エピローグ
春が来ていた。
駅前の街路樹は淡い若葉を広げ、通学路だった歩道には見覚えのない制服が行き交っている。人の流れは軽く、騒がしく、世界は何事もなかったかのように回っていた。
有希は改札を抜け、振り返った。
――遅いよ、ツムギ
少し離れた場所から、紬が小走りに近づいてくる。肩に掛けたバッグが揺れ、結んだ髪が風に靡いた。
「ごめん。書類、思ったより時間掛かっちゃって」
――もう慣れたでしょ。そういうの
有希は笑った。無理のない、自然な笑みだった。
二人は並んで歩き出す。新しい街、新しい生活。ここでは誰も過去を知らない。立場も、関係性も、すべてが"やり直し"の形をしている。
それは、確かに光だった。
「ねえ有希」
――なに?
「今日、ちゃんと寝た?」
――うん。久しぶりに
有希はそう答えてから、一瞬だけ視線を逸らした。紬は気づいたが、何も言わなかった。言わないほうがいいことがある。触れないほうが保たれるものがある。
それを、二人はもう知っていた。
川沿いの道に出る。水面は陽光を反射し、きらきらと揺れている。ベンチに腰掛け、紬は紙袋を開いた。
「ほら、パン。昨日言ってたやつ」
――ありがと
有希は受け取り、少し嬉しそうに頷いた。
「……ね」
――うん?
「私たち、ちゃんと生きてるよね」
その言葉は、確認だった。祈りではなく、証明でもなく、ただの確認。
――生きてるよ
有希は即答した。
――一緒にいるし。ご飯食べてるし。こうして笑えてる
論理は完璧だった。反論の余地もない。紬は安心したように息を吐き、パンを一口かじる。
「よかった」
その瞬間、紬のスマートフォンが震えた。
画面には、登録されていない番号。有希がそれに気づき、視線を向ける。
――出なくていいよ
有希が言った。
紬の身体が震えている。
それを見た有希は、静かに彼女の手を取った。
――大丈夫
強く、確信を込めて。
――私がいる
その言葉に、紬は微笑んだ。
スマートフォンはやがて静かになり、春の風が二人の間を抜けていく。
世界は明るかった。
何も起きていない。
何も壊れていない。
ベンチの足元に落ちた影が、なぜか一つ分しかない。けれど彼女は、独りではなかった。
二人は立ち上がり、手を繋いで歩き出す。
この光が、
いつまで光でいられるのかを、
確かめるように。
奈落の天使 深見怜 @rei_buffer_
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