第九話 柳川咲良

- 後編 -


視点 : 柳川咲良


 20時を過ぎた。そろそろ彼が来る頃だ。すっかり熱にうなされて朝寝坊をしてしまったから、今日はまだ彼とちゃんと話していない。それもこれも全部、土曜に行ったお祭りのせいだ。別に、雨に濡れたから発熱したとかいうわけじゃない。疲れたとかいうわけでもない。ただ初恋の人に告白された……それだけだ。ううん、されてしまった、かな? されちゃった? ふふっ、されちまったのだっ……

「おい」

「ひぃえっ!?」

 ふいに声を掛けられて、自分の口から聞いたことも無いような声を出してしまった。昨日からボーっとしっ放しなせいで、今日はこういうことが多い。あーもう、ちゃんとしないと。彼が笑いながら先に歩いて行ったのを見て、小走りで背中を追いかけた。


 空はとっくに真っ暗で、街灯がちらほら灯っている。田舎だからか車通りもほとんどなくて、下校する生徒も遠くに数人見える程度。この時間まで残っているのは全国進出を決めた吹部くらいだから、そうでないのに残っている私はイレギュラーだ。

「部活どうだった? 全国まで残りひと月もないでしょ?」

「まだ完璧とは言えないな。特に、俺含めた二年が。だから足を引っ張らないように必死に練習してる」

「そっか、頑張れ〜! で、次期部長としてはどうなのかなあ?」

「それは、まあ……」

 春輝の声がくぐもった。やっぱり不安なのかな。でもそれは当然だよね。だって、毎年必ず全国に出ているような学校なんだもん。自信満々なほうがおかしい。

「正直、かなり不安はある。俺なんかには無理だという気持ちも消えてない。でもさ、やりたいっていう気持ちがどんどん湧いてきてんだよ。部長さんにも俺にやらせてください、ってちゃんと言った」

「おっ、マジっ? 凄いじゃん」

「咲良のおかげだよ。その……ありがとな」

 私にしか見せてくれない表情がある。いつだって余裕を携えている彼。それが彼のモテる理由でもある。けれど私の前では、強いところも、弱いところも、カッコいいところも、ダサいところも、ほとんど全部を曝け出してくれるのだ。

「いって……おい」

「あはは、キモっ」

 顔が紅くなってきたのを感じて、誤魔化すために頭を殴ってやった。仕返しなのか、今度は私の肩を小突いてきた。ああ、幸せ……。やりとり自体は普段と変わりないのに、気持ちを確認し合ったというだけでこんなに変わるものなんだなあ。

「お前はどうなんだよ」

「あっ、勉強? うーん、そこそこ」

「……そうか」

「どしたの?」

 彼が表情を曇らせていた。でも何となく、考えていることは想像できる。というよりかは、そう考えていてほしい、という願望なのかもしれないけど。

「志望大学、変えてないんだよな」

「まあね、受かるか分かんないけど」

「これだけ勉強していれば受かる、大丈夫。頑張れよ」

 進路先の大学は、ここから遠く離れている。電車やバスでは行こうとも思えないくらいには遠い。地元の大学を目指している彼はきっと寂しいと思っていることだろうし、私も同じことを思っている。けれど、そのことを口に出してしまうのは些か無粋に思えた。お互いに分かっているんだから、わざわざ言わなくても良いと思った。

「寂しい」

「えっ……」

 まさか彼がそんなことを口に出してくれるとは思っていなかったから、たちまち動揺してしまった。また顔が赤くなってしまう。どうしよう……嬉しい、嬉しい。だって春輝、いつもそういうことだけは言ってくれないんだもん……。前言撤回。やっぱり気持ちはお互いに確かめ合うべきなんだな、と思い直した。

「……私も寂しい」

「な」

 残暑はいまだに消え去らず、夜の風は涼しいけれど肌には汗が滲んでいる。コンビニの明かりが煌々としていて、夏の虫が飛び交っている。もうちょっとで駅に着いてしまうのが嫌で、私は少しだけ歩調を落とした。電車、乗り遅れたいな……。隣を見ると彼が微笑んでいて、同じことを思っているんじゃないかと、勝手に嬉しくなってしまった。


 その週の日曜、部屋で勉強をしていたら春輝から連絡が来た。ちょうど小腹が空いてきてお菓子でも食べようかな、と思っていたところだった。

 ――昼前には終わだけど、どこか行く?

