第五話 河瀬春輝
視点 : 河瀬春輝
【9月11日(水)】
駅舎に張り付く夏蝉が、今日も鼓膜に突き刺さる。深遠の青空には、壮大な積乱雲が聳え立つ。まだ夏は終わっていないんだと、額の汗とともに実感させられた。
「はるくん、やっほ〜」
「……ああ」
ただでさえ騒がしいのに、さらに煩い奴がここに一人。柳川咲良もまた、額を汗で濡らしていた。今日も始発登校、教室で勉強か。真面目な奴だ。まあ確かにあの大学に行くのであれば、それくらいはしなければまず受からないのだろう。もう少しレベルを落とせばいいのに、と助言したいところだったがやめておいた。意外にしっかりしている奴だし、彼女なりにきちんと考えた結果なのだろう。恋人でも想い人でもあるまいし、余計な口出しはしないことにした。それに、今日はどうも気分が上がらない。あまり積極的に他人と話す気分にはなれないのだ。
「ねえねえ、昨日から元気なくない? 何かあったんでしゅか〜?」
「……」
俺のことを揶揄って、馬鹿みたいに笑いだした。確かに最近、こいつと会う時はいつも憂鬱な気がする。まさかこいつに生気でも吸われているんじゃないかと馬鹿な妄想をしていた。
雪崩れ込んできた電車に乗り込み、いつものように窓際に座る。咲良はやはり隣を陣取った。
「で、何悩んでんの?」
急に真面目になる咲良。ずっとにへら笑いをしていたのに、今は彼女なりの真剣な表情をしている。座席の肘掛けに置いた腕にこめかみを乗せ、こちらに流し目を向けていた。
「別に悩んでない」
「悩んでる!」
「……」
咲良は他人の心を察する能力に優れている。これまでの経験で、それが事実なのは身に沁みていた。
「はあ……吹部のことなんだけどさ。いや、吹部のことじゃないのか?」
「何言ってんの? ちゃんと話して」
確かに部活の話ではあるが、別に部活に限った話でもない。これは彼女の学生生活の話だ。
「持永……いるだろ?」
「ああ、ムギね」
「おう。持永、よく遅刻してくんだろ? で、どうしてか訊いてみたんだけどさ、濁されて。何か悩んでるっぽいんだよ」
「ふうん。あのムギちゃんがねえ……」
あの子に悩みがあるだなんて到底思えないけど、といった表情。まあ、俺もそう思う。だが、昨日の持永は明らかに普段とは違った。いつもは説教後も明るく謝罪する癖に、昨日の彼女には取り繕えないほどの陰鬱さがあった。俺はそれが彼女の決死のSOSに見えて、あれからずっと心配で堪らないのだ。しかし咲良の次の言葉を聞いて、心底落胆してしまった。
「あんた、もしかしてムギのこと好きなの?笑」
「……」
嫌なニヤけ顔をしながら、俺の腕に指を突き刺してくる。ああ、ムカつく。真面目に話してんだから、真面目に聞けや。怒りを表現するため、彼女に渾身の舌打ちを聞かせてやった。
「冗談だよ。分かった、私から上手く訊いてみる。続報を待たれよ」
「……ああ、頼む」
最後にまたふざけやがったが、一応ちゃんと分かってはくれたらしい。本当は自分で訊くべきなのだろうが、どうもあれから避けられているような気がしていた。それに異性には話せないことなのかもしれないし、咲良は相談を受けるのが得意な奴だし。中村に訊いてみるという案もあったが、今はこいつのことを信頼してみることにした。
その日の持永は時間通りに朝練に来て、普段通りに練習していた。昨日のような暗さは欠片も無く、いつもの元気で阿呆な持永紬。教室でも部活でも何事もなく、それどころか昼休みには俺のことを揶揄いにまで来やがった。咲良が相談に乗ったのかは分からないが、まあ大丈夫なのだろう、とひとまずは安心したのだった。
「よっ、春輝くん」
「なんだ、お前かよ」
なんだとはなんだ、と口を尖らせている咲良。今日の彼女は、下校最終時間まで教室で机に向かっていたらしい。毎日毎日勉強ばかりして飽きないのかね、と昨日馬鹿にされた仕返しをしてやりたかったが、まずは気になることがある。
「それで、持永と話したか?」
「さあね〜」
両手を広げて、首を傾げている。嫌いだ。俺は本気で心配しているんだが? まあしかし昼の調子から察するに、杞憂に終わってくれるような気がする。
「ちゃんと訊いたよ。どうして寝坊してるのかも聞いたし」
「教えてくれ」
「やだ」
「……」
なんなんだこいつは、ふざけてるのか? ただでさえ寝不足で機嫌が悪いんだから、あまりイライラさせないで欲しい。横目で咲良のことを睨む。本気で怒っていると察してくれたのか、彼女は戯けるのをやめた。
「……ごめん。でも、条件がある」
「条件?」
「うん。条件を呑んでくれるんだったら、教えたげる」
「なんだよ、条件って」
尋ねると、どうしてか黙ってしまった。自分から言っておいて、訊かれたら黙るのか。何を考えてるんだ、こいつは。覚悟が決まったのか、咲良がこちらに向き直った。
「……土曜の祭り、春輝と一緒に行きたい」
普段の半分ほどの声量でそう言った。いや、呟いた。珍しくしおらしいうえ、俺の名前を呼び捨てていた。
「行きたいのは山々なんだけどさ、無理って言っただろ。部活、夜9時まであんだぞ。花火も終わってんだろ」
確か花火は夜7時半からだった。そんな長時間やるものでもないし、田舎の祭りだから会場に着いた頃には屋台も撤収し始めているだろう。
「花火なんか別にいい。祭りに行きたいだけだから」
「だったら友達と行けよ。それか、好きな男でも誘って……」
「うるさい!!」
「……」
何怒ってんだよ。俺、怒らせるようなこと言ったか? 単純な奴なのに、たまに理解できないんだよな、こいつのこと。
「とにかく、行こうよ。土曜日、うちらの最寄りで9時半。待ってるから」
「ああ……まあ、分かった」
帰りは遅くなるだろうが、少しくらいなら構わない。持永のことはちゃんと訊いてくれたらしいし、そのお礼だと思えば安いものだ。
「……それで、持永は?」
「ゲーム」
「ゲーム……?」
「そ。最近流行ってるでしょ、ヒュマス。ハマっちゃって、毎日夜中までやってんだって」
思い返せば、前に持永がヒューマンマスターの話をしていた気がする。そうか、ゲームか。いかにも彼女らしい理由だった。あの朝の暗さはつまり寝不足によるものだったということか。持永の表情を思い出すと単なる寝不足とは結びつかないような気もしたが、俺の心にはすっと落ち着いた。睡眠不足は本当に辛い。中学時代ストレスによる不眠症だった俺には、その辛さが痛いほどに分かってしまったのだ。
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