間章 あの出来事
窓の開け放たれた七月の教室は、湿度の高い不快な空気に支配されていた。ベージュの薄いカーテンが靡いてはいるが、風はほとんど室内を冷やしてはくれていない。まばらに残った数人の生徒たちも、そのほとんどが暑さにやられているように見えた。
――委員長、これやっといて?
とある女子生徒が、ふいに後ろから声を掛けられた。声の主のほうも女子生徒で、何やらいくつかの書類を差し出している。
「なに、これ?」
「配っといてってこと、見れば分かるでしょ」
「あ、うん、分かった……」
委員長と呼ばれたほうが、渡された紙の束を机に仕舞い込む。きっと授業か何かのプリントだろう。今はまだ昼休みだから、皆が席に着いているときに配るようだ。
――ねぇ、委員長?
今度は廊下から入ってきた別の女子生徒。同じように彼女のもとへと駆け寄ってくる。
「うん……?」
「川口くんに今日図書室担当だったこと言ってくれてたよね?」
「えっ、あっ、ごめん。忘れてた……」
「えー、伝えておいてって昨日言ったじゃん。意味分かんない」
「ごめん……」
その生徒は今、図書室担当をするはずだった川口という別の生徒を探していたようだ。しかし見つからず、委員長のもとへと訊きに来たらしい。
「ねぇ、図書室行ってくれない?」
「えっ、でも私やり方分からないし……」
「知らないよー、委員長が伝えなかったのが悪いんだから何とかしてよ」
「うん、分かった……」
彼女は机でしていた作業を中断して、教室を出た。おそらく図書室へと向かうのだろう。廊下を歩いて、クラスをいくつか通り過ぎる。階段を上って、そのまま右に曲がれば目的の場所だ。
――有希ぃ?
皆に人気の委員長が、再び声を掛けられた。階段を上る足を止め、後ろを振り返る。そこにいたのは、髪の短い小柄な女生徒だった。
「有希ぃ〜、暇だから何かしよ〜」
「あっ、芽衣」
今度は頼み事ではなく、暇つぶしの誘いだった。恐らく彼女は友達なのだろう。委員長に対して後ろから抱きつき、猫なで声を出している。
「ごめん、今から図書室行かないと……」
「図書室? なんで?」
芽衣と呼ばれた女生徒に対して、ことの顛末を説明する委員長。すると芽衣はみるみる表情を変え、彼女から離れた。
「それ意味分かんなくない? そもそも自分で伝えろって話でしょ?」
「うん……でも、私が忘れてたのは良くなかったし……」
「何言ってんの? そんなだからいつもこき使われるんだよ?」
芽衣が怒り狂い、もう片方はそれを見て宥めようと必死になっている。時折通過する他の生徒たちが、彼女らに対して好奇の目を向けていた。
「大丈夫だから……私、暇だし」
「有希も有希だよ……はぁ、もういい」
そう言い残して、芽衣はどこかへ去ってしまった。取り残された委員長は、踵を返して、再び図書室のほうへと向かったのだった。
残り二週間ほどで夏休みが始まるという頃、美化担当がこのクラスにも回ってきた。クラスから選ばれた数人が、毎朝正門の掃除をしなければならないというものだ。全校のクラスが二週間交代で行っており、一学期最後はどうやら委員長たちのクラスらしい。
「あっつい……」
「暑いねぇ」
生徒がぽつぽつと入ってきているなか、二人の女子生徒が正門前で箒を掃いている。どこかで見た二人。それは委員長と、その友達の芽衣だった。
「っていうかさ、あの男子どもは?」
「うん……来ないんだろうね」
掃除担当は彼女ら二人だけではなかった。本来ならあと二人、いるはずなのだ。
「来ないんだろうねって、委員長なんだから怒ってよー」
「ええ……だってなんか怖いし」
「あんなの不良ぶってるだけで、中身はただの子供だよ。まぁ、有希はあいつらじゃなくても怒るなんて出来ないだろうけど……」
「うん……そうかも」
それからしばらく掃除をしたのち、二人で道具を片付けてから、教室へと帰った。委員長も芽衣もいつもの調子で、何ら変わりのない日常風景だった。
夏休みまであと三日。掃除をしなければならないのもあと二日だけで、明日が最後だった。
