第三話 中村有希
視点 : 中村有希
【9月10日(火)】
始発で登校した私は、靴を履き替え真っ先に部室へと向かう。いつもの日課。今日もこれから朝練だ。着の身そのままに廊下を渡って、離れの別棟へと向かった。窓の閉め切られた地獄の階段を上がって、目的のフロアにようやく辿り着く。夏がもうすぐ去るとはいえ、綺麗なままで上ってくるのは不可能に近い。そんなこんなで部室の前まで来ると、履物入れに背を向けてボーっとしている男子生徒の姿が目に入った。
「河瀬くん、おはよ」
「えっ、ああ、中村さんか。おはよう」
河瀬は驚いた感じで、目を見開きながらこちらを見た。私だと気づくと安心したようで、ふうと息を吐いている。彼がさっきまで見ていたのは、部室前に鎮座する四段構えの大きなガラスケースだった。中には栄光の証であるトロフィーだとか盾だとかが所狭しと敷き詰められている。
「凄いよね、先輩方。去年も全国ゴールドだったし、私らも頑張らないとね」
「そうだな、俺らが足引っ張らないようにしないと」
笑顔で答える河瀬。余裕のある彼の表情は、女子からの人気が高い。現に今の私だって、不本意ながら少しだけドキリとしてしまった。けれど問題は、好意の波が先輩方にも波及しているということ。もしかすると河瀬は"単にモテている"という理由だけで部長候補になっているのかもしれない。もしそうだとするならば、私は決して河瀬を許さない。このままだと強豪である吹奏楽部も、うちらの代で弱小になってしまうんじゃないか。私はそんな捻くれたことを考えながら、部室に入っていく彼の後ろ姿を横目で睨み付けていた。
二年の選抜メンバー皆で楽器や譜面の用意を済ませた後、しばらくして練習が始まった。けれどどうしてか、先輩方はずっとピリピリしている。どうしてか……いや、理由は分かり切っていた。
「持永、またか」
顧問の先生が、呆れたように呟いた。ツムギがいない。連絡もない。先生は既に、彼女のことを諦めているようだった。ううん、違う。諦めているというより"見逃してあげている"の方が正しいのかも。ツムギはアルトサックス担当なのだけれど、その実力は高校生のレベルを遥かに超えている。実際に去年も一年生で唯一コンクールメンバーに選抜されて、渾身のソロパートで先輩方の金賞に大いに貢献していた。だから先生だけじゃなく、先輩方も同じようにツムギには甘い。
「……」
顧問の一言とともに、先輩方の目線が鋭くなる。それはツムギに対してではなく、私たち二年生に向けてのものだった。一年生の失態は二年生の責任、二年生の失態は二年生による連帯責任。それがうちの部の掟だ。昔からの風習である。ああ、この後昼休みにでも、私たちは先輩方に徹底的に搾られるんだろう。今日もまた、重い一日になりそうだと気が沈んだ。
結局ツムギは、授業を遮るようにして登校してきた。今日の一限目を担当していた国語教諭が、彼女の持ってきた遅刻届を仕方ないなというふうに受け取る。ツムギはそのまま、何事もなかったかのように席に着いた。ここでもそう。彼女は何故か贔屓されている。
――どうして? 頭が良いから?