 彼は今日も楽器をピーピーやってるはず。こっそりと慌てながら送ってくれたのか、文字がいくつか抜け落ちている。コンクール前で忙しいというのに、そこまでして私を誘ってくれたことに嬉しくなった。

 ――おなかすいた!

 ――ご飯ね、12時半の一両目で。

 空腹を伝える。すると、すぐに返信が来た。ずっと集中できていたのに、通知が鳴った瞬間から何も手に付かなくなった。手に取ったスマートフォンを額に当てて、目を閉じる。冷房の効いた部屋で聞く蝉の声は、とても心地が良かった。約束した時間まであと2時間くらいある。小腹を満たすのは我慢して、代わりに机に齧り付くことにした。けれど結局は全然身が入らなくて、服を選んだり化粧をしたりで時間が過ぎてしまったのだった。


 夏の暑苦しさは9月後半になっても現役だった。駅に着いて建物の影に入ると、家の近くで鳴いていたのと同じ声の蝉がいた。大声を上げて、必死になって相手を探している。全力を尽くして幸せを掴み取ろうとしているのだ。対して、私は優越感に浸っている。ようやく手に入れたんだ。自分だけの幸せを。

 

 それから彼に会って、一緒に電車の揺れる音を聞いた。駅を出ると強烈な日差しで一瞬倒れそうになったけれど、春輝の隣に居れば少しは楽だ。まあ、やかましい私の相手をしなければならない彼のほうは大変だと思うけどね。

「ねえねえ、そろそろ良いんじゃない……?」

「なにが」

 分かんないかなあ、アレだよアレ……そう言って、手をぶんぶんと振ってやった。すると彼は恥ずかしくなったのか、顔をそっぽに向けてしまう。やっぱ今までずっと友達でいたし、いきなりは流石に困っちゃうよね。もしかしたら嫌かもしれないし。提案しておいて、自分でもちょっとだけ照れくさくなる。

「まぁ……でも、どこで……? 俺、経験ないからあんま分かんないんだよ」

 駅前のロータリーから少し歩いたところ、商業施設の立ち並ぶ道の傍ら。彼は挙動不審になりながら、ぶつぶつ言っている。

「……はあ? どこで?」

「え?」

 もしかして春輝、何か勘違いしてる? まさか……

「もしや、エッチなこと想像してるな?」

 そう言って、自分の胸元を両手で隠す。けれど反応がない。どうしちゃったのかな、図星だったから恥ずかしくなった? そう思って彼の表情を覗いてみると、驚くくらいに赤くなっていた。やめてよ、そんなに照れられたらこっちまで恥ずかしくなってきちゃうじゃん。

「手だよ手、手繋ぐの」

「ああ、そうか、そうだよな。よし、やるか。掛かってこい」

 春輝は何故だか腕まくりしている。こう見えて恋愛経験がほとんど無い彼。冗談でやっていると分かっていても、ちょっと可愛らしい。これが"推しが尊い"ってやつなのか?