「……」
「……」
今日もいつもと変わらず、二人で正門の掃除。結局男子二人はあれから一度も来ておらず、委員長も彼らに対してもちろん叱るなどはしているはずもなかった。
「……」
「……」
いつもは男子の愚痴やくだらない話を仕掛ける芽衣。しかし、今日はいつもと様子が違う。なんだか不機嫌というか、真剣な表情をしているように見えた。
それからしばらく掃除を続け、終わりの時間になった頃、ついに芽衣が口を開いた。
「有希、これ、返しといて」
「え、あ、うん」
突き出してきたのは掃除に使った箒。いつもは二人で仲良く片付けに行くのだが、今日はそうではないらしい。
「私、あいつらに言ってくる」
「え、大丈夫……?」
「……」
心配をよそに、彼女は怒ったような歩調でその場を去って行った。一人取り残された委員長。しばらく心配そうに去ったほうを眺めていたが、すぐに我に返って、掃除用具を返しに行ったのだった。
取り残された彼女が教室へ戻ると、いつもとは違う、ただならぬ雰囲気がそこにはあった。その中心にいるのは例の男子二人、そして……芽衣だ。
「だってっ……ううっ……あんたたちがっ……」
「女ってすぐ泣くよな」
「こんなんで泣くなよ」
教室の出入り口で固まってしまっている委員長。その姿を確認した数人が、彼女に声を掛ける。何とかしてよ、委員長でしょ?
「いいからっ……そうじ……来てよぉ……」
「なことより、ションベン行こうぜ」
「そうだな」
彼女にとって、芽衣は心の支えになっていた。何故なら、委員長のことを対等な"友達"として扱ってくれる唯一のクラスメイトだったからだ。そんな大切な親友が、正しいことをしたにも関わらず、理不尽にも泣かされている。
芽衣が有希の前で泣いたのは、これが初めてだった。
「何してんだよ!!」
その瞬間、騒がしかった教室がしんと静まり返った。皆の視線が怒声のしたほうへと集まる。そこにいたのは男子でも先生でもない。学級委員長、中村有希だった。
「女子のこと泣かせて、恥ずかしくないの!? 悪いのお前らでしょ!? 自分たちが悪いのに、どうして謝れないの!?」
しんとした教室に、有希の叫び声だけが響き渡る。明らかに異常な事態であるのに、誰も止めようとはしない。それは有希が正しいと、誰もが思っていたからからだろう。
「お前ら、謝れよ!!」
「いや……あー……」
「嫌じゃない!! 謝れ!」
怒りを向けられた男子二人が、お互いに顔を見合わせている。彼らに先ほどまでのふざけた調子はなく、ただ困惑しているような、そんな表情をしていた。それから男子二人はそれぞれ芽衣に謝罪をし、バツが悪そうにどこかへ行ってしまったのだった。
蝉の声がこれでもかという程に降り注ぐ七月中旬。この学校の登校日も明日までで、正門を掃除する生徒たちの仕事も、今日が最後だ。
「あっつい……」
「暑いねぇ」
いつもの二人、いつもの会話。何も変わらぬ日常風景……に思えたが、今日だけは少し違った。
「にしても有希、やれば出来るじゃん」
「ん、何が?」
「ほら、あいつらもこうやって来たわけだし」
「あぁ……」
サボり常習犯だった男子二人も有希に恐れをなしたのか、何なら女子二人よりも早くに来て真面目に掃除をしていた。
「ね、有希」
「ん?」
「私のこと、庇ってくれてありがとね」
「え、あ……うん。だって友達が泣かされてるなんて、許せないじゃん」
「ふふっ、ありがと」
いつもとは違うけれど、いつもより楽しそうな二人。彼女らの絆は、それ以来、より深まったことだろう。
そして、変わったのは彼女らの関係性だけではない。有希の性格もそうだった。彼女はそれ以来、何かあるたびにきちんと自分の意思を伝えて、はっきりと主張するようになる。委員長としてはもちろん、人としてだんだんと上手く立ち回れるようになってきたのだ。
これは中村有希が、一人の人間になるための、重要な出来事だった。
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