でも私にはツムギの頭が良いだなんて、とても思えなかった。彼女は馬鹿ばっかりやってるし、宿題だってちゃんとやって来ない。それに賢い人なら、朝くらい起きれるように少しは考えられるはずだよね? とはいえ成績だけは良くて、いつも学年上位の常連だ。あれだけ適当にやってあれだけ点が取れるのなら……やっぱり頭が良いのかもしれない。
私はずっと羨ましかった。毎日全力で頑張って、それなのに彼女には到底追いつけそうにない。楽器を始めた時期は同じ頃なはずなのに。勉強だって私は部活のほうで手一杯で、成績は下がる一方だった。それに彼女は、私の尊敬する顧問の先生にも好かれている。
――羨ましい、羨ましい
その羨望は私の内なるところで腐敗して、気付けば嫉妬へと変わってしまっていた。ツムギが妬ましい、嫉ましい。このムカつきを全部ぶつけてやりたい。でも彼女は良い子だ。私にも夏菜子にも優しい。それに、彼女に当たったところで何も変わらない。そんなことするべきじゃない、と抑えてきた。
でも、もう我慢できない。割を食わされているのはいつも私たちだ。友達だからと今まで甘く見ていたけれど、一度くらいちゃんと怒らなければならない。でないと、ツムギはどんどんダメになっていってしまう。きちんと注意してあげて、遅刻しないようにするにはどうすれば良いかを一緒に考えてあげる。そうすれば彼女はもっと皆に好かれるに違いない。いくら嫉妬心があるとはいえ、大好きな友達だ。それに、私たちが叱責されることも減るだろうし。彼女のためになるように、私も全力を尽くしたかった。
部活が終わった放課後、私たちはまたいつもの三人で家路に着いていた。いつも通りコンビニに寄って、いつものように二人分を私が奢った。朝のことを申し訳ないと思っていたのかツムギは何もいらないと言っていたけど、無理矢理にでも買わせてやった。普段優しくて親切な人にこそ、怒られると心に響く。その為だった。
「ツムギ、ちょっと話があるんだけど……」
「……えっ?」
いつもなら、私よりも手前の駅でツムギは降りる。夏菜子と一緒に。今回も普段通り降りようとしていたけれど、私は彼女のことを右手で引き留めた。ツムギはひどく動揺している。降りた先のプラットホームで、夏菜子が心配そうにこちらを見ていた。
「もう、仕方ないなあ?」
ツムギは、はいはいと不貞腐れたような態度で電車に残ることを選んでくれた……口だけは。けれどその表情は固く、やっぱり何かに怯えているように見える。何をそんなに怖がってるんだろ? 私って、そんなに恐ろしいのかな?
そのまま次の駅まで揺られて、どうしてか大人しくなった彼女と一緒に電車を降りた。駅を出ると、横に並んで一緒に歩いた。
「有希ち、どこ行くの? 有希ちの家?」
黙りこくっていたツムギがようやく話し出す。いつもと同じ彼女の雰囲気で、私は少しだけ安心した。
「うーん、公園みたいなとこ? ゆっくり話せる場所が良いかな、と思って」
「そんな真剣な話なの? 早く帰らないとなのになあ〜」
「……」
なんなの、こいつ? 反省してるんじゃなかったのかよ。そっぽを向きながら下唇を出している彼女の表情から、反省の意は読み取れない。落ち込んでいるふりをして同情を誘う作戦だったとか? さっきまで怯えていたのだって、私の怒りのボルテージを下げるための演技だったのかもしれない。彼女の態度がそうとしか思えず、ふと頭の片隅で神経が切れるような感じがした。
目的の場所に着くと、私とツムギはほとんど朽ちかけた木製のベンチに座った。彼女はここの雰囲気に慣れないようで、キョロキョロと辺りを見回している。
「ねえ、ここ何? 怖いんだけ……」
「なんでいつも遅刻するの?」
私はツムギの言葉を遮って、さっそく本題に入る。辺りはまだ夕焼けが残っているけれど、もうじき暗くなってしまう。早いところ終わらせないと、彼女の家族も心配するに違いない。
「……」
さっきまで突き出していた下唇を、今度は上の歯で噛み締めている。そしてまた、黙りこくってしまった。私はあくまで優しい口調で、それでも言葉は自然と強いものになる。これは私の悪い癖だ。
「黙ってちゃ分かんない。なんでって訊いてるんだけど?」
「……から」
「うん?」
「朝起きれないから……」
遅刻の理由なんて、ほとんどが寝坊だ。ツムギもやっぱりそうだったみたい。
「寝坊しないために何か対策してる?」
「……」
