第十話 河瀬春輝
視点 : 河瀬春輝
悲願の全国大会まで、残すところ二週間。我が吹奏楽部の部員一同、毎日必死に練習していた。苦しい日々ではあったが、先輩方による"連帯責任制度"等の緩和によって精神的ストレスは軽くなったように思える。
「おはよ〜! 今日で春輝もニート卒業二日目かあ」
「うるせえな……おはよう」
今日も今日とて騒がしい奴。相変わらず癪に障る言い方をしてくるような女だが、今となってはそんなところも愛おしい。よく見ると可愛い奴だよ、意外と。
「ねえねえ、今週末は休みないの〜?」
「ねえよ、この間はイレギュラー」
「そっかあ、じゃあコンクール終わったら遊びに行こ。全国制覇のお祝いしたげる! パーティしよ、パーティ!」
「呑気だな……俺らは必死だってのに」
こんな時に遊び呆けている場合じゃない。この間は学校側の問題で帰宅させられただけで、今後はコンクールまで休みなしに決まっている。そのうえ俺が停学になったことで、顧問や先輩にしこたま詰められたという負い目もある。次期部長が俺に決まっていることもあって、特に山田部長には……。恐れられている先輩といえば中条先輩の名がよく挙げられるのだが、本当に恐ろしいのは部長のほう。今となっては正直、後ろ姿を見るのも怖いくらいだ。まあとにかく……俺は特に、休んでいる暇なんてないのだ。
お互いにそのままのテンションで電車に乗り込み、学校への道のりを行った。昨日からの雨が続いていて、おかげであまり気分が乗ってくれない。天気の悪い日はいつもそう、曇天の暗さに比例して気分も落ちてしまう。雨が降っていれば尚更である。彼女に対して無愛想なところしか見せられなかったことを、わずかに悔やんだ。
学校に着くといつものように地獄の階段を上る。窓は閉め切られ、陽が出ていないせいでとても暗い。気分がまた悪くなってしまう。けれどそのおかげか、今日の発汗は普段より控えめで済んでくれた。考えようによっては雨も好きになれるのかもな……とかすかに思った。
「河瀬くん、おはよ」
「中村、おはよう」
普段通り栄光の恩恵を受けていると、中村の挨拶を聞いた。見ると彼女の隣には、持永の姿もある。おっ、今日は遅刻しなかったんだな。偉いぞ。
「やっほー、春っち」
「よっ、持永っち」
俺がふざけて言い返すと、持永は馬鹿みたいに笑い転げる。はあ、心配して損したよ。この様子だと、本当にゲームのせいで寝坊してたんだろうな。それか中村がちゃんと相談に乗ってくれたのかもしれない。とにかく、元気そうで何よりだ。
中村がスリッパを脱いで、履物入れにしまい込む。持永に対して、行こ、と言って部室へと入っていった。続く持永も同じように中へと向かう。
ん……?
扉を潜る寸前の一瞬ではあったが、持永がこちらを見ていたような気がする。睨んでいるようなふうでも、ふざけているような感じでもなかった。あの時と同じ。そう、昼休みに中条先輩に絞られた後の陰鬱な顔つき。俺に助けを求めているような? いや、考えすぎか……?
