第四話 河瀬春輝
視点 : 河瀬春輝
【9月10日(火)】
学校に辿り着き、靴を履き替える。咲良はいつものように勉学に励むようで、逆の方向へと歩いて行った。あいつ、キャラに見合わず勉強ばっかしてんだよな。大学も某有名大学を目指しているらしいし、そういうところは少しだけ惹かれてしまう。とはいってもムカつくところが大部分を占めているせいで、恋愛対象としては欠片も見れないが。
それから何とか部室前まで上がってきて、スリッパを履物入れに並べる。見ると既に何人かは来ているようだった。それからいつも通り後ろを振り返り、置かれた巨大なガラスケースに目をやる。
「……よし」
棚に飾られている歴代の先輩たちの栄光の証、トロフィーや盾がいくつも並べられている。強豪の風格を漂わせるような壮観な光景。入学して初めてここを訪れた時は、あまりの興奮にフラフラと倒れそうになったのを覚えている。憧れの先生に、憧れの先輩。中弛みの気配がある二年次でも、これを見ると初心が蘇って気が引き締まるのだった。
「河瀬くん、おはよ」
「えっ、ああ、中村さんか。おはよう」
栄光に気を取られていると、ふいに声を掛けられた。驚いて肩を震わせてしまう。声のしたほうに目をやると、そこにいたのは同級の中村。当然であるが彼女も地獄の階段の被害者のようで、額から並々ならぬ汗の滴を垂らしていた。
「凄いよね、先輩方。去年も全国ゴールドだったし、私らも頑張らないとね」
「そうだな、俺らが足引っ張らないようにしないと」
トロフィーに見惚れていたことに気付いたのか、中村が鼓舞を送ってくれる。対して、笑顔を返した。彼女は吹奏楽に真摯に向き合って、本気で部活を頑張っている二年生のリーダー。中途半端な俺は彼女にたくさんのことを学んでいるし、同学年では一番尊敬している部員だ。咲良といた時は引き摺られてついダラけてしまいそうになったが、ここに来るとそれも消え去る。心の中で中村に感謝をして、部室へと入ることにした。
朝練が終わり、授業を受ける。朝が早いせいで一限目から寝てしまったが、その後はどうにか起きていた。朝練なんて眠くなるだけなんだからやめて欲しい、そう思ったけれどコンクールが近いのだから仕方ないと自分を無理やり納得させる。そして昼休みになり昼食を終えると、ミーティングの名目で二年生が部室に集められた。
「中村さん、どういうことですか。持永さんの遅刻はもう四度目ですが。はい、これまでに行った対策を教えてください」
後輩を叱る時に敬語を使う中条先輩は、吹奏楽部の副部長だ。彼女が二年生リーダーの中村を責め立てていた。敬語を使うというと丁寧に感じられるのかもしれないが、実際にはかなり嫌味ったらしい言い方をする。正座させられている中村のつま先が、かすかに動いていた。イライラしているのか。だが、それも無理はない。遅刻したのは彼女ではなく、持永なのだから。連帯責任なんて軋轢を生むだけなのだから、廃止するべきだと思う。しかし伝統なのだから仕方がない。長年続く風習に、二年の一部員が逆らうのはあまりにも無謀すぎた。
「どうして答えられないんでしょうか? 何も対策していないということですか?」
「事態を甘く見ていました。私の思慮不足です。すみませんでした」
中村が両手を膝の前に揃えた。そのまま頭を下げ、額を床に擦り付ける。まるで教科書にでも載っていそうなくらいの美しい土下座だった。合わせて他の部員たちも頭を下げようとする。それはもちろん俺も例外ではない。
「質問に答えなよ!! 対策したのかしなかったのか聞いてんだよ!!」
すると中条先輩が怒号を放った。既に敬語は失われている。突然の怒声に頭を半分まで下げていた部員たちはビクッと跳ね上がっていたが、中村だけは微塵も動じていなかった。そのままゆっくりと、彼女は頭を半分だけ起こした。
「私の考えが甘く、何も対策していませんでした。持永と共にしっかりと話し合って、二度と同じことが起きないようにします。本当にすみませんでした」
身体を半分だけ起こしていた彼女が、もう一度額を床に引っ付けた。俺も今度こそは最後まで頭を下げる。中条先輩はそれから何も言わず、他の先輩たちと連れ立って部室を無言のまま出て行った。残されたのは正座させられた二年の選抜メンバー9人。
「ごめんなさい……気を付けます」
皆が顔を見合わせていた中、持永が謝罪する。その場のほぼ全員が、はあ……とため息を吐いた。いつものことだ。そしてまた遅刻するのだろう。
――スタスタ
中村が立ち上がったかと思うと、そそくさと部室を出て行った。持永がそれをじっと見つめている。罪悪感を覚えているのか、そのまま頭を項垂れた。何度叱られても一向に改善しない遅刻癖。俺は何か理由があるのだろうと確信していた。こんなところで不躾のような気もしたが、思い切って訊いてみることにする。
「持永、いつも寝坊してんの?」
「……うん」
彼女が項垂れたまま頷く。表情は見えず、何を考えているのかはっきりとは分からない。
「何かの病気とか? ほら、起立性なんとか障害だっけ、それか?」
「……ううん」
今度は首を振った。ならば家庭の事情とか、何か悩みがあるとかだろうか? 何にせよ、ただダラけているという理由ではないと思う。持永はこう見えて根は真面目だし、今だって心から反省しているように見える。それに彼女が吹奏楽を愛しているのは間違いない。こんなところで手を抜くような人には見えなかった。
「もし悩みがあるなら話してくれよ。相談乗ってやるからさ」
すでに他の部員は部室を出て、残されたのは俺たち二人だけになっている。遠くから生徒たちの楽しそうな笑い声が聞こえていて、それが部室の暗い雰囲気との明確なコントラストになっていた。
「……いい。ありがとう」
持永はそうとだけ言い残すと、スタスタと部室を出て行ってしまった。
「おい、持永……!」
一人残された空間で、不快な余韻に浸る。ふと上を見上げると、額縁に入れられた賞状が無数に飾られていた。全国大会金賞、全国大会金賞、全国大会金賞、全国大会金賞……。普段なら部員たちのモチベーションを高めてくれる師匠のような存在。けれど今は、取り囲むように飾られた賞状たちが俺のことを見下ろしていて、まるで先人たちが揃いも揃って自分のことを責め立てているようにしか見えなかった。ああ、ダメだ。悲観的なのは中学で卒業しようと決めたのに、やっぱり本性には抗えないんだ。そのまま壁を打ち壊すように立ち上がって、部室を出た。持永は質問に対して"悩みはない"ではなく、"いい"と答えた。つまり、悩みはあるけれど聞いてもらわなくてもいい……ということなんじゃないだろうか。そうだとすれば、自身のせいで周りに迷惑をかけている彼女は相当な罪悪感を覚えているのではないだろうか。中村は持永と仲が良かったはずだ。悩みを聞いてあげたことはあるのだろうか。
そんな考え事をしていたせいで、部室の鍵を閉め忘れてしまったことにようやく気が付いた。最後に出たのだから、一旦鍵は戻さなければならない。そう思ってからすぐに引き返したが部室の扉は施錠されていて、職員室の鍵置き場を確認するときちんと返却されていた。面倒だったから先生には尋ねなかったが、帰り際に目の端で持永の後ろ姿を見たのは気のせいだったのだろうか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます