第十二話 持永紬

視点 : 持永紬


 終業式が終わった後、妹たちの迎えを放ったままに帰宅した。最低限の荷物だけを持って、私服に着替えてから駅へと引き返す。そのまま最寄り駅で有希と合流して、ただひたすらに北のほうを目指した。

 お金がいつまで持つかは分からない。けれど、それでも良かった。どうせ死ぬつもりだったんだから、立ち行かなくなっても別に構わない。有希が遠くに行こうと提案したから、私も彼女に付いていく。私にはもう有希しかいないから。彼女が死んだらその時が、私の死ぬ時になる。

「……妹ちゃんたちは?」

「保育園だから大丈夫だと思う」

「……そっか」

 知らない駅のプラットホームで、知らない場所へと向かう乗り換え電車を待っている。有希も私も厚着をしていないから、突き刺す痛みに心が凍りそうだった。私は彼女に貸してもらったマフラーと手袋をしているけど、首と手を晒している有希はもっと辛いはず。でも、だからといって防寒具を返す気にはならなかった。


 しばらくして、列車は予定時刻に寸分も違わず到着した。夕日の差し込む車内で、私たちはクロスシートで隣り合わせている。有希が窓枠の下部に肘を凭れながら、うとうとと船を漕いでいた。目は閉じているから、もう眠っているのかもしれない。終点はまだ遠かったから、自分もしばらく眠りについてみることにした。


 列車がレールを跨ぐ音が鼓膜を揺らし続けていた。ガタンゴトンという心地のよい音とともに、自分の身体が浮き上がったり落ちていくのを繰り返している。限りのない反復の向こうで、よく知った声が聞こえた。甲高い幼い子供の声。目が開けられない。真っ暗闇。それでも声の主が誰なのかは一瞬で理解することができた。

「お姉ちゃん! 起きて!」

「お姉ちゃん! お姉ちゃん!」

 妹たちだ。園に置いたままだったのに、どうしてここにいるんだろう? もしかしたら、心配になって抜け出してきたのかもしれない。でも、もう帰りたくない。合わせる顔がないから。自分たちのことを見捨てた姉を、許してくれるはずなんてないのだから。

「お前、裏切ったな」

 また知っている声がした。低く濁った男の声。私の母と私の母と、私を殺した男の声。彼のことを恨んでいた。そして、憎かった。けれど私はいつのまにか、彼のことを愛していた。彼が私から離れてしまえば、自分の存在価値がなくなってしまうような気がしたからだ。そんな彼のことを、また裏切ってしまったらしい。私が間違ったことをしたとき、彼は罰を与えてくる。心も身体も壊れてしまうくらいに、生命の隅々まで痛めつけてくるのだ。

「うぇーん」

「ひぇーん」

 妹たちが泣いている。いつものことだ。大丈夫、大丈夫。仕方のないことだから。私が裏切ったのが悪いんだから。悪いことをしたら相応の償いをしなければならないのが大人というものだ。お姉ちゃんはまだしばらく寝られないから、二人だけで寝ていなさい。

「っ……」

 うたた寝だったせいか、身体が硬直している。これは金縛り。もう何度も何度もなったことがあるから、怖くもなんともない。脇腹にいつもの感覚が襲ってきて、触れられた冷たい感触が段々と上がってくる。始めは気持ち悪かったけれど、今となってはほとんど何も感じない。両手で胸を掴まれ、恥部に熱いものが触れた。

「うっ……」

 最近の彼は不機嫌なことが多かったから、頻繁に罰を与えてくる。彼のことを裏切っても裏切らなかったとしても、罰を受けることが増えた。私は考えに考えて、自分の存在自体が罪なのだ、とようやく納得した。腫れた皮膚が擦れて痛い。けれど痛いと言ったら、彼はより一層激しくなる。だから声を漏らさないよう耐えに耐え、ただ終わりを待つだけの平凡な機械に擬態するのだ。

「ツムギ……!」

 犯されている間、右から別の声がした。女の声。それは私の弱みを握り、冷酷に支配してきた悪魔のものだった。私たち家族の平穏を脅かす、邪に塗れた存在。家族を守ろうと、彼女のことを殺そうとした。でも、殺せなかった。なぜなら彼女は、私の新たな存在価値を創り出してくれた天使になったからだ。気付いた頃には、彼女のことを愛していた。彼女を失いたくなかった。彼女に見放されること、それこそが何よりの恐怖になってしまったからであった。

「……」

 気付けば自宅にいた。あいつが買上げた、狭くてボロい賃貸。臭い、臭い……なんの臭い? ふと居間に目をやると、あいつが倒れていた。首から血を流して、畳に血の海が出来ている。鉄が腐ったような悪臭。まあ、鉄が腐るのかは知らないけれど。

「お姉ちゃん……やめて……!」

「やだ……いやっ……!」

 私の右手には、包丁が握られている。襖で仕切られた寝室の隅で、子供が二人怯えていた。可哀想な子たち。生まれてこなければ幸せだったろうに、と心から思った。泣き叫ぶ彼女らに動じず、ゆっくりとにじり寄る。私は一人一人、できるだけ苦しまないように殺してやった。

 

「……ムギ、いい加減起きてよ」

「……へ?」

 今度は電車にいた。振動は止まり、揺れる音も聞こえない。車内の蛍光灯があまりにも眩しくて、また目を閉じてしまう。一度だけ深呼吸をして、ようやく我に帰った。誰かが私を呼んでいる。ひどく不機嫌な声。目を開けたとき、眼前には有希がいた。

「……着いたから」

「あっ、うん」

 重く沈んだ意識のなか、彼女に続いて電車を降りた。外気に触れた瞬間、全身に鳥肌が立つ。元いた場所の何十倍も寒い。帰宅ラッシュの人混みのなかで、彼女を必死に追いかけた。


 駅を出ると、アスファルトにはあっさりと積雪があった。降雪は止まっていたけれど、これからまた降るはずだ。今夜は大雪になると、ネットニュースに書かれていたのを思い出した。

「これからどうするの……?」

「……」

 問い掛けたけれど、思い切り無視された。こちらを向いてもくれない。有希は有希で、自分のことに精一杯なんだろう。彼女に連れられるがままでここにいる私。これからの予定について、何も話していない。この場所の地名は聞いたことくらいはあるけれど、詳しくは知らない。とにかく北に行こうと、ただそれだけで私たちは連れ立っていた。


 寂れかけの繁華街を抜けて、辺りには戸建ての住居とマンションが増えてくる。彼女は相変わらず前を向いて、一人で前へと進んでいた。列車を出てから一言も会話をしていない。少しくらい構ってくれてもいいのに、となんだか寂しくなった。

「……何か食べよっか」

「うん」

 駅を出てから初めて喋った有希が、コンビニがある方面を指差していた。地元では見たことのないローカル風の店舗。煌めく明かりに照らされて、粉雪が舞っていることにようやく気付いた。

 若干錆びついた自動ドアを通り抜けると、店内の温風に表情が溶かされる。心なしか有希の表情も柔らかくなったように感じられた。

「ごめん、私もうお金ないや」

 財布に向かってそう呟く有希。私も真似して中身を確認する。銀行口座に入れ込んでいた生活費やらを全部引き下ろして持ってきたから、まだ余裕はある。私が出すよ、といって二人分のおにぎりと飲み物を買った。

 コンビニに飲食スペースはなく、再び寒さに打たれることを強要された。買った袋を私が持ってまた少し歩く。その間も彼女は無言だった。何を考えてるんだろう。彼女も同じように、死にたいと思ってくれているのかな。