まあでも、悩みがあるのであれば中村が相談に乗ると言っていたことだし、きっと大丈夫だとは思う。それに今はコンクールのことで頭がいっぱいだ。もう二週間もすれば余裕ができることだし、その後でも遅くないとは思う。一昨日まで停学していたこともあるし、俺はひとまず練習に専念することにしたのだった。
始まりは、その日の放課後だった。先輩方の譜面台と椅子を用意して、リュックを漁っていた時だった。
「え?」
譜面がない。いつも無地のクリアファイルに入れてあるコンクール用の紙譜面。朝の練習では持っていたし、使ってもいた。練習後には、譜面台から取り上げてすぐにそのまましまい込んだはずだ。それどころか、昼休みに弁当を食べた時に見たはず。なのに、消えていた。奥のほうまで見ても、辺りを見回しても、どこにもない。
「どうしたの……?」
俺が焦っているのを察したか、中村が声を掛けてくれた。
「いや、譜面が無いんだよ。まずいな」
「えっ、でも朝はあったよね? 教室にあるとか?」
「リュックから出してない。絶対におかしい」
嫌な感じがする。三年前のあの感じ。物を隠されたり捨てられるなんかは日常茶飯事だった。脳髄にこびりついたあの鬱屈とした日々が、まるで擦り剥いた皮膚から滲み出た血液のように蘇る。わずかに眩暈がした。
「大丈夫……?」
「えっ、ああ。そうだな、取り敢えず教室見てくるわ」
我に返ると、中村が心配そうな顔を向けていた。大丈夫、勘違いだ。今の自分には友人もいれば吹奏楽部の仲間もいる。それに恋人だって。何かあれば相談出来る人は山ほどいるんだ。これが誰かの悪意だったとしても、今の俺がそんな悪どい奴に負けるはずがない。すぐさま機敏に立ち上がり、教室へと探しに出た。
しかし目当ての物はどこにもなく、結局何も持たないまま部室へと戻る。もう先輩方も来ている頃だ。本当は禁止されていたが、廊下を駆け足で向かった。そして階段を汗だくで上がった時、フロアの一角に中村がいた。
「河瀬くん、これ」
「え?」
「パートリーダーの先輩に言って、こっそり河瀬くんの担当譜面貰っといたから。書き込みしてない白紙譜面だけど大丈夫?」
中村が先輩に掛け合って、譜面を用意してくれていたらしい。既に部長や副部長も来ているらしく、部室の外で受け渡したのは彼女らにバレないようにだろう。根拠のない被害妄想で傷付いていた心に、じわりと温かいものが広がった。
「マジで助かる。それでいいよ、本当にありがとな」
「ううん、大丈夫。助け合うのが仲間だから、当然。もうみんな来てるから、急ご!」
そう言って、彼女はさっさと部室に帰っていった。ああ、一体何を怯えていたんだ。心配することなんてないじゃないか。すぐにそう思い直すとスリッパを脱いで、俺も部室へと入った。
けれど、それが悪夢の始まりだった。勘違いではない。誰かに悪意を向けられているということは、どう考えても明白だった。
譜面事件の次の日、この日は土曜日で部活の練習だけが朝から行われる。いつものように始発で登校して、靴箱で靴を履き替える……はずだった。しかし、いつも入っているはずのスリッパが、見事に消え去っていたのだ。隣にもその隣にもきちんと指定の履き物が入っている中、自分の靴箱だけが空だった。辺りを見回しても落ちていることはなく、授業が無いのを良いことに友人のスリッパを勝手に拝借することにした。もちろん念の為、借りていく旨を書いたメモを残しておいた。それから探してはみたが出てくることはなく、月曜日には学校に報告して、新しいスリッパを購入することになったのだ。
その月曜日、今度は昼食の時間に事は起きた。終業のチャイムが鳴り、いつもの友人たちと弁当を食べる。リュックを開けて弁当箱を取り出そうとした……が、出来なかった。蓋を閉めて、ゴムで固定していたはずの弁当箱。その上からハンカチでしっかり梱包までしているはずのアルミ製の入れ物。何故かその弁当箱自体が失くなっていて、オカズやらご飯やらの中身が全てぶち撒けられていた。他に入っていた体操服や譜面、ノートなんかには、味付けのソースや液体がべっとりと付着している。
リュックを抱えたまま、咄嗟に教室を出た。友人たちは不審がっていたが、俺は必死だった。それは確信したからだ。誰かに悪意を向けられていることを。脳内がグルグルと不安定になり、トイレの段差で転びそうになる。個室に入ってもう一度中身を確認した。幻覚だったんじゃないか……? それか、四時限目は眠かったし、夢……? 恐る恐るリュックの開口部を開く。
「うっ……」
ムワッと鼻を刺すオカズの匂いと、トイレに漂う特有の悪臭。そのままリュックを抱き抱えて、深呼吸をする。けれど上手く肺を制御できず、自然と息が荒くなってきた。やっぱり弁当箱はない。ハンカチも、留めていたゴムもない。誰かにやられたんだ。スリッパなら誰かの間違いだと思うことも出来たが、これは明らかに故意だ。
嘘だろ……俺が……? 誰かに恨まれている覚えはない。中学の頃のように、無作為に好意を振り撒いたりもしていない。嫉妬される心当たりも……いや、まさか。
咲良か……? 咲良のことを好きな奴が、俺に嫉妬して嫌がらせを……?
信じたくはなかったが、それは最も納得させられる動機だった。あいつはクラスでもかなりモテている。彼女のことを好きな男はいくらでもいるはずだ。実際、俺たちは付き合ったばかりで、周りに知られ始めたのはつい数日前。他校の男子を殴り倒した事件のせいで、クラスのほぼ全員が俺らの恋仲を知ることになったのだ。学内の誰かが俺らの仲を引き裂こうと、いや、俺を学校から消し去ろうとしているのか。そして、犯人はきっと同学年の男子に違いない。
ああ、吐き気がする。昼食も食べられそうにない……いや、そもそも弁当はもう無いのだが。そのまま昼休みじゅうを掛けて中身を綺麗にし、食事はトイレに全て流した。
怖い……怖い……。俺は普段強がっているが、本当は……本当に弱い。昔から悲観的で、悪意に対して対抗するメンタルなんて持ち合わせていなかった。だからこそ中二の夏、俺は自殺未遂なんてしたんだ。あの時の茹だるような灼熱と、鼓膜を揺さぶる蝉の声を思い出す。まさに、それはトラウマとなっていた。
助けてくれ……誰か……助けてください……。俺は男子トイレの個室で床に跪き、声を殺して泣いていた。
それから毎日のように嫌がらせ……いや、虐めは行われた。学生鞄の中にネズミの死骸を入れられていたり、リュックにしまっていた譜面や練習ノートを引き裂かれたり。警戒して鞄を肌身離さないようにすると、今度はスマートフォンに百件以上もの不在着信が記録されることになった。着信拒否をしても、着信の記録は残る。得体の知れない非通知からの着信通知は鳴り止むことがなかった。
そして極めつけは手紙だった。ある日帰宅すると、母から手紙を受け取った。ポストに入っていたらしく、宛名には河瀬春輝様と書かれてあった。
――さっさと死ね。さもなくば、お前の恋人が酷い目に遭う。
ただ、それだけが書かれていた。
コンクールを三日後に控えた木曜、今日も練習を終えたのち、校門で咲良と合流した。この頃の彼女には元気がなく、それは俺のせいだった。
「……よっ」
彼女が手を挙げ、挨拶をしてくる。らしくない控えめな雰囲気だった。だが、それはいつもそう。最近は俺がずっと無愛想なせいで、比例して彼女の元気も無くなってきている。しばらく歩いて、咲良のほうから沈黙を破ってきた。
「春輝、そろそろ教えてよ。どうして最近こんななの……?」
「……何だよ」
不機嫌な声で応えると、彼女は少しだけ目を伏せる。咲良のことを思うと心が痛む。でも……俺もどう行動するのが正解なのか分からなかった。俺は俺で苦しく、八方塞がりで、どう生きればいいのかを見失っている。
「だってさ、最近ちゃんと話してくれないじゃん」
「コンクール前だから」
「……」
今度は唇を噛み始めた咲良。分かってる。本当は相談したいんだ。でも、無理なんだよ……。彼女には弱みくらいいくらでも見せつけられる。実際これまでだってそうしてきた。だからこそ、俺たちは恋人にまでなれたんだ。けれど、俺が今苦しんでいるのは……咲良が原因でもある。それを知った彼女がどう思うか。俺は彼女のことが大切だからこそ、打ち明けられずにいた。
「春輝……?」
「……ん」
「コンクール終わったら……パーティーしようね……?」
そういえば、前に話していた。雨の降り続いていた暗い朝。あの日から、俺の苦しみは始まったんだ。思い出して、気分が暗くなる。どうして、俺はこんな心に生まれたんだ。彼女のようにもっと楽観的で、自然体に生きることが出来ていたら、幸せだったのかもしれないな。
精神が限界を迎えて、俺はつい漏らしてしまった。俺のことを救ってくれた彼女に、大切な恋人に、言ってはならないことを言ってしまった。
「鬱陶しい」
「へ……?」
「ウザいから、放っといてくれよ」
まずい……止まらない。この頃の嫌がらせによる鬱憤や吹奏楽部での重圧が、一気に解放されていく気分。罪悪感と解放感が入り混じって、顔が熱くなる。
咲良は……泣いていた。
「だって、春輝がっ……悩んでると思ってっ! 春輝が元気に、なれば……と思ってっ!」
「だから、それが鬱陶しいんだって……」
初めて見る泣き顔。そういえば、咲良は俺に一度も泣いているところを見せたことがないんじゃないか。見せないようにしていたんだろう。その初めてが自分の所行であることで、ようやく自責の念に駆られた。謝れ、謝れよ……俺。
「……もういい」
泣いていることが知られていてもなお俺に泣き顔を見せたくないのだろう、両手で顔を覆っている咲良。絞り出すような涙声で、声を掛ける間もなく暗闇の向こうへと走り去ってしまった。
残されたのは、後悔のなかで呆然とした自分と、たった一匹の蝉の声。十月にもなるというのにまだ生き残っていたのか、お前。この世を去るのはお前が先か、それとも俺が先か。空が、電灯が、街路樹が、どうしてかグロテスクに見える。その光景は、鬱屈とした日々を送っていた中学生の俺が見ていたものとまったく同じものであった。
全国大会まであと二日、金曜日。重い寝起きの対岸で、脳を溶かすような雨音が鳴っている。起き上がろうとしても身体が重く、向こうの曇天を見た途端に吐き気が止まらなくなった。しばらくしゃがみ込み、何とか堪える。コンクールは明後日……大丈夫。俺には友人だって……でも、もうクラスメイト、いや、学校の人間は誰も信用できない。男子も女子もじっくり観察していたが、怪しい生徒は誰もいない。誰に悪意を向けられているのか全くわからなかった。相手が分からない以上誰にも相談できない。
仮に本当に信頼できる人に相談したとしても、咲良の身が危ないかもしれない。先日の手紙で確信していた。やはりこの一連の嫌がらせが、嫉妬によるものだということを。俺が咲良と別れれば、全ては解決するのだろうか。いや、既に仲違いをしてしまっている。もう時間の問題なんじゃないだろうか。今の自分には、彼女との親密な関係を取り戻している未来の自分が少しも想像できなかった。
いつものように始発で登校し、いつものように電車に乗り込む。けれど隣に彼女の姿はない。この間まで騒がしかった無数の蝉たち、今となってはその全てが死滅していた。
「……」
視界が暗い。それは決して、曇天のせいではない。校舎が歪んで見える。あの頃のトラウマが蘇った。靴箱の入り口で少し躓き、派手に転んでしまう。スリッパは失くなっていないか……? そこにはきちんと両足とも揃っていて、かすかに安心した。靴を履き替え、部室へと向かう。地獄の階段はこれまでで一番暗く、本当の地獄のように思えた。
「河瀬……?」
階段を上り切ると、ふいに声を掛けられた。ボーっとしていたが、突然の呼び掛けに驚くことはなかった。感情が乖離していたのかもしれない。そういえば最近笑ったのはいつだったか。長いこと表情を変化させていないような気がする。
「持永か」
「うん。あのね、ちょっと相談があるんだけど……」
いつになく神妙な雰囲気の持永。相談、か。何の話だろう。例の遅刻の話か? しかし最近はきちんと登校できているように思う。
「何の話? 今?」
無愛想にならないよう心がけたつもりだったが、自然と冷たい口調になってしまう。それもそうだ。相談したいのは、俺のほうなのに。どうして苦しんでいる俺が、他人の相談なんか聞かないとならないんだ。
「昼休み、別棟裏に来てもらってもいい……?」
「ああ、分かった」
だからといって、彼女の悩みを無下して良い理由にはならない。それに……内容によっては、持永のことを信頼できるのかもしれない。弱みを持つ者同士、悩みを共有して、たった一人で悩む自分自身を解放してやれる良い機会になるかもしれない。とにかく昼休みは、彼女のために時間を費やそうと決めたのだった。
昼休みになり、昼食も食べずに彼女の元へと向かった。持永は昼食を食べているだろうと思ったが、俺には食欲がない。ただ教室で時間を潰すのも、周りの目が怖かったのだ。吹奏楽部室も入っている別棟の裏、使われていない掃除用具なんかの置き場になっている暗い場所。奥のほうには倉庫があり、その屋根の下で雨宿りをしながら彼女を待った。
「河瀬くん」
座り込んで放心していると、ふいに声が掛かった。
は……? 誰の声だ……?
「杉山……さん?」
「うん、来てくれてありがとう」
そこにいたのは持永や中村といつも共にいる女子、杉山夏菜子だった。そしてその隣には持永がいる。彼女は……泣いている……? 一人で来るのは気が引けたから、親友と一緒に来たということか。
「早速だけど、河瀬くんはツムギの家庭事情についてどこまで知ってる?」
話を始めたのは杉山のほうだった。家庭事情か、やっぱり家庭に問題があるんだな。しかし何も知らない、そう返すと杉山は続きを話し始めた。
内容は、衝撃的なものだった。父子家庭で母親はとっくに亡くなっていること。二人の幼い妹を持永が親代わりとなり育てていて、相当な苦労をしていること。そして彼女の父親が反社に所属しているということ。何もかもが持永からは想像できず、数日ぶりに感情が蘇った。なるほど、それで協力をしてほしいのか……?
「ふっ、違うよ?」
杉山が何故か笑っている。笑うような話じゃないだろ、何笑ってんだよ。その時、俺は嫌な予感がした。杉山……? お前、まさか……
「これが、ツムギの弱み。私はそれを利用して、こいつの事こき使ってんの」
杉山がそう言って、持永のことを指差す。持永はというとしゃがみ込んでしまい、泣き声を殺しながら身体を震わせている。
「ね、ツムギ。次は何してもらおっかなあ?」
「ひっ……」
杉山が卑しいニヤけ顔を浮かべている。一方の持永は全身をビクッと震わせ、息を荒くして怯えていた。そうか、そういうことだったか。ずっとこのことで、悩んでいたんだ。俺と同じで、彼女も虐められっ子だったんだ。
「で、河瀬くん……君にお願いがあるんだけど」
「……何だよ」
杉山は持永を見据え、声だけはこちらを向いている。お願いをするんだったら目くらい合わせろよ、クソが。
「部活、辞めてくれない? 目障りだから」
「……は?」
「本当なら学校も辞めて欲しいんだけど、許してあげる。とにかく、退部して」
「お前、まさか……」
これまでにされた数々の嫌がらせが蘇る。そうか、こいつだったか。身体の奥底から沸々と怒りが湧いてきた。脳にこれでもかというほどの熱が籠る。
「うっ……ううっ」
しかしすぐに冷静になった。持永の嗚咽が聞こえる。ダメだ……無理やりに解決しようとすれば、彼女の居場所がなくなってしまう。複雑な家庭事情のもとでせっかく普通の生活を送れていたのに、それをぶち壊すことになってしまうかもしれない。あんな酷い嫌がらせをするような奴だ。そのくらい簡単にしてのけるだろう。
「嫌がらせをしていたのは……お前だったか」
杉山に言い放った。この事実は確定事項だったけれど、咲良のことを警告しておきたい。彼女に手を出すのだけは許さないということを。しかし、帰ってきたのは予想外の答えだった。
「……は? 嫌がらせ?」
「とぼけんなよ。スリッパ捨てて、弁当ぶち撒けて、ネズミの死骸……」
「いや、何の話……? そんなことしてないんだけど。濡れ衣着せないで」
違う……のか? 性悪女のことを簡単に信じるのはどうかと思うが、素っ頓狂なその声は嘘には思えなかった。ずっと逸らしていた彼女の目も、しっかりと俺のほうを見ている。どういうことだ……? 他にも俺のことを……
「関係のない話をしないで、どうでもいい。とにかく、今日にでも吹部辞めて。でないとこいつが酷い目に遭うよ。あと……そうだ、柳川もね」
そう言ってまた、杉山は持永のことを指差した。差された彼女のほうはすでに泣き止んでいて、はあはあという浅い息遣いが聞こえていた。
「何でだよ、どうして辞めないとならないんだ」
