、ずいぶんと地味ですこと。親戚一同が集まるのよ? もう少し華やかなものを選べなかったのかしら。まるで、お通夜にでも行くみたい」
始まった。今日も、玄関の上がり框を跨ぐ前から、ジャブは繰り出される。
「申し訳ありません、お義母様。派手になりすぎてもご迷惑かと思いまして」
「あら、迷惑だなんて誰も言っていないわ。要はセンスの問題よ、センス。まあ、あなたにそれを求めるのが酷なのかもしれないけれど」
美代子はため息混じりにそう言うと、大輝に向かって「さあ、大輝は早く上がって。お義父様も待ってるわよ」と甘い声を出す。大輝は「母さん、そのくらいで…」と口ごもるだけで、私を庇う言葉は出てこない。彼は母親に逆らうのが面倒なのだ。その諦めが、私をさらに孤独にさせる。
「さ、紗良さんも突っ立ってないで。荷物、重たいでしょう。……あら、これ、今日の手土産? まあ、ずいぶんと地味な風呂敷ね。中身は何かしら」
私が差し出した風呂敷包みを、美代子はひったくるように受け取った。中身を確認すると、また一つ、わざとらしい大きなため息をつく。
「羊羹? あなたも芸がないわね。いつもいつも、百貨店の地下で売ってるようなものばかり。もう少し、心のこもったものは選べないのかしら」
「申し訳ありません。皆様、甘いものはお好きかと思いまして……」
「好き嫌いの問題じゃないのよ。気持ちの問題。まあいいわ、せっかく持ってきてくれたんだから、後で皆さんでいただくわね」
そう言って、美代子は手土産をまるで汚い物でも扱うかのように脇に置いた。私の心に、また一つ小さな棘が突き刺さる。本当は、あなたの知らない、心づくしの逸品を私は知っている。でも、それをあなたが評価することはない。あなたが評価するのは、家柄や値段といった、分かりやすい記号だけなのだから。
通された座敷には、すでに義父や大輝の叔父夫婦、従兄弟たちが集まっていた。私が「ご無沙汰しております。本日はお招きいただきありがとうございます」と深々と頭を下げると、皆、当たり障りのない挨拶を返してくれる。けれど、その視線にはどこか憐憫や好奇の色が混じっているのを、私は感じずにはいられなかった。この家の中で、私がどういう立場に置かれているのか、皆が知っているのだ。
食事が始まると、美代子の独壇場はさらに熱を帯びた。
「紗良さん、あなたお酌の仕方も知らないの? ビールのラベルは上にしないと失礼でしょう。そんなことも、お母様から教わらなかったのかしら」
「紗良さん、お料理の取り分け方が汚いわ。せっかくのお刺身が台無しよ。大輝が可哀想」
一つ一つの所作に、粘着質な言葉が投げつけられる。私はそのたびに「申し訳ありません」「勉強になります」と笑顔で返し続けた。感情を殺し、ただの出来の悪い嫁を演じる。それが、この場を乗り切る唯一の方法だった。
大輝は、叔父たちと仕事の話で盛り上がっていて、こちらのことなど気にも留めていない。いや、気づいていて、気づかないふりをしているのだろう。彼のその態度が、美代子の言葉よりも鋭く私の心を抉る。
目の前に並べられた豪勢な料理は、どれも彩り豊かで美味しそうに見えた。けれど、一口箸をつけるたびに、まるで砂を噛んでいるかのような味しかしない。緊張と屈辱で、喉がカラカラに乾いていた。
宴もたけなわになった頃、話題は近々結婚するという大輝の従兄弟の話になった。相手は有名な大学病院の院長の娘だという。
「まあ、さすがねえ。やっぱり家柄がしっかりしているお嬢さんは違うわ。育ちがいいから、立ち居振る舞いも上品で。うちの親戚になるなんて、本当に誇らしいわ」
美代子はそう言って、わざとらしく私に視線を向けた。座敷にいる全員の意識が、一斉に私に集中するのが分かった。公開処刑の始まりだ。
「それに比べて……ねえ。やっぱり、育ちっていうのは大事なものよ。どんなに着飾ったって、隠しきれないものがあるもの」
空気が凍りつく。叔母が慌てて「お義姉さん、そのくらいに…」と助け舟を出そうとするが、美代子の勢いは止まらない。
「だって本当のことじゃない! 大輝だって、本当はもっとしっかりしたお家のお嬢さんと一緒になっていれば、今頃はお父さんの会社だって、もっと大きな取引ができて安泰だったかもしれないのよ! そうでしょう、大輝!」
話を振られた大輝は、お酒で赤くなった顔を気まずそうに逸らした。そして、絞り出すようにこう言ったのだ。
「……まあ、母さんの言うことも、一理あるけどな」
その瞬間、私の頭の中で何かがぷつりと切れる音がした。
一理、ある? この屈辱的な状況が? 私が今まで耐えてきたこの時間は、すべて無駄だったと? あなたも、心の底ではそう思っていたの?