この公園に遊具は何もない。あるのは横長の古いベンチだけ。雑草の生え散らかる寂しい空間で、無言の時間がしばらく続いた。
「だから、黙ってちゃ分かんないって……」
私は呆れたように、同じ台詞を吐く。無意識のうちに、口調が段々と強くなってきているのが自分でも分かった。
「……」
ツムギはじっとして、ただ顔を俯けていた。対策を何もしていないのなら、そう言えば良いのに。遅刻しないように一緒に考えてあげようと思って、こうして時間を作ってあげたんだけどなあ。お互いが何も言わないせいで、蝉の声が無駄にはっきりと聞こえる。たいして涼しくもない白露の風が、彼女の短い前髪を揺らしていた。
「……」
ツムギが少しだけ顔を上げた。そして彼女のその行為が、私の琴線に触れることになってしまう。
「は?」
自分の口から出たとは思えないくらいに冷たい声。聞いた彼女はビクッと肩を震わせ、すぐに顔を引き攣らせた。
「何睨んでんの?」
「睨んでない……違う……」
どう見ても睨んでいたのに、ツムギの口から出たのは否定の言葉だった。そのせいでまたイライラしてしまう。落ち着かなきゃ……。このままだと仲違いしてしまうかもしれない。
「ごめん、ちょっとピリピリしちゃって。それで……目覚ましは掛けてる?」
「……うん」
「そっか、何時に寝てるの?」
「……2時くらい」
朝練は7時に始まる。つまり始発に乗って来なければ間に合わないのだ。その為には遅くとも5時には起きなければ、電車に乗るのが難しくなってしまう。だから私は12時には寝て、4時半には起きている。
「2時に寝てたら寝坊もするでしょ? もっと早く寝ないと……そんな時間まで何してるの?」
「……色々」
「色々って?」
「……」
また黙ってしまった。私たちの仲なんだから、正直に言えばいいのに。どうしてそんな他人行儀なんだろう。どう言おうか考えていると、ツムギが突然立ち上がった。
「ちょっと、どこ行くの?」
「……早く寝ないとまた寝坊するから」
だからといって、話を切り上げて良い理由にはならない。どうせ家に帰っても、しょうもないことをやっているだけだ。ツムギのことだから、夜遅くまで遊んで、それで遅刻しているのは分かってる。
「痛いっ!」
「あっ……」
私はツムギのことを引き止めようと、彼女の肩に手を伸ばした。けれど彼女が不意に方向を変えてしまったせいで、その後ろ髪を掴んでしまった。小走りで去ろうとしていたせいで、勢いよく引かれた髪が何本か抜けてしまう。
「……」
「……最低」
私のほうも動揺してしまって、咄嗟に謝れなかった。そのせいで誤解させてしまった。自分が暴力を振るわれたんじゃないかと。悪意を向けられたんじゃないかと。ツムギは私のことを、今度ははっきりと睨み付けていた。
「最低って……最低なのはあんたでしょ!?」
後に、今日のことを心から後悔することになる。もちろんそうなるだろうことは、この時にも予想はできていた。でも、我慢できなかった。ツムギに対する日々のストレスが、嫉妬心と恨みが。彼女の一言によって、それらが爆発してしまった瞬間だった。
「何回も何回も遅刻して! 怒られるのはいっつも私らなんだよ!? いい加減にしてよ!」
「……」
「良いよねあんたは。先生にも先輩にも贔屓されて、ほんと羨ましいわ」
「そんなことな……」
「そんなことあるでしょ!? 私の方がどう見ても頑張ってるのに、あんたばっかり良い思いして!」
「離して……お願い……」
私はツムギの後ろ髪を鷲掴みにし、目の前のボロベンチへと押し付けていた。彼女は既にボロボロに泣いていて、助けを乞うように声を絞り出している。いつものようなおちゃらけた姿は欠片も残っておらず、ツムギはただの虐められっ子へと成り変わってしまっていた。
「自分ばっかり……」
「有希……どうしちゃったの……おかしいよ……」
「はあ!? おかしいのはあんたでしょ!」
より強く、顔面をベンチに叩き付けてやる。するとより一層、泣き声を大きくした。この公園の周囲に民家や建物はなく、どこまでも続く田園風景だけがある。人気はなく、大声を出しても誰かに不審に思われることもない。そのことが災いして、暴力行為は際限なくエスカレートしていく。
「うっ……」
ツムギの髪を引っ張り、立たせてやる。そして腹を蹴り飛ばし、地面に這わせた。呻き声を上げながら倒れた彼女は、まるで芋虫のように丸まって啜り泣いている。申し訳ないとかいう気持ちはとうに蒸発していて、彼女への復讐心だけが脳内を支配していた。