俺に部活を辞めて欲しい理由が分からない。目障りだと言っていたが、それは理由になっていない。
「私があんたの控えだから。あんたが居なくなれば、私はコンクールに出れる」
いつの間にか俺のことを"あんた"と呼ぶ杉山。そうだった。杉山は俺の控えメンバーだ。朝練や居残り練には居ないが、ずっとコンクール曲の練習をさせられている。コンクールには出られないというのに。
雨がより一層強くなり、屋根の端から飛沫が降り込んできた。眼球に水滴が降りかかり、視界がぼやける。けれど放心状態に陥っているせいで、手で拭うこともできなかった。杉山と持永はとうに帰ってしまい、自分だけが取り残される。耳の奥で掃除の時間を知らせるチャイムが鳴っていた。それでも動きたくない……いや、動くことができなかった。稀にみる豪雨のなか、遠くのほうで雲の隙間から光線の柱が差し込んでいた。しかし光柱はすぐに喰われ、世界はまた暗澹へと戻ってしまう。実に非現実的な光景であったが、それはまるで己の人生を表しているようにも見えた。短い……あまりにも短すぎる幸福だったな、と過去から未来を悲観した。
その日、俺は部活に行かなかった。真っ直ぐ家に戻り、部活が終わった頃に顧問に電話を掛け、退部を申し出た。もちろん引き止められたが、どうしようもない。俺は全国大会の二日前に、吹奏楽部を辞めてしまったのだ。
コンクール当日、俺は自室で壁の向こうを眺めていた。相変わらずの雨模様らしかったが、どうせ憂鬱になるのだからとカーテンは締め切っている。鳥の声も蝉の声も聞こえず、ひたすらにしんとしていた。もうみんな死んでしまったんだろうか。
俺は失ったんだ。もう大切な恋人も、愛していた吹奏楽も、俺を生かしてくれる希望は何も残っていない。ただ残されたのは、気鬱に沈んだ精神と空虚な肉体。けれどどうしてか、そこには不思議な解放感があった。自分を悩ませていた不安や苦しみが抜け落ちたからだろうか。きっとこれからは正体不明の誰かに嫌がらせを受けることもなければ、持永をダシに杉山からの脅しを受けることもない。互いの言いなりになって、目的を達成させてやったんだから。それに……
ふと思い立って、スマートフォンを手に取った。何もかもを失ってしまったが、そう簡単には認めたくない。取り戻したいというわけではなかったが、最後に声だけでも聞いておきたいと思ったのだ。俺がずっと愛していた、彼女の声を。やかましく騒がしい、大好きなあの声を。あわよくば俺のことをまた助けてくれるんじゃないかと、そう期待して。
――プルルルルルル
発信音が鳴る。何度繰り返したか分からない。1分にも10分にも思えるその時間は、自分の中で時空の歪みとして認識されていた。いつまで経っても鳴り止まず、留守番音声さえも流れない。きっと無視されているに違いない。生まれて初めての"苦しい満足感"に包まれながら、俺はついに電話を切った。
雨は依然として降り続いている。静寂に包まれる沈んだ自室で、ただ一人動けないでいた。電灯の消えている室内はとっくに暗闇と化しており、誰もいない自宅はまるで時間が止まっているようだった。
無意識のうちにブラウザを開いて、とあるページを開く。突然の眩い光のせいで、しばらく目を閉じてしまう。ページを遷移して辿り着いた場所。そこにはこう書かれていた。
――吹奏楽ニュース速報 "⚪︎⚪︎高校" 今年も金賞おめでとう!
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