「仕方ないなあ……はい」

 彼がいつまで経っても繋いでくれないから、私のほうから手を差し出した。もう、意外と草食系なんだな、君は。

「……え?」

 けれど、彼は隣にいなかった。後ろを振り返ると、私の二歩くらい後ろに一人佇んでいる。その目は私のほう……ではなく、もっと先を見ていた。

「おおっ、まじか。河瀬だろ?」

「久しぶりに見たわ、今でもトロンボーンやってんの?」

 立ちはだかっていたのは二人の男。私服だから確証はないけれど、たぶん高校生。状況を見るに、中学の同級生のようだった。

 友達かな……それにしては、春輝の反応が悪いような気がする。対峙した二人組にばかり気を取られていたから、春輝がどういう反応をしているのかを全然気にしていなかった。もう一度振り返って、彼のほうを見る。

 

 「……」

 

 えっ、何……?

 どうしたの……?

 

 春輝が青ざめている。表情は普段と変わらないけれど、明らかに色が違う。口が少しだけ開いていて、息が荒れているようにも見えた。

「おっ、彼女さんですか? 相変わらずモテるなあ」

「俺ら、中学の同級生です。よろしく」

 二人組の片方が、私に手を差し出してくる。春輝は相変わらず青白くて、さっきよりも姿勢が少し悪くなっていた。手を握り返すか迷って、確認の意を込めてもう一度河瀬のことを見る。


 彼は……笑っていた。

 

 確信した。彼らは私たちの敵だ。

 脳内に走馬灯のようなものが走る。彼に初めて出会ったときから、今日までの全てが思い出された。私が小学生のときからずっと好きだった従兄弟のお兄ちゃん……河瀬春輝のことを。


 大丈夫だからね、春輝。

 大丈夫……

 春輝のことは私が……今度は私が、ちゃんと守ってあげるから。


 中学の頃、親戚の集まりで三年ぶりに彼に再会した時を思い出す。中学生になった彼の表情には以前のような明るさはなく、暗く鬱屈としていた。さっぱりとしていたはずの髪は伸び放題で、似合わない眼鏡まで掛けていた。彼はとても優しくて、ずっと会うのを楽しみにしていたのに。その人物が春輝だと、最初気が付かなかった。誰なのか分からなかったのだ。それは見た目だけの話じゃない。彼の存在そのものが、別の人間になってしまっていたような気がしたのだ。自分で言うのもなんだけれど、私は他人の心を察せるほうだと思う。だからこそ、そう思ってしまったのかもしれない。

 春輝のことが大好きだった。私のことを救ってくれた、大切な人だったから。だからこそ、心配だった。このまま何処かへ行ってしまうんじゃないかって。消えていなくなってしまうんじゃないかって。三年ぶりの彼からは、そんな危うさが感じられた。親戚みんなが集まっていたから訊くにも訊けなかったのだけれど、たまたま二人になったときに悩みを聞き出してみた。

 彼は中学で虐められているらしかった。顔が整っているからか、女子にモテるらしい。春輝はほとんど女子たちを相手にしていなかったみたいだけれど、その行為がむしろ気に食わなかった男子どもに目をつけられたようだった。彼に助けられたことのある私は、今度は自分が救ってあげる番だと思って彼を支えることにした。とはいっても別の学校に通っていたから、話を聴いたり、励ましてやることしか出来ない。本当は学校や親に報告したかったのだけれど、それは本人に強く止められていたのだ。

 彼は相当辛い思いをしていた。頻繁に電話をしていたから、そのほとんど全部を聴かせてくれていたと思う。今度は私が、彼のことを守ってやりたかった。だからこそ、高校は同じところにしたのだ。