「これからどうするの?」

 もう一度、ちゃんと目を見て訊いてみる。今度の彼女は、私に目を合わせてくれた。

「……ただ歩いてるだけ」

 声が小さすぎて、何と言ったか分からなかった。でも頭の中で聞き取った音を整理して、ようやく意味を理解した。別に意味があってここに来たわけじゃない。彼女はたぶん、悵然自失としているだけなんだ。己の自己中心的な欲望の為に、人を三人殺した。その過ちにようやく気付いたのかもしれない。

「……」

 私は無言で、有希の傍に手を差し出した。払われるか、無視されると思った。けれど彼女は、私の手を握ってくれた。一人になるのが怖い。でも、私には有希がいる。彼女も同じことを思っていてほしいと手を差し出したのだ。


 有希は、受け入れてくれた。


 その瞬間、私の凍えていた身体が発熱した。その灼熱は、天国のようでも地獄のようでもあった。幸福と不幸が混じり合って、出来上がったものを彼女と共有している。幸せだった。

 それから私たちは恋人のように手を繋ぎあって、降り始めた雪に導かれるように歩き続けたのだった。


 ラブホテルに入ったのは初めてだった。近隣のビジネスホテルは平日なのにどこも満室で、ようやく辿り着いたのは休憩と書かれた看板だった。着いたら即座に暖房を入れて、持っている荷物をすべて下ろす。お互いに無言で、貪るようにおにぎりを食べた。

「……シャワー入ってくる」

「いってらっしゃい」

 覇気のない有希が、着替えも持たないままに浴室へと向かった。いや、そもそも着替えなんて持ってきていないのかもしれない。彼女のリュックはやたらと荷物が少なく、本来膨らんでいるはずの部分はへこんでいる。逆に何を持ってきているのかが気になって覗き見ようとしたけれど、彼女を裏切ることになるんじゃないかと思って我慢した。


 立ち尽くしたままで、なんとなく部屋を見渡してみる。ラブホテルというからにはさぞ妖艶な雰囲気が漂っているものとちょっとだけ期待していたのに、内装はさながらビジネスホテルといった感じだった。ベージュの質素なベッドと無地のカーテン。それらしいものといえば多少豪勢なルームライトだったけれど、フォーマルな室内にはいささか場違いのように思えた。

 疲労でふらふらよろめきながら、枕が二つ置かれた広いベッドに寝転んだ。エアコンから出る温風が直に当たって、固まった身体が解されていく。私は寒い冬が好きだ。何故なら、温かいものに幸せを見出すことができるからだ。それはたぶん、私が妹たちを愛していたのと同じ理由だと思う。あの子たち、今どうしてるのかな。せっかく幸せに包まれていたはずだったのに、後悔が蘇ってまた頭が重くなってきてしまった。

 

 ふと自分はどうしたいのかを考えてみる。罪悪感と喪失感に苛まれ、死んでしまいたいと思っていた。この世から消えてしまえば、どれだけ楽になれるだろうと何度も夢想した。今も私は、同じことを思っているんだろうか。私には有希がいる。こんな私を受け入れてくれて、一緒にいてくれている。彼女のせいで失ったものは多いけれど、必要とされているという満足感は自分にとってそれ以上の幸福だった。私も病気なんだと思う。だからこそ、有希のことを好きになってしまったんだと思う。

「ツムギ、聞いてよ~! リコがね、小学校で男の子に告白されたんだって~」

 気が付くと、私も彼女も大人になっていた。妹たちは小学生になっていて、リビングのソファにはランドセルがふたつ転がっている。何処からか帰ってきたばかりの有希は、汗を拭いながら楽しそうに話していた。あの子たち、私のこと許してくれたんだ。良かった。

「おーい、俺だぞー!」

 玄関から野太い声が聞こえる。ビニール袋の擦れるシャラシャラという音が響いて、あいつ……ううん、父が扉を開けてきた。すぐに有希がそちらに駆け寄って、彼の持ってきた袋を受け取る。

「えーっ、こんなに……! いつもありがとうございます!」

「いいやあ、紬が良くしてもらってるんだから当然さあ」

 差し入れを持ってきたんだ。私と有希と、妹たちのために。親戚の優しいおじちゃん、まさにそういう雰囲気。ほとんど見たことのない父の笑顔が懐かしくなって、少しだけ泣きそうになった。

 同時に、これが夢だったらどうしようと不安になる。私と有希と、妹たちと父と、ぜんぶの笑顔が私の創り出した空想だったら……?