「謝れよ」
「やっ……めて……」
横顔を右足で、思い切り踏み付けた。まさか踏まれるとは思っていなかったのか、頬が抵抗もなく地面に叩きつけられる。同時にぐっ、という濁った声を漏らしていた。靴に付着した土とか砂とかが、ツムギの"整った顔面"を汚していく。そう、彼女は可愛いのだ。それがまた嫉妬心を高みへと持ち上げてしまう。
「謝れって言ってんだから謝れっ!!」
「……」
遠慮なく力任せに叫ぶ。既にほとんど理性を失っていた。それでも彼女は謝らない。私に頬を踏みつけられ、どんどん汚れていく。思い切り力を入れているから、相当痛いに違いない。ツムギの涙が地面に垂れて、黒い跡が染みている。ここまでされても謝れないなんて、よっぽどプライドが高いんだね。そう、思った。
「何してんの!!」
「えっ……?」
公園の入り口から走ってくる制服姿の女子高生がいる。夏菜子だった。私は咄嗟に足を引っ込め、二歩だけ後ろに引き下がった。
「有希!! これどういうこと!?」
「……」
いつも落ち着いていて柔らかい表情の夏菜子。その夏菜子が見たことのないような厳しい表情をしている。ツムギのほうは相変わらず地面に伏せたままで、一人でぐずぐずと泣き続けていた。
「……」
「ね、有希? 何か言って……?」
やりすぎた。自覚した途端、背筋がサーっと凍り付く。私がしてしまったのは、れっきとした暴力だ。彼女がいったような最低な行為に違いないし、決して許されるようなことじゃない。しかも相手は、いつもよくしてくれる親友だ。でも……ツムギはツムギで悪いと思う気持ちもある。実際私たちが連帯責任の被害を被っているわけだし、きちんと謝罪をしないのは良くない。脳内で対極の思考がぶつかり合って、結局自分も沈黙することになった。
「本当に……すみません、でした……」
「ツムギ!? やめて! ね、もういいよね、有希?」
油断していたら、ツムギが土下座していた。泣きながら、謝罪の言葉を吐き出している。まるで命乞いでもされているような気分。一方で夏菜子のほうは、額を地面に擦り付ける彼女を起き上がらせようと必死だった。
「ツムギ、ごめん。イライラしちゃって、やり過ぎた……ごめん」
「ほら、有希がもういいって言ってるから! 顔上げて!」
ゆっくりと、恐る恐るといった感じで頭を上げるツムギ。顔面は涙でボロボロ、至る所が砂で汚されていた。頬からはかすかに血液が垂れているのが見える。夏菜子は彼女のことを横から抱きしめて、大丈夫大丈夫、と慰めていた。何なの、私が全部悪いみたいじゃん。ツムギだって悪いのに。そうは思いながらも何とか理性を取り戻した。
「何があったの? 話って何だったの?」
夏菜子がこちらに向き直って、私の目を見つめている。その表情はさっきまでの厳しいものではなく、普段の優しい夏菜子に戻っていた。ちょっとだけ安心する。
「ツムギがよく遅刻するでしょ……? 注意しようと思って……でも、言い過ぎちゃったの。ごめん」
「……そっか」
夏菜子は背筋をピンとしたまま、私とツムギを見比べている。何を考えているのか、彼女はそれから何も言わなかった。また沈黙の時間がやってきて、だいぶ暗くなった公園にツムギが鼻を啜る音が響いている。
「あのね、ツムギには事情があるの」
「……だめっ」
夏菜子が何か言った。その一言をツムギが制止する。何か隠し事がある? それも友達の私も知らない……? ならどうして、夏菜子は知っているんだろう……?
「ツムギは父子家庭でね、まだ小学校にも上がっていない妹が二人いるの」
「……」
妹がいたなんて初耳だった。ずっと一人っ子だと思っていたのに。夏菜子がツムギの膝に手を置きながら、淡々と話す。ツムギのほうは諦めたのか、地面に正座をしたまま呆然としていた。
「でもお父さんはお仕事が忙しいみたいで、あんまり面倒を見れないのよね。だからツムギがお母さん代わりになってるんだよね?」
「……うん」
全然知らなかった。あのツムギがお母さん代わり……? いつもふざけてばかりのツムギが……? 想像もつかなくて、まだ信じることができない。でもこれだけ真剣に目を見て話してくれているのだから、きっと嘘ではないんだろう。けれどどうして、今まで隠していたのかが分からなかった。皆にひけらかすようなことではないけれど、私にくらい言ってくれても良いんじゃないの?
「だから許してあげて。遅刻するのも寝坊じゃなくて、妹たちを園に送り出したりしてあげてるだけだから。仕方ないの」
「ごめん、私が悪かった……全然知らなかった」
顧問とか先輩は分からないけれど、先生たちが贔屓……いや、配慮しているのはその為かもしれない。確かに頭が良いだけで贔屓されるようなことは無いよね。正直、浅はかだったと思う。姿勢を正して、ツムギに対して頭を下げた。でも、やっぱり疑問は残る。
「でもなんで私に隠してたの? 公に言うようなことではないかもだけど、私にくらい言ってくれても良かったよね? それか、私もしかして嫌われてる……?」
「違うよ……! 私もツムギも、有希のこと好きだし信頼してる。だけどね、それも理由があるの。私は昔からの仲だから知っちゃったんだけど……」
「だめっ!!」
ツムギがまた夏菜子を制止する。それは先ほどの数倍は強いものだった。夏菜子はその声でビクッと震えて、慌てて口を押さえる。情に流されると口が軽くなるのは、彼女の悪い癖だ。相手がツムギだったから良かったものの、私も一度だけ秘密をバラされたことがある。気を付けてと注意したのに、まだ直ってなかったみたい。
「ツムギ……本当にごめんなさい。そんな事情があったなんて知らなくて……ほんとに……ごめん」
やめて、私。お願いだから、やめて……そんなことしちゃいけない。取り返しつかなくなるよ……? せっかく出来た友達なのに……仲直りできそうなのに……ここで思い止まってよ……お願い……。秘密を無理に言う必要はないよ、と優しく言ってあげて……?
「ツムギ……本当に、申し訳なかったです」
「うん、分かった……」
行動が理性を裏切り、身体が勝手に膝をついていた。ツムギに向かって土下座する私、対して優しい表情を浮かべる二人。すべてが思惑通りだった。全身を使って謝罪する私に、二人は慈悲のオーラを流し込んでくれている。あんな酷いことをしたこの悪魔のことを許してくれるらしい。なんて良い子達なんだろう。そして、その優しさを悪用しようと企んでいる自分がいる。もしこの光景を見ている神様がいるのであれば、きっと死後の私を地獄に堕とすに違いない。
持永紬の母親が亡くなったのは、彼女がまだ小学生になったばかりの頃だった。死因は自殺。納戸に取り付けられた、子供の背丈くらいの手すりに紐を括って首を吊っていたという。知らなかったけれど、高いところに括らなくても首吊りはできるようだった。そのうえまだ亡くなったばかりだったからか、座って寝ているだけだと思った七歳のツムギは何度も『起きて』と言いながら彼女の身体を揺らしたらしい。それから三年くらいは、どこかで母親がまだ生きていると信じて疑わなかったそうだ。
ツムギが中学に上がった頃から反社会勢力に関わるようになったツムギの父親は、彼女が中学二年の頃に再婚した。入籍の時には既に二人の子供が産まれていて、再婚相手の女がずっと面倒を見ていたという。けれどその翌年、彼女は亡くなった。事故死だったらしいけど、本当は殺されたんだとツムギは言う。
「瑠美さんが亡くなってから、お父さん、急に私に色々買い与えてくれるようになったの。きっと、そういうことだと思う」
遺産目的なのか保険金目的なのか……はっきりとはしなかったけれど、それ以上は訊かないでおいた。まあ反社と関わっていたのだとすると、生命保険の線は薄いのかもしれない。とにかくツムギは、父親のことを周りに知られたくないのだ。確かに家族がヤクザだなんて、自分が同じ立場だったとして絶対に知られたくない。学校でも彼女には何人もの友達がいるが、それらも叶わない夢物語になっていたはずだ。逆に考えると、ツムギはこれまで相当上手くやってきたとも言える。反社との関わりをここまで隠し通せるだなんて、私には考えもよらないほどの並々ならぬ努力をしてきたに違いない。
すっかり暗くなった荒廃した公園で、ツムギと夏菜子がベンチに座っている。私は二人に対面する形で、その場にしゃがみ込んでいた。
「そっか、辛かったね……事情を知らずに責めたりしてごめん。でも大丈夫だから。絶対に誰にも言わないし、今まで通り接する。安心して」
「うんうん……ありがとう……」
あれだけ暴力を振るわれて罵倒されたのに、何故だか感謝を述べているツムギ。そして一部だけれどそれを見ていたはずの夏菜子も、すっかり私に傾倒してしまっていた。信頼を築くは一生、壊すは一瞬という言葉がある。あれは嘘だ。確かに信頼を築くには時間が掛かる。けれど上手くしっかりと信頼を築くことができれば、余程のことがなければ崩壊することはない。それを証明した瞬間だった。まったく、人間の単純さに呆れ果てた。
「良かったね、ツムギ」
夏菜子がツムギの背中をさすっていた。彼女の優しい表情が、心からの善意での介入だったことを物語っている。夏菜子を見ていると、わずかに吐き気がする。こんなのが友達なのに、よくツムギは今まで普通に生きてこれたな、と感心してしまう。私は、夏菜子のことが嫌いになった。
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