目の前が真っ暗になりそうだった。それでも、私は唇の端を必死に引き上げ、かろうじて微笑みの形を保つ。ここで泣き崩れたら、義母の思う壺だ。それだけは、私の最後のプライドが許さなかった。
「そう…ですね。大輝さんのご迷惑になっているのなら、私は……」
私が何かを言い終える前に、義父が「美代子、いい加減にしろ!」と低い声で制した。その場はなんとか収まったが、私の心につけられた傷は、もう元には戻らないほど深く、致命的だった。
食事会がお開きになり、私は他の女性親族たちと共に後片付けのために台所へ向かった。誰も、私に話しかけてはこない。皆、腫れ物に触るように、私から距離を置いている。美代子に睨まれたくないのだろう。その気持ちも分かるから、私は誰を責めることもなく、黙々と食器を洗い始めた。
冷たい水が、火照った指先を冷やしていく。蛇口から流れる水の音に紛れて、ぽろり、と一粒だけ涙がこぼれ落ちた。慌てて手の甲で拭う。大丈夫、大丈夫。私は橘紗良。彼の妻なのだから。そう言い聞かせても、一度崩れ始めた心の壁は、もうどうにもならなかった。
「何してるんだ、早く帰るぞ」
背後から、大輝の不機嫌な声がした。振り返ると、彼は呆れたような顔で私を見下ろしている。
「…ごめんなさい、すぐに」
「いつまでぐずぐずしてるんだ。……なんだ、泣いてるのか? 大袈裟だな、母さんの言うことなんて、いつものことだって言っただろ」
大袈裟。その一言が、私の中に残っていた最後のひとかけらの期待さえも粉々に打ち砕いた。私はもう何も言えず、ただ無言で彼の後について家を出た。
帰りの車内は、重い沈黙に支配されていた。窓の外を流れていく街の灯りが、滲んで見える。私は、これまでずっと信じてきたものが、足元から崩れ去っていくのを感じていた。夫への愛。家族としての絆。穏やかな未来。それらはすべて、私一人が必死に守ろうとしていただけのもろい幻想だったのかもしれない。
マンションのエレベーターに乗り、慣れ親しんだ我が家の玄関ドアを開ける。いつもなら「ただいま」と言ってくれるはずの彼の背中は、冷たく私を置き去りにしてさっさとリビングへ消えていった。
一人、薄暗い玄関に取り残された私は、力なくその場に立ち尽くす。
(この結婚は、本当に正しかったのだろうか)
心の奥底から、これまで必死に蓋をしてきた声が聞こえる。それは、静かだが、決して無視することのできない、確かな疑念の声だった。リビングから漏れるテレビの明るい音声が、私の深い孤独をより一層際立たせている。私はゆっくりと靴を脱ぎ、ふらつく足で暗い廊下を進んだ。偽りの平穏は、今日、終わりを告げたのだ。
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