「やめてください」


 私はそう言って、差し出された手を払った。振り払われた彼は、困惑の表情をしている。私は振り返って、人形のようになった春輝の手を握った。

「行こ」

 彼は答えない。でも大丈夫。分かってるから。そのまま手を繋いで、彼らから離れる。春輝のほうも、この手に引かれて一緒に歩き出してくれた。

「あの、握手くらいしましょうよ」

 後ろから肩を掴まれた。さっきの手を差し出していた彼だ。

「痛っ……」

 強く握られたうえに早歩きをしていたからか、後ろに仰け反って少し痛かった。微かに声を漏らしてしまう。

 ――パッ

 その瞬間、春輝と繋いでいた手が離れた。私の肩を掴んでいた男の手も離れる。

 隣を見たとき、そこに春輝はいなかった。

 そして結局、デートは中止になった。


 春輝が停学になった三日後、彼の家を訪れていた。停学は一週間の予定だったけれど、吹奏楽部の友達も一緒に掛け合ってくれて、明日からは学校に来れることになった。

 河瀬と書かれた表札を横目に、煉瓦造りの門を通った。玄関先の石段を上がって、カメラ付きインターホンのボタンを押す。するとすぐに足音が聞こえてきて、玄関の扉がガチャリと開けられる。

「何してんの」

「へへ、早退しちゃった」

 彼は何故か、ため息を吐いている。もう……恋人が学校サボってまで会いに来たんだからもっと喜んでよ。曇り空に燻る太陽は、ちょうど真上に来ている頃。昼食だけ食べてすぐに、仮病を使って帰って来たのだ。やれやれといった態度で招き入れられ、リビングを通って二階の彼の部屋に行く。両親は仕事でいないようで、その広い家にいるのは私たち二人だけだった。

「で、今日は何やってたの? ニート?」

 綺麗に整頓された部屋で春輝は椅子に座って、私はというと横柄にもベッドの上で大の字に寝転がっている。そのままにしているとジワジワと汗が布団に吸い込まれていくのを感じ始めて、流石に申し訳ないと思って一応起き上がっておく。

「ニートはサボったお前だろ……課題だよ課題。山ほど出されてんだって」

「あー、なんか言ってたね。停学三日で済んだのに一週間分やらされてるって」

 うちの学校は停学中に課題を出される。すべて終わらせ提出しなければ復学はできないから、春輝はさっきまで必死に机に向かっていたに違いない。その証拠に、勉強机にはノートと課題帳が開かれていた。

「で、何しに来たの」

 春輝がこちらに睨みを効かせながら尋ねてきた。睨んでいるとはいっても、悪意を感じるような目ではない。

「お礼言いたくて。助けてもらったから。ありがと」

「いや……お礼を言わないとなのは俺のほうだから。むしろ申し訳ない、俺の問題に巻き込んで」

「いいよ、でもまさか殴るとは思わなかったなあ」

 私が肩を掴まれた瞬間、春輝は相手の顔面に殴りかかっていた。そのまま押し倒してから、彼はしばらく怒り狂っていた。通行人ともう一人の男が春輝のことを必死に止めたけれど、結局は警察沙汰になってしまい……最終的に停学になってしまった。いや、停学で済んだ、というべきなのかな?

「あのあと色々フォローしてくれてありがとな、助かった」

 春輝はもう私のことを睨んでいない。その目は昔、命を救ってくれた時の彼とまったく同じものだった。親族の子供たちみんなで川遊びに行って、調子に乗って溺れてしまった私。パニックになっていたから気付いていなかったけれど、助けてくれたのは春輝だったらしい。その場には他の子供たちも高校生のお兄さんまでいたのに、川に飛び込んでくれたのは彼たった一人だったという。

 

 太陽が厚い雲の奥に隠れたのか、電気の点いていない部屋がぐっと暗くなる。遮光性の低い薄いカーテンは閉め切られ、冷房の風がその端をひらひらと揺らしていた。

「春輝、ここ」

 私はそう言って、座っているベッドをぽんぽんと叩く。春輝は、仕方ないなあ、という感じで立ち上がって来てくれた。目を合わせたくないのか真正面を眺めながら横に座る彼。

「……」

「……」

 二人の間に、沈黙の時間が流れる。けれど気まずさはひとつもなく、ただひたすらに幸福の香りが漂っていた。薄暗い部屋はしんとしていて、静寂の向こうから聞こえるのは雨の心地良い音だけ。いつの間に降り始めてたんだろう。傘を持ってきていなかったから、ここまで間に合って良かったな……と頭の片隅で思った。

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