第八話 河瀬春輝
視点 : 河瀬春輝
【9月14日(土)】
ようやく最寄り駅に辿り着き、一人で電車を降りた。ドアが開いた瞬間、生ぬるい温風がモワッと顔に纏わりついてくる。
『河瀬君に部長を引き継いで欲しい、これは先輩全員の総意だ』
部長の言葉を思い出す。憧れていた吹奏楽部に入部し、憧れの先輩たちとコンクールに出場。それだけでも夢のようなことであるのに、自分が部長……? 信じることができなかった。何かのドッキリなんじゃないかと思ってしまう。一応俺は二年生の副リーダーではあるが、主導者としての能力は低いと思う。どう考えても中村のほうが部長には向いているはずだし、自分が選ばれる理由が分からなかった。そう思い不躾ながらも尋ねてみた。どうして自分なんでしょうか、と。答えはシンプルだった。部の雰囲気を変えたい――それが、先輩方の狙いだったのだ。
『私らはさ、先代の先輩方に従って厳しく厳しく指導してきたんだよ。後輩の河瀬君は、よーく分かってるよね? でも、それじゃダメだと思ったんだ。今のままじゃあまりに厳格すぎる。特に二年生なんか相当息苦しいでしょう? 私らもそうだったからよーく分かるよ』
二年生は、三学年の中で最も叱られる役回りだ。毎日のように誰かが怒られ、涙を流す者も少なくはない。
『昨今のひと月に一人のペースで退部者が出ている状況は明らかに異常だと思うんだ。いなくなった子たちは取り戻せないのかもしれないけれど、これ以上失うわけにはいかない。だから、河瀬君。我が吹奏楽部に改革を起こして欲しいんだ。頼む、この通り』
そう言って御二方に頭を下げられた。確かに今日、持永が遅刻してきたにも関わらず俺たちが叱られることは無かった。もちろん土下座もしていない。それに先輩方も、ここ数日は柔和になってきているような気がしていた。部のピリピリした雰囲気を軟化させることは、俺も絶対に必要なことだと思っている。だが、自分なんかに出来るのか……? こんな強豪の吹奏楽部で改革を起こすだなんて、明らかに荷が重すぎるんじゃないか……? 無理に決まってる。しかし、やってみたいと思う自分もいた。そんな葛藤の中で、ひとまずはその懇請を一旦保留することにしたのだった。
ボーっとしていると、突然の怒声に襲われた。目の前には休みなのに制服を着ているあいつがいる。駅舎の壁にもたれ掛かり、スマホ片手にこちらを睨んでいた。
「おそい! 何時間待ったと思ってんの!?」
「何時間も待ってないだろ。せいぜい二、三十……」
「遅れるなら連絡してよ! もう帰っちゃったかと思ったじゃん」
取り出したスマホを見てみると、彼女からの通知が何件も表示されていた。考えごとをしていたせいで全く気が付かなかったのだ。もちろんこちらから連絡するなんて発想も、頭の片隅に追いやられてしまっていた。
「すまん、色々あってさ」
「あっそ。どうせ私なんて二の次ですよ」
「三の次かもな?」
「……」
こういう冗談を言えばいつもは馬鹿みたいに笑い出すのに、今日は違った。不機嫌な顔をして、そのまま俯いてしまう。本当に怒っているのかもしれない。まあ、夜遅いしな。
「その……ごめん。部長に話があるって言われてさ、断れなかったんだよ。申し訳ない」
「……」
咲良は無言のまま、スマホを弄り続ける。その時間がどれだけ続いただろうか。彼女は何も言わず、悪いことをしたという引け目がある俺もまた、何も言えなかった。
膠着状態が一分ほど続いて、ふいに咲良が壁から離れた。そして駅を出ると、ゆっくりと歩き始める。お祭り会場のある方ではなく、彼女の自宅がある方面に向けてだった。
「おい、咲良! 悪かったって」
「……」
「仕方ないだろ……俺も早く帰りたかったよ」
「……違う」
彼女は目線を下にやったまま、一言だけ発した。
「何が違うんだ」
「別に遅れたのは良い、仕方ないもん。そうじゃなくて、連絡してくれなかったのがムカつくの」
それはそうだ。彼女はついさっき、帰ったかと思った、と言っていた。来るのが分かっていて待っているのと、来るかどうかも分からないのに待っているのでは大違いだ。彼女にとって、俺を待つことは相当なストレスだったであろうことを、ようやく想像できた。
「……咲良」
「なに」
俺も咲良も立ち止まった。
「本当にすまなかった」
「……」
「今からでも祭り行こうぜ。俺も行きたかったんだよ……咲良とさ」
彼女はずっと、こちらを横目で睨んでいた。しかし俺が頭を下げると、咲良は目を逸らした。何を必死になっているんだ、俺は。想い人でも何でもない、ただの友達じゃないか。けれどだからこそ、大切にしなければならない。ただの友達がどれほど貴重なものなのか、俺は身をもって知っていたから。
「痛っ……!」
「あははっ」
突然、左側頭部に衝撃が走った。咲良がいつものように馬鹿笑いをしている。引っ叩かれたのか、俺は。
「仕方ないなあ、君の為に行ってやろう!」
そう言って、一人逆方向に歩き出す。先ほどまでの重い足取りではなく、軽快なステップを踏んでいた。ひとまず山場は越えたか。これから何とか機嫌を取ってやって、奴の琴線に触れないよう気を付けなければならない。俺はやれやれとため息を吐くと、彼女の背中を早歩きで追いかけたのだった。
それから俺たちは、祭りの会場へと向かった。咲良は何故だかやたらと興奮していて、花火どころか屋台すらほとんど撤収されていたのに、一人で勝手に楽しそうにしていた。とはいえ後の祭りには流石のあいつもすぐに飽きてしまい、人目も憚らず「お腹すいたあ!」と騒ぎ出した。こんな辺境の地に深夜営業のレストランなぞあるはずもなく、仕方なくコンビニに寄ってから帰ることにした。
「ところで……んっ、話って何だったの?」
おむすびの食べ歩きをしながら此方を見やる咲良。せめて食べ終わってから喋れよ、と思ったが面倒なのでわざわざ指摘するのはやめておいた。話とはきっと、部長に呼び出された件についてだろう。
「俺に次期部長をやって欲しいんだとさ」
「は、嘘でしょ? それヤバくない……!? うちの吹部って超強豪でしょ?」
あまりの驚きで口内をひけらかしている馬鹿。汚いからやめて欲しい。だが驚く気持ちは分かる。俺だって、てっきり中村が部長になるもんだと思っていたんだから。はあ、やっぱ向いてないよな。こいつの反応を見て、より自信を失くしてしまった。驚いたということはつまり、俺が部長だなんてあり得ないと思っていたということだ。
「凄いじゃん! 友達がうちの吹奏楽部長だなんて、めっちゃ誇らしいっ。頑張ってね、応援してる!」
「いや、でも迷ってんだよな……」
「は……迷ってる?」
山田部長は、俺に改革を起こして欲しいと言っていた。彼女のことだから大袈裟に言っているのかもしれないが、あながち冗談というわけでもないだろう。俺自身はこれまでに何かのリーダーをやった経験もないし、気安く即答していいようなことではない。
「はーん、さてはビビってるな?」
「チッ……うるせえなあ」
嫌なニヤけ顔に揶揄われる。マジで腹立つなあ。こちとら本気で悩んでいるというのに。しかし彼女の続く言葉は、俺が覚悟を決める決定的なものになった。
「私は部長向いてると思うけどな。はるくんって仲間思いだし責任感もあるし。ほら、ムギちゃんの件だってそうだったでしょ? 無理強いはしないけど、私はやってみても良いと思う」
部長に向いてる……俺が、部長か。彼女との付き合いは長い。彼女には自分の良い面も悪い面も、ほとんど全てを見せてきたと思う。下手すれば、親よりも俺のことをよく知っているんじゃないか。中学の頃に虐められていた時、悩みを打ち明けたのも彼女たった一人だけだ。咲良はそれだけ、人の心を開かせるのが上手いのだ。俺のことをよく知っている彼女の言葉だからこそ、信頼できるものがあった。
「……そうか」
「うん、それに何かあれば私が相談乗るからさ。楽器のことは全然だけど、人間関係のことなら任せて」
よし……決めた。俺は部長をやる。何もかもが初めてだから、辛く苦しい道になるに違いない。でも俺には頼りになる中村もいるし、ずっと待ち望んできた改革を図るのであれば、今の雰囲気に不満を持つ他の部員だって協力してくれるはずだ。それに……咲良もいるんだから。
ふと彼女のほうを見ると、すでに買ったものを全て平らげていた。喋りながらだったのに早すぎないか……? おむすびとかパンとか、色々買った筈なんだけどな……。
「えっ……」
ふいに彼女が素っ頓狂な顔をした。同時に俺も、同じような顔をする。額と腕に、ひんやりとした感覚があった。そう、雨だ。
「やばっ、ゲリラじゃない!?」
「走るぞ」
二滴目を皮切りに、どんどん雨粒が増えていく。遠くからザーッという音が近づいてきて、瞬く間に俺たちのことを呑み込んだ。雷が鳴り始め、辺りがカメラのフラッシュのように輝く。その間も身体は滝行のように濡れ散らし、気付けば着衣水泳でもしているかのような気分になってきた。風に煽られた豪雨が、目の前で交差する。目も開けられなくなってきた頃に大声で叫んだ。
「あそこ入るぞ!」
「……ん」
雨音に紛れて返事が聞こえなかったが、きっと分かってくれた筈だ。指差したほうへと二人は駆けて、ようやく暴風雨から逃れられた。
「……」
「……」
逃げ込んだのは駅の近くにある小さな神社。ほとんど手入れのされていない朽ちかけた社だが、参道近くには小ぢんまりとした東屋を設けてくれている。あちこちで雨漏りしている屋根の下で互いに顔を見合わせ、互いに無言を交わしていた。髪から服から何もかもがびしょ濡れで、咲良の白いブラウスから下着が透けているのに気づいてからは、目線を雨滝のほうへと逸らしていた。
ひとまず背中から下ろしたリュックを漁り、中身の安否を確認する。練習日誌とスケジュール帳、チューナーなんかは無事だった。しかし譜面に関しては、クリアファイルの隙間から水が染み込んで、三分の一くらいが濡らされている。はあ、とため息を吐きながらベンチに紙を広げた。
「最悪だな」
「……うん」
リュックの最深部に押し込められていた綿のタオルを引っ張り出して、そのまま咲良に投げてやった。宙を舞った白い布は、彼女の頭部に覆い被さる。一瞬固まっていたかと思うと、振り返ってタオルを投げ返してきた。
「いや、拭けよ」
「あんたから拭いて」
意外と気使えるんだな、と感心して、遠慮なく自分の髪と身体を拭き始めた。夏だから冷たくはなかったが、服が張り付いていて気持ち悪い。頭部だけを綺麗に拭き取り、服はさっさと諦めた。もう一度、タオルを投げてやる。水を吸ったタオルは宙を羽ばたかず、重量感を纏いながら咲良へと着地した。
「めんどいから拭け」
「は……? まあ、いいけどさ」
何をそんなに偉そうなんだ。しかしまあ、仕方ない。たまには言う通りにしてやるか、と今日くらいは大目に見てやることにした。また不機嫌になられても面倒だしな。
のろのろ立ち上がると彼女の背後に周り、後ろから髪を拭いてやる。気乗り薄で手を動かし始めると、鼻腔に雨臭さが上がってきた。臭いのもとであろう服のほうには、出来るだけ目をやらないようにしている。服といえば、気になることがあった。
「そういえば、なんで制服なんだよ。今日休みだろ?」
「別にいいじゃん」
「……」
それからはずっと無言だった。彼女のジェスチャーに従って前面に周り込み、前髪、顔面と首元までを拭いてやった。
「あとは自分で拭けよ」
そう言ってタオルを手渡す。既に水を吸いすぎた綿は、重くぐしょぐしょになっていた。俺が差し出したタオルを、咲良は受け取らない。おいおい、どこまで俺に拭けって言うんだよ。
「春輝……?」
愚痴をこぼそうとした時、咲良が俺の名を呼んだ。彼女らしくない、弱々しく不安げな声色。彼女の眼差しは俺の両目をじっと見ていて、名はこの間と同じ呼び捨てだった。
――ピシャッ
その瞬間、ふいに境内が光に包まれる。眩しさの余韻で、彼女の姿が歪んで見えた。
「んっ……」
「……っ」
耳鳴りがする。それからすぐに、外で鳴っていたはずの雨音も、遠くの雷音も、何一つ聞こえなくなった。脳髄が酷く高温になって、全身がくまなく痺れていく。手に持った濡れ細ったタオルは、知らないうちに地面へと落ちてしまっていた。花の香りがする。それは多分、彼女のものだ。合わせられた唇から流れ込んできているんだと、そう確信した。
死ぬんじゃないのかというほどに胸が高鳴り、動揺して目も開けられなかった。それから雷のゴロゴロという音が聞こえてきて、ようやく現実へと戻される。咲良の身体が離れて、ようやく少しだけ冷静を取り戻し始めた。離れたあとの彼女の目線は、俺の胸あたりに逸らされている。想定外の出来事に、何も言えない。生まれて初めての他人とのキスは、俺を抜け殻にするには十分過ぎるものだった。彼女が口を開いてくれなければ、俺は死ぬまで声を出せなかったかもしれない。
「……ごめん」
「なにが」
「……嫌だったでしょ」
「どうだろうな」
咲良は気付けばベンチに座っていて、手をもじもじとさせていた。照れているのか、はたまた後悔しているのか。意外と可愛いところもあるんだな、と妙に感心してしまった。