 

 そうして、夢から覚めた。暖房が効き過ぎていて、全身に汗が滲んでいる。身体が乾燥してひどく喉が渇いていた。

「ツムギ……」

 目を開けると、眼前に有希の顔があった。彼女も汗をかいていたから、せっかくシャワーに入ったのになあ……と自分ごとのように憂いた。彼女が私の名を呼んでいたから、返事をしてみる。

「うん……?」

「今まで……ほんとに……ごめんなさい」

 見ていると、彼女の目から液体が溢れ出していた。有希の涙を、私は初めて見る。清く澄んでいて、綺麗な涙。美しい……と、無意識にそう思った。

「いいよ、許す」

 有希のことを憎んでいたのは、今となっては昔の話。彼女は私を必要としてくれた。彼女にとって、私は必要不可欠な存在だった。それがとても嬉しくて、家庭を壊されたことなんか、もうどうだって良いと思った。

「ツムギは、私のこと……どう思ってるの?」

 返事に迷うことはない。正直に、思っていることを言えばいい。

「愛してる」

「……」

 我ながら直球すぎた。有希は黙り込んでしまって、私の目をただ見つめ続けている。困惑しているのか、それとも、嫌がっているのか。どちらとも捉えられる彼女の目には、涙がいくらか残っていた。

「……っ」

「……」

 ふいに有希の顔が近付く。見ていたはずの彼女の瞳に焦点が合わせられなくなった。唇に嫌いなものが触れる。あいつから受けた罰の感触。本能で身体を引きかけた。逃げなきゃ……もう私は罰なんて受けたくない……。でもすぐに引くのを止めた。何故ならそこには幸せがあったからだ。ちょっとだけ塩っぱい味と、雪崩れ込むリリーの香り。唇から広がって、頭の先から足の先まで、私のすべてが彼女に染まってしまった。

「私も……愛してる」

「……うん」

 彼女の腕が、私の身体に絡みつく。服は着たままだったけれど、有希の体温が布の奥から伝わってくる。たぶんまだお風呂から上がったばかりなんだと思う。

「有希」

「……ん?」

 一旦身体を引き剥がして、彼女の瞳を真剣に見つめた。そして、夢の話を語る。

「私たち、一緒に暮らそ? それで妹たちも連れてきてさ、四人で幸せに暮らそう?」

 私たちはまだやり直せる。罪は償わないといけないかもしれない。でも直接手を下した夏菜子に比べれば罪は軽いだろうし、私たちはまだ未成年だ。捕まることになったとしても、長い間囚われることは無いと思う。あの場所でやり直すのは嫌だから、今よりもっともっと遠くへ行って、二人で……ううん、四人で楽しく暮らそう。そういったことを、真剣に話した。彼女はただ無言で、私の目を見つめ返している。泣き腫らした彼女の目は、まるで幼い子供のようだった。

「……うん」

 有希は、そう一言だけ呟いた。そして、微笑んだ。私の妹たちと同じような、純真で無垢な、幸せそうな笑顔。嬉しかった。私の愛する彼女と気持ちを共有できて、これからの未来が確約されて。

「……」

「……っ」

 またキスをされた。へへ、こういうの初めて……。恋なんてしたことがなかった。私なんかが恋をするのはいけない事だと思ってたから。家族の問題に巻き込んでしまうことになるし、そもそも存在自体が罪なんだし。でも彼女は、すべてを知った上で受け入れてくれた。愛してると言ってくれた。これからずっと、一緒に生きてくれると……そう言ってくれた。


 有希、ありがとね……わたし今、幸せだよ?

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