「春輝、好きな人、いるの……?」
途切れ途切れの言葉で尋ねてくる。彼女は相変わらず、俯いたままだった。
「いないけど」
「……そっか」
いない、と答えて良かったのだろうか。咲良は俺のことが好きなのか……? しかし確証はない。キスをされたからといって、それが告白と同義だと思うには経験が少な過ぎた。それに人間は案外、頻繁に口付けをするのかもしれないし。勝手に勘違いをして、恥ずかしい思いをするのだけは嫌だった。
それからしばらく経って雨がすっかり上がったことに気がつくと、咲良が「帰ろ」と言って立ち上がった。もうしばらくこうしていたかったのに、雨を長引かせてくれなかった天の神を少しだけ恨んだ。水滴零れる東屋を抜け出して、アスファルトの道路へと復帰する。祭りの話とか、豪雨の話とか、今日のことを思い返しながら、他愛もない話をして帰った。
「親に連絡しといたか?」
「うん、友達の家で雨宿りしてるって言ってたから」
「そうか」
左手の腕時計見ると、時刻は0時ちょうどを示している。門限を設けていない彼女の両親も、流石に心配している頃だろう。女性を一人で帰すわけにも行かないので、柳川家まで彼女を送り届けたところだった。
「そんじゃ、また月曜な」
「うん……今日は、ありがとね」
「こちらこそ」
名残惜しそうな咲良。それは俺も同じだった。今日は彼女と離れたくない……と、どうしてかそう思った。互いに手を振り合って、互いに見送り合う。俺は後ろを振り返って、自宅のほうへと歩き出した。
頭の中で今日のことを反芻してみる。咲良はどうして、俺にキスなんかしたんだろうか。彼女はやっぱり、俺のことが好きなんだろうか。そんなこと今まで考えたこともなかったが、祭りに誘ってきたときの彼女の態度、今日の彼女の態度。思い返してみると、そうとしか思えなかった。
俺はどうなんだ……?
咲良のことが……好きなのか?
いやいや、彼女は俺のタイプじゃない。彼女に対して恋心なんて一度も抱いたことはない。こんな俺でも片思いをしたことくらいはあるが、それとは全く違う感触だ。
それに、咲良は……
ふと彼女が誰かの恋人になる想像をした。俺なんかと話していたら勘違いされるだろうし、共に登校することもなくなるだろう。男女の仲というのは、そういうものだ。
それでも良いのか……?
思い返せば、俺は咲良に今までどれだけ助けられてきたんだろう。今の俺が普通に学校生活を送れているのも、彼女のおかげだ。悲観的な性格を理解してくれて、ここまで俺の心を開いてくれたのは彼女だけだった。登校する時、駅で彼女を見かけると心から安心する。楽しいと、嬉しいと、悲しいと、辛いと……本心からそう思えるのは、彼女といる時だけなんじゃないか……?
自分では気づいていなかったけれど、もしかすると……
――俺はずっと、咲良のことが好きだったのかもしれない。
走り出していた。咲良はちょうど長い庭を歩いて、家の玄関を開けたところだった。駆ける音に気付き、驚いたような顔でこちらを振り返る。玄関灯の逆光で、彼女の表情は仄かに薄暗い。けれどそれが俺の愛する女性だということを、はっきりと理解することができた。
「はっ、えっ……?」
「咲良」
俺の胸の中で、咲良が狼狽している。突然の出来事で、声も出ないといった感じだ。勘違いだろうと何だろうと構わない。俺は咲良のことが好きだから。これからもずっと、俺のそばにいて欲しい。だからどうしても、気持ちを伝えたかった。
「俺、咲良のことがずっと好きだった」
「……」
「だから、俺と恋人になってくれないか」
キスが嫌だったかと訊かれて、どうだろうと答えた。好きな人の有無を訊かれ、いないと答えた。そんなの、振っているのと同じじゃないか。恋愛経験のない俺でも、考えれば分かることだった。勘違いしてほしくない。なぜなら俺は、咲良のことが好きなのだから。
「……うん、私も」
彼女はそうとだけ言って、身体を抱き返してくれた。制服はまだ濡れていて、僅かにひんやりとする。しかしすぐに体温が伝わってきて、同時に皮膚の奥底からも熱が昇ってきた。咲良が泣いている。俺は涙を堪えていた。それが、俺の人生で最も幸せだった瞬間